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第66話 明日の約束

 夕日が、水平線に半分沈んでいる。

 空の半分が橙、半分が薄い紫。境目の辺りで、ふたつの色がゆっくりとほどけ合っていた。雲がほんの少し流れて、その輪郭の縁から、最後の黄昏が滲み出すように光る。

 砂浜の上に、足元から伸びる影が長く伸びていた。

 歩き出すと、影は少しだけ前を歩く。海から遠ざかる方向に、それぞれの足の動きに合わせて、伸びたり縮んだりした。

 言葉は、もうほとんどない。

 明日のことを、ふたりとも口にしなかった。何時にするとか、場所をどこにするとか。決めなければならないことはあるが、それを今ここで話し合うのは違う気がしたのだ。約束は、もうできた。詳細は、後で詰めればいい。

 明日、一緒に花火に行く──その事実を、それぞれに胸の中で噛み締める。それで、十分だった。

 波打ち際を、並んで歩いた。

 時々、波が足元の少し先まで届いては、また引いていく。砂が湿ったり乾いたりを繰り返し、靴のかかとが、その水分を含んだ層をかすかに掬っては、また落とした。

 その時。

 ふたりの間で、ほんの一瞬、ちょん、と何かが触れた。

 汐織の小指が、麻貴の小指の側面に、引っ掛けるみたいに当たって、すぐに離れたのだ。

 握ったわけではない。繋いだのでもない。

 一瞬だけ小指繋ぎみたいになって、ほどけた。

 それだけ。

 ……それだけのはずだった。

 麻貴は咄嗟にそちらを向いたが、汐織はすでに前を向いていて。何でもない、みたいな顔をして歩いている。でも、その髪からはみ出た耳が、しっかり赤く染まっていた。

 ……絶対に、わざとだ。

 わざとなのに、顔を赤く染めながら何食わぬ顔をしていた。そんなに恥ずかしがるくらいなら、最初からやらなければいいのに。でも、きっと。こんなちょっとした悪戯心も、篠宮汐織を形作るもののひとつなのだろう。


(マジでさ……汐織のこういうとこ、ほんとずるいよなぁ)


 麻貴はふっと小さく息を漏らし、心の中だけで愚痴る。

 明日の花火を「一緒に」と誘った、その直後にこれだ。散々負担をかけたばかりの心臓に、これ以上の追い打ちをかけてくるな、と言いたかった。

 こんなことをされ続けたら、自分は本当に、一生この子のことを好きでいてしまう。

 自覚はあった。むしろ、既にある程度はそういう前提で、自分の中で計画ができあがっていたとも言える。

 でも、こうやって不意打ちで小指を引っ掛けられると、その「ある程度の前提」が、ぐぅっと一気に押し上げられてしまうのだった。

 砂浜の中ほどから、ふたりは黙って線路の方角へ折れた。

 波音が少しずつ遠くなって、代わりに、レールを軋ませる車輪の音がはっきりとしてくる。二両編成の車両が、炎色の中をゆっくりと滑っていくのが見えた。

 夕日は、ふたりの影をひとつにしたり、離したりして、それを何度も繰り返していた。


       *


 羽瀬ヶ崎の駅に着く頃には、空はもうほとんど紫に変わっていた。

 西の端にだけ、しがみつくみたいに茜色が残っている。改札の上の蛍光灯が、いつものように味気ない白い光を落としていた。駅前のロータリーには人影もまばらで、夏の夕方というよりは、もう夜の入り口といった空気感だ。

 今日はさすがに、いつものように「うちで」とはならなかった。

 お互い汗をかいているし、ジャージ姿のままだ。さすがに、あの誘いのあとにうちでシャワーを浴びるという気にもならないだろう。

 何より、この空気でいつもの台所に並んだら、料理どころか、たぶんずっと無言で立ち尽くす羽目になる。想像するだけでも気まずかった。

 今日の夕飯は、簡単なものを作るか、スーパーの総菜で何とかするしかないだろう。

 帰り際に、汐織はぴたりと改札の手前で立ち止まった。

 鞄を肩にかけ直してから、躊躇いがちにこちらを見上げる。


「あの。明日だけど……待ち合わせ、何時にする?」


 そうだった。約束それ自体に意識が向き過ぎて、まだ肝心なことを決められていなかった。

 麻貴は鼻のあたりを軽く掻いてから、できるだけさらっと答えた。


「夕方……六時くらいに、鎌蔵駅でいい?」

「鎌蔵?」


 汐織が、不思議そうに首を傾げた。


「百合ヶ浜駅じゃなくて?」

「ああ。鎌蔵で間違いない」


 その反応は、想定済みだった。

 明日の鎌蔵花火大会は、百合ヶ浜海水浴場で打ち上げられる。全長九百メートル弱のあの砂浜は、夏には海水浴客で、花火の日にはさらに花火目当ての客で、それはもう人で埋まる。最寄り駅は、もちろん百合ヶ浜駅。ほとんどの人間が、そこに集まる。

 花火を見るだけなら、百合ヶ浜が一番無難だ。ただ、人が多すぎる分、少々ムードには欠ける。麻貴は言った。


「どうせなら、快適な場所で見たいだろ?」

「……いい場所、知ってるんだ?」


 少し感心したように、汐織が目を細めた。


「こう見えて、鎌蔵生まれだからな」


 ほんの少しだけ、どや顔で言ってみせた。

 子どもの頃に地元の友達と走り回って遊んだお陰で、麻貴の頭には、ネットの観光サイトには載っていない穴場スポットがいくつかあった。海岸線を少し外したところにある小さな高台や、地元民しか知らないような防波堤の角。この時期には、自転車を走らせて毎年どこかで花火を見たものだ。

 それに、もうひとつ理由があった。

 百合ヶ浜は確かに花火の本会場で、見やすさは申し分ない。だが、人が集まり過ぎて、花火終了後がとにかく地獄なのだ。駅まで戻るのに一時間以上はかかるし、電車だって超満員で乗れない。一時間ぎゅうぎゅう詰めの道やホームで突っ立って、座れない車両に揉まれて帰る──そんな終わり方を、明日に限ってはしたくなかった。

 鎌蔵駅は始発駅だ。そこから少し離れて見られる場所を選べば、帰りの電車も座れる。どうせ百合ヶ浜駅で満員にはなるだろうが、座れてさえいれば快適に帰れるはずだ。


「……うん、わかった」


 汐織は、全てを察したかどうかまではともかく、しっかりと頷いてくれた。その瞳には、麻貴への確かな信頼。今の「わかった」には、あなたの言うことなら信じる、という別の返答があるように思えた。


「じゃあ……明日、六時に鎌蔵駅で」

「おう」


 短いやり取り。

 ただ、その短さが、なんだかいつもより少しだけ重かった。「明日」と口に出すだけで、心臓がまた小さく跳ねる。

 そこへ、ちょうど藤澤方面の電車が、ホームに滑り込んできた。

 汐織が一度、改札の向こうのホームを軽く見やる。


「あ、来ちゃった」

「乗っとけよ。次のだと結構待つだろ」

「うん」


 頷いて、汐織は改札を抜けようとして、二、三歩進んだところでふと足を止め、振り返った。

 長い髪が、夜の風にゆるく揺れる。

 彼女ははにかんで、こちらに小さく手を振ってみせた。

 胸の前で、手のひらを軽く開いて。それは、振った、というよりも、見せてくれた、というほうが近かった。

 麻貴も、ぎこちなく手を上げることで応える。

 汐織が小さく笑って、小走りでホームに向かった。電車のドアが開いて、その足で車内に乗り込む。少し奥まで進んでから、こちらに向かって、もう一度だけ手を振った。

 扉がすうっと閉まって、電車はゆっくりと走り出す。藤澤方面へ流れていく二両編成のテールランプが、夜の中に小さくなって溶けていった。

 それを見届けてから、麻貴はホームに背を向ける。

 駅前では、街灯がぱちぱちと点き始めていた。

 頭上の空はもう、紫から藍色に変わりかけている。夕焼けの残滓も、最後のひとかけらが微かに残っているだけだ。

 ふと、麻貴はポケットに手を入れた。

 指先に、財布の硬い角が当たる。その奥に、小さな金属のキーホルダーが収まっているのが、感触で何となくわかった。

 彼女の名前が彫られた、観光地のキーホルダー。あの売店で、半ば苦し紛れに買って、勢いで名前を彫って、それでも、交換した時には妙にずっしりと感じたあれ。

 そのキーホルダーが、さっきよりも随分軽やかになっていた。

 質量そのものが変わったわけではない。物理的には、何ひとつ違わないはずだ。


(……ああ、そういうことか)


 麻貴は、ひとつ短く息を吐いた。

 これまで、この小さなキーホルダーは、麻貴の覚悟そのものだったのだと思う。財布の中で何かを持ち上げる時、ふと指先に当たって、その度に「お前、ちゃんと向き合えよ」と、無言で背中を押されている気がしていた。

 でも、明日の約束ができた今、もはやその圧はない。枷ではなくて、今はお守りのようなものに変わっていた。

 明日が来るのが、こんなにも楽しみで、こんなにも怖い。逃げる気は、もうなかった。

 ポケットの中で、キーホルダーをひと撫でしてから、麻貴は歩き出した。

 夜の入り口の空気の中、坂の方へ続く道に、自分の影が長く伸びている。蝉の声はいつのまにか虫の音に変わっていて、潮の匂いと、夏の宵の匂いが混ざっていた。

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― 新着の感想 ―
全てのエピソードを汐織ちゃん視点の描写で書かれたものを読んだら、それはそれで凄くエモいんだろうなあ。読んでみたい。
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