表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
64/71

第64話 夕方の砂浜で

 校門を出ると、夕方の風がふわりと頬を撫でた。

 午後の喧騒が嘘みたいに引いていて、グラウンドの方から、まだ片付けに残っている運動部の声が遠く聞こえてくる。蝉の声がそこに重なって、夏の輪郭をなぞるように、絶え間なく鳴いていた。

 校舎を出るまでの廊下では、執拗に突き刺さってくる視線がそれなりに鬱陶しかった。でも、校門の外に出てしまうと、それもすっと薄くなる。一歩跨いだだけなのに、ひとつ世界が変わったみたいだ。

 麻貴は、隣を歩く汐織をちらりと窺った。

 ジャージのまま、鉢巻きだけを外した姿。長い黒髪は下ろしたままで、風に靡かせている。肩のあたりに張り詰めていたものは、すうっと抜けていた。

 校舎の中ではぴしっと背筋を伸ばして歩いていたくせに、外に出た途端、少しだけ歩き方が緩い。それがなんだか可笑しくて、内心でひとつ息を吐く。


(こいつの方が、よっぽど疲れてたんだろうな)


 あれだけのことを、教室の真ん中でひとりでやってのけたのだ。男子の包囲網に、たった一言で蓋をした。思い返せば、隣の歩幅が緩んでいるのも当然だった。

 駅前のロータリーに差し掛かった。

 いつもならここで改札のほうに足を向けるところを、そのまま直進して横断歩道の手前で立ち止まる。

 信号が青に変わって、ふたり並んで横断歩道を渡った。海沿いの国道を一本越えれば、そこからはもう砂浜だ。八ヶ浜から羽瀬ヶ崎までは、線路と砂浜が並走している。歩いて帰ろうと思えば、ずっと波打ち際を行けてしまうのだ。普段はわざわざそんな選び方をしないが、今日に限っては、それが一番しっくり来る選択だった。

 防波堤の階段を降りるや否や、足の裏に砂の感触が伝わる。

 潮の匂いが、急に濃くなった。

 午後の終わりの海は、眩しいくらいに穏やかで。波の音が、ざあざあと耳の中に滑り込んでくる。

 汐織が、海のほうに数歩、軽く駆けていった。


「ん〜っ……気持ちいい」


 両手をぐっと上げて、海に向かって大きく伸びをする。

 ジャージの背中に、夕方の陽が差していた。毛先が、ふわりと風に攫われる。背伸びの拍子に、ジャージの裾がほんの少しだけ捲れて、白い腰のあたりがちらっと覗いた。

 慌てて視線を逸らす。


(……だから、無防備すぎるんだって、お前は)


 心の中でこっそり呟いて、肩から鞄をかけ直した。

 風はあった。潮を含んでいるはずなのに、不思議とべたつかない、乾いた風だ。今日は相変わらずよく、体育祭の余韻が空気の中にまだ漂っている。

 伸びをしたまま、汐織がくるりとこちらを振り返った。


「あの時以来だね、海」


 目を細めて、そう言った。

 確かに。毎日見ている海だが、ふたりで浜辺に降りたのはあの時以来だ。


「……そういえばそうだっけ」


 答えてから、麻貴も視線を海のほうへ流した。

 あの時──運行停止に巻き込まれた、土曜の夜。掃除を手伝いに来てくれた汐織を駅まで送ろうとしたら、電車が止まっていた。そこで、汐織が「海行って時間潰そ?」と提案してくれたのだ。

 夜の海は黒くて、波打ち際の少し先までしか見えなかった。遠くで街明かりが揺れて、流木に躓いた汐織を支えたら、鼻先が触れそうなところまで距離が縮まったのだ。思えば、あそこで自分の中の何かが確実に切り替わった気がする。

 あれは、確か一か月前くらいだろうか。

 たった一か月。それだけしか経っていないのに、随分と昔の話に思えてしまった。それほどまでに、ここ最近は密度が濃すぎたのだ。


「ゆっくり歩こっか」

「だな」


 麻貴は短く答えてから、付け加えた。


「なんだかんだでめちゃくちゃ疲れたな、今日」

「私も。そんなに競技は出てないんだけどなぁ」


 汐織は困ったように笑って、片手で髪を軽く押さえた。

 肉体的な疲れというより、精神的な疲れの方が大きいのは、たぶんお互い様だ。あの教室の包囲網を、軽口ひとつで弾いてみせたとはいえ、無傷で済んだわけではない。あれだけの数の視線を一身に受けて、よくもまあ、いつもの声で「一緒に、帰ろ?」なんて言えたものだ。

 いや──もしかすると、汐織はこういうのに、麻貴よりずっと慣れているのかもしれない。

 学校一の美少女、というラベルのもとで彼女がずっと浴びてきたものを思うと、今日のあれくらいで揺らぐような神経ではないのだろう。

 だとしたら、それはそれで凄い精神力だ。麻貴のほうが、今日に至るまでにずっと消耗していた気さえしてくる。


「今日は……色んなことがあったね」


 遠く水平線の辺りを見つめて、汐織がぽつりと言った。


「ああ。マジで、色々ありすぎた」

「ほんと。明日は何があるんだろ?」


 ふふっと小さく息を漏らし、こちらに笑顔を向ける。少しだけ楽しそうな声音だった。

 明日に何があるのかは、まだわからない。先のことは、その日にならなければわからないものだ。けれど──自分が何をするか。それだけは、もう決めていた。

 決めているのに、それをこの口から出すには、まだほんの少しだけ勇気が足りない。

 いや、それを言うべき場所と空気を、まだ自分の中で見定めきれていないだけだ。今、唐突に切り出すのは、たぶん違う。

 もう少し歩いてからで。

 もう少し、海と並んでから。

 そう自分に言い聞かせて、汐織の隣へ歩幅を合わせた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ