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第65話 花火への誘い

 砂浜は、夕暮れの色を少しずつ深くしていった。

 水面は橙と金をまだら模様に散らしていて、波打ち際から離れた湿った砂のあたりに、ふたり分の足跡が並んでいく。互いに歩幅を合わせているわけではないのに、なんとなく揃ってしまうのは、何度も一緒に歩いた成果なのかもしれない。

 会話はなかった。

 無言。ではあるのだけれど、それが気まずいかというと違っていた。

 どちらかというと、恥ずかしさのほうが上だ。借り物競争のことも、教室のことも、口に出した時点でどちらかが死ぬ、というのが正解に近い。今、ここで「さっきはありがとな」「いや、こちらこそ」みたいな会話を始めた途端、ふたりとも煮えたぎった鉄板の上に立たされてしまうだろう。だからこそ、ここでは口を噤むのが賢明に思えた。

 ただ、その無言が居心地悪くないのは、不思議だった。

 台所で並んで食器を洗っている時の温度に、よく似ている。蛇口の水音と、食器のかちかちぶつかる音と、たまの相槌だけで成立する、あの感じ。今は、その代わりに波の音と、砂を踏む足音と、線路の遠くを走り抜ける江ノ電の音がある。

 また風が吹いた。

 今度は少し強めの風で、汐織の長い髪がぶわっと巻き上がる。

 彼女は片手で髪を押さえて、もう片方の手でほつれた前髪を直した。直し終わると、右手はそのまま、ぶら下がるように下ろされる。

 麻貴の左手も、もちろん空いていた。

 ふと、視界の端に汐織の指先が映って、麻貴は顔を慌てて前に戻す。


(……いや。さすがにこのタイミングはないだろ)


 心の中で、自分に言い聞かせる。

 今ここで手でも握ろうものなら、それこそ「鉄板の上」直行だ。今日はもう、十分やった。借り物競争でも、ゴールに走り込んだ短い時間とはいえ、学校の何百という視線の中で、彼女とは手を繋いでいたのだ。一日にやれることには、限度というものがある。

 というより、今日、ここで安易に繋いでしまったら、明日の意味がぼやけてしまう。麻貴の中で、明日にやるべきことがちゃんと別にあって、その時にこの手を差し出さないと、順番が崩れる気がした。

 ただし、問題がある。その「明日にやるべきこと」を、まずひとつ、汐織に提案しなければならなかった。

 左手は空いたまま、麻貴は歩を進める。

 汐織もこちらをちらりと窺ったような気はしたが、何も言わず、同じように歩いていた。もしかしたら、汐織も似たようなことを考えていたのだろうか。


(ったく……何言ってんだか)


 恥ずかしいくらいに、自意識過剰だ。でも、それでよかった。

 今日のうちは、これくらいでちょうどいい。

 遠くの空が、ただの夕焼けではなくて、燻った炭のような暗い赤を帯び始めていた。海の上に長い茜色の道が一本伸びていて、その道の上だけ波頭が小さく金色に光る。

 砂浜の中ほどまで来たところで、麻貴は何の前触れもなく足を止めた。

 別に、決めていたわけではない。ただ何となく、ここだ、と感じて、その感覚に従っただけだった。


「……麻貴くん?」


 長い髪を風から守るように片手で押さえながら、汐織が振り返り、小首を傾げた。

 その横顔に夕日が当たっていて、白いはずの肌が黄昏色にうっすら染まっている。耳のあたりに、汗で湿ったおくれ毛が一筋貼り付いていた。

 心臓が、うるさい。午前中の百メートルを走り終えた直後よりも、ずっと速く打っていた。

 グラウンドの砂を蹴った時とは、違う種類の速さだ。あの時は身体ごと前に出ようとしていた。今は、その逆。身体は止まろうとしているのに、心臓だけが先に走り出していた。

 ……ここで止まれば、また保留が続く。

 教室で詰め寄られた時、自分の中ではっきりさせたはずだ。これ以上、汐織を矢面に立たせるのは違う、と。

 あの場で全部受け止めてくれた汐織に、こちらが「いや、まだ」を続けるのは、有り得ない。男じゃない。

 息を、ぐっと吸い込む。

 潮の匂いが、ひと息分。胸の真ん中にすうっと届いて、そこで一拍止まる。麻貴はそれを、ゆっくり吐き出した。

 声は、できるだけ普段通りに。普段通りに、なんてことのない用件みたいに、訊こう。それだけ。


「あのさ、汐織」

「なあに?」

「明日って、空いてる?」


 風が、少し強めに吹いた。

 汐織が髪を押さえる。足元の砂が、ふたりの間から微かに飛んで、それから静まった。


「明日?」


 一度繰り返してから、彼女はほんの少しだけ目を伏せる。

 頭の中で予定を引っ張り出している間でもあったし、もっと別の何かを確かめる間でもあった。彼女がその時、何を考えたのかはわからない。でも──。


「……うん。空いてる、けど」


 顔を上げて、控えめに頷く。

 その間が一瞬だったので、ほとんど即答に近かった。もしかすると、汐織は最初からそう答えるつもりで、何かを「空け」ておいてくれたのかもしれない──そんな都合のいい妄想を頭の隅でしてしまって、麻貴は内心で苦笑する。

 いや。今はそんなことを考えている場合ではなかった。

 もう一度、ひと息。まだここで終わりなわけではない。

 今度は深く、肺の底まで潮の匂いを入れた。

 胸の奥で、なにかひとつ、しっかりと押し固める。


「あのさ。明日の花火大会、一緒に行かないか?」


 言った。言い切ったところで、もう一度、強い風が砂浜を抜けていった。

 声は、震えなかった。

 誘うだけだ、と心の中で決めていた。浴衣で来てくれ、とは言わない。ふたりだけで、とも言わない。隼太や沙子も一緒に、というのなら、それでも構わない。ただ「一緒に」。それだけを、言葉にした。

 告白は、明日。花火大会で、ちゃんとする。仮に隼太たちがいても、少し席を外してもらえばいいだけだ。それぐらい、あいつらなら空気を読んでくれる。

 ただ、もう賽は投げられた。これでもう、引っ込められない。

 汐織は、数秒ぽかんとしていた。

 ジャージの袖を握る指先と、押さえた髪。視線だけが、麻貴の顔の上で何かを探すように、ほんの少し揺れていた。

 それから、目をぱちぱちと瞬かせて。

 頬が、夕日のせいだけにはできないくらい、徐々に赤くなっていった。


「……うん。行きたい」


 彼女が、小さく、でも、しっかりと頷いた。

 はにかんだ口元と、まだ少し信じ切れていないような瞳。それでも、声の真ん中だけが、はっきりしている。

 そして、ほんの少しだけ間を置いてから、汐織はもう一度、こちらをまっすぐ見て言った。


「麻貴くんと花火、行きたいな」


 嫣然と、本当に嬉しそうに微笑んで。

 たった今、自分自身の意思で選んだみたいな顔で、彼女はそう言ってくれた。


(……よかった)


 心の中で、麻貴は短く息を吐いた。

 吐いた息は、来た時より少しだけ軽くて、けれど身体の奥がじんと熱い。

 もう、これでひとつ、先に進んだ。

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