第64話 夕方の砂浜で
校門を出ると、夕方の風がふわりと頬を撫でた。
午後の喧騒が嘘みたいに引いていて、グラウンドの方から、まだ片付けに残っている運動部の声が遠く聞こえてくる。蝉の声がそこに重なって、夏の輪郭をなぞるように、絶え間なく鳴いていた。
校舎を出るまでの廊下では、執拗に突き刺さってくる視線がそれなりに鬱陶しかった。でも、校門の外に出てしまうと、それもすっと薄くなる。一歩跨いだだけなのに、ひとつ世界が変わったみたいだ。
麻貴は、隣を歩く汐織をちらりと窺った。
ジャージのまま、鉢巻きだけを外した姿。長い黒髪は下ろしたままで、風に靡かせている。肩のあたりに張り詰めていたものは、すうっと抜けていた。
校舎の中ではぴしっと背筋を伸ばして歩いていたくせに、外に出た途端、少しだけ歩き方が緩い。それがなんだか可笑しくて、内心でひとつ息を吐く。
(こいつの方が、よっぽど疲れてたんだろうな)
あれだけのことを、教室の真ん中でひとりでやってのけたのだ。男子の包囲網に、たった一言で蓋をした。思い返せば、隣の歩幅が緩んでいるのも当然だった。
駅前のロータリーに差し掛かった。
いつもならここで改札のほうに足を向けるところを、そのまま直進して横断歩道の手前で立ち止まる。
信号が青に変わって、ふたり並んで横断歩道を渡った。海沿いの国道を一本越えれば、そこからはもう砂浜だ。八ヶ浜から羽瀬ヶ崎までは、線路と砂浜が並走している。歩いて帰ろうと思えば、ずっと波打ち際を行けてしまうのだ。普段はわざわざそんな選び方をしないが、今日に限っては、それが一番しっくり来る選択だった。
防波堤の階段を降りるや否や、足の裏に砂の感触が伝わる。
潮の匂いが、急に濃くなった。
午後の終わりの海は、眩しいくらいに穏やかで。波の音が、ざあざあと耳の中に滑り込んでくる。
汐織が、海のほうに数歩、軽く駆けていった。
「ん〜っ……気持ちいい」
両手をぐっと上げて、海に向かって大きく伸びをする。
ジャージの背中に、夕方の陽が差していた。毛先が、ふわりと風に攫われる。背伸びの拍子に、ジャージの裾がほんの少しだけ捲れて、白い腰のあたりがちらっと覗いた。
慌てて視線を逸らす。
(……だから、無防備すぎるんだって、お前は)
心の中でこっそり呟いて、肩から鞄をかけ直した。
風はあった。潮を含んでいるはずなのに、不思議とべたつかない、乾いた風だ。今日は相変わらずよく、体育祭の余韻が空気の中にまだ漂っている。
伸びをしたまま、汐織がくるりとこちらを振り返った。
「あの時以来だね、海」
目を細めて、そう言った。
確かに。毎日見ている海だが、ふたりで浜辺に降りたのはあの時以来だ。
「……そういえばそうだっけ」
答えてから、麻貴も視線を海のほうへ流した。
あの時──運行停止に巻き込まれた、土曜の夜。掃除を手伝いに来てくれた汐織を駅まで送ろうとしたら、電車が止まっていた。そこで、汐織が「海行って時間潰そ?」と提案してくれたのだ。
夜の海は黒くて、波打ち際の少し先までしか見えなかった。遠くで街明かりが揺れて、流木に躓いた汐織を支えたら、鼻先が触れそうなところまで距離が縮まったのだ。思えば、あそこで自分の中の何かが確実に切り替わった気がする。
あれは、確か一か月前くらいだろうか。
たった一か月。それだけしか経っていないのに、随分と昔の話に思えてしまった。それほどまでに、ここ最近は密度が濃すぎたのだ。
「ゆっくり歩こっか」
「だな」
麻貴は短く答えてから、付け加えた。
「なんだかんだでめちゃくちゃ疲れたな、今日」
「私も。そんなに競技は出てないんだけどなぁ」
汐織は困ったように笑って、片手で髪を軽く押さえた。
肉体的な疲れというより、精神的な疲れの方が大きいのは、たぶんお互い様だ。あの教室の包囲網を、軽口ひとつで弾いてみせたとはいえ、無傷で済んだわけではない。あれだけの数の視線を一身に受けて、よくもまあ、いつもの声で「一緒に、帰ろ?」なんて言えたものだ。
いや──もしかすると、汐織はこういうのに、麻貴よりずっと慣れているのかもしれない。
学校一の美少女、というラベルのもとで彼女がずっと浴びてきたものを思うと、今日のあれくらいで揺らぐような神経ではないのだろう。
だとしたら、それはそれで凄い精神力だ。麻貴のほうが、今日に至るまでにずっと消耗していた気さえしてくる。
「今日は……色んなことがあったね」
遠く水平線の辺りを見つめて、汐織がぽつりと言った。
「ああ。マジで、色々ありすぎた」
「ほんと。明日は何があるんだろ?」
ふふっと小さく息を漏らし、こちらに笑顔を向ける。少しだけ楽しそうな声音だった。
明日に何があるのかは、まだわからない。先のことは、その日にならなければわからないものだ。けれど──自分が何をするか。それだけは、もう決めていた。
決めているのに、それをこの口から出すには、まだほんの少しだけ勇気が足りない。
いや、それを言うべき場所と空気を、まだ自分の中で見定めきれていないだけだ。今、唐突に切り出すのは、たぶん違う。
もう少し歩いてからで。
もう少し、海と並んでから。
そう自分に言い聞かせて、汐織の隣へ歩幅を合わせた。




