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第63話 汐織の返答

 汐織はまっすぐ、麻貴のほうへ歩いてきた。

 誰も、口を開かない。いや、開けなかった。

 あれだけ気色ばんでいた男子たちでさえ、彼女の通り道を空けてしまっている。

 いつもの、お淑やかで優しくて、控えめな女の子。それは変わらないはずのに、何故か彼女に対して、物言えぬ雰囲気になっていた。

 麻貴の前まで来ると、彼女はふっと小さく息を整えると──眉を下げて、いつもの困ったような笑みを浮かべた。


「麻貴くん」


 その呼びかけに、男子たちがぎょっと固まった。

 麻貴も、内心でひやりとする。


(え、ちょっと汐織さん? この状況でその話しかけ方は、色々まずくない?)


 しかも、今この教室の空気でその呼び方は、さすがに攻め過ぎではないだろうか。火に油どころの話ではない。

 しかし、汐織は──教室中の視線も、男子たちの困惑や彼女への好意も、まるで意に介す様子がなかった。むしろ、皆に聞かせる意図があるみたいに、いつも通りに話し掛けてくる。

 それから、ほんの少しだけ首を傾げて、こう言った。


「……一緒に、帰ろ?」


 空気が、また止まった。コンマ五秒、教室中が呼吸を忘れる。

 麻貴はその言葉の意味を、一拍遅れて呑み込んだ。

 麻貴に向けた、小さなお願い──のように見せかけて、その実この教室の全員に向けた返事だった。


 ──説明? そんなのしなくていいよ。

 ──これで全部、わかるよね?


 何も言わず、何も返さず。彼女は、たった一言で、それを教室中に伝えたのだ。

 男子たちが何かを言いかけるが、結局言葉を失っていた。

 彼女は声を荒げたわけでも、誰かを責めたわけでもなかった。ただいつもみたいに微笑んで、たった一言、麻貴を誘っただけだ。

 それだけで、この教室の包囲網を、完全に無力化してしまった。自分の立ち位置と言葉の持つ意味を、よく理解している証拠だ。


(全く……だから、凄すぎるんだって、お前は)


 内心で呆れにも安堵にも似た息を吐いて、肩を竦めた。

 なるべく平静を装ってから、鞄を肩に引っ掛ける。


「……ああ。帰るか」


 麻貴はそう返事すると、教室の入り口へと向かった。その半歩後ろを、汐織が黙ってついてくる。

 男子たちは、茫然とその場に立ち尽くしていた。

 女子たちは口元に手を当てて、そのふたりの絵に瞳を輝かせている。

 沙子の方をちらりと見ると、彼女はどこか呆れたように笑っていた。隼太も満足げに「おー」とこちらに見えるように、わざとらしくぱちぱちと小さな拍手をしている。

 ふたりで廊下に出て、引き戸を閉めた。

 その、閉め切った直後。背後の教室から、爆発したような声が上がった。


「おい隼太ぁぁッ!! てめぇ、これどういうことだぁッ!!」

「お前、知ってたんだろ!? 絶対知ってたよな!?」

「説明しろ、説明しろ、説明しろぉッ!!」

「ぎゃーっ!? ちょ、待て、待てって! 俺は、俺は関係な──」


 それを上回る音量で、隼太の悲鳴が聞こえてくる。

 引き戸一枚を隔てた向こうの阿鼻叫喚に、麻貴と汐織は、思わず廊下で足を止めた。

 顔を見合わせて、どちらからともなくぷっと吹き出す。


「……八木くんに全部擦り付けちゃった」

「いや、あいつはあいつで楽しんでたからな。そのツケを払っただけさ」

「もう、麻貴くんったら。ひどい」


  そう言いながらも、汐織は可笑しそうに笑っていた。

 いつも、放課後の台所で見せるのと同じ笑い方だった。

 けれど、学校の廊下でその顔を見るのは、たぶん初めてだ。あの六畳一間の部屋でしか知らなかった表情が、夕方の校舎の廊下に、当たり前みたいに馴染んでいる。

 それが妙にくすぐったくて、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。

 ふたりで並んで、廊下を歩き出す。

 ひとしきり笑ったあとで、ふと汐織の表情が、柔らかくほどけた。さっきまでの笑いの余韻とは、少し違う。もっと奥のほうから、そっと浮かんできたような、静かなものだった。


「……やっと、だね」


 ぽつりと彼女が漏らした。

 意図が読めず、麻貴は訊いた。


「ん? 何が?」

「ううん。何でもない」


 汐織はいつもの困り眉で微笑むと、首を横に振った。

 何でもない、と言いながら、その横顔には、たしかに何かが滲んでいた。麻貴には、その「何か」の輪郭まではわからない。

 わからないけれど、たぶん今日この日まで、彼女がひとりで抱えてきたものと、地続きの言葉だったのだろう。それくらいは、なんとなく、察しがついた。

 訊き返すのは、やめておいた。

 そういうことは、訊かないほうがいい。それが、最初にこの子と交わした、ふたりのルールだ。

 そして。

 ちょん、と袖を摘ままれた。

 手を繋ぐでも、腕を組むでもない。シャツの布の端を、指先でつまんだだけ。でも、その遠慮がちな指先に、彼女らしさが全部詰まっている気がした。


「浜辺の方、お散歩したいな。羽瀬ヶ崎まで歩こ?」


 恥ずかしそうで、それでいて、どこか弾むような声だった。

 ああ、そうか。

 そこで、その言葉の意味が、じわりと胸に染みていく。

 もう、これからは学校から帰るのも一緒でいいのだ。いつもみたいに学校では別々に帰って、電車をずらさなくても、羽瀬ヶ崎のスーパーで集合しなくても。

 堂々と、学校からふたり一緒に帰れる。

 学校から坂を下って、潮の匂いのする遊歩道を。誰かに見られたらどうしようと怯えることもなく、すれ違う人の目を気にして、わざわざ半歩分の距離を空けることもなく。

 内緒にすることの心地良さと不便さを、ずっと感じてきた。いや、心地良さがあったのは、きっと最初だけだ。一緒に待ち合わせて帰れたらいいのにな、と思っていた時の方が、きっと多い。

 それが、今日。

 借り物競争のくじ一枚と、教室での汐織のひと言で、あっけないくらい、当たり前のことになってしまった。

 一緒に電車に乗ることも、一駅分浜辺を歩いて羽瀬ヶ崎までいくのも。全てが、自由だ。

 それに、今日はもう、電車に乗ったらえらいことになるだろう。そう考えると、歩いて帰るのはたぶん正解だった。


「じゃあ、一駅分歩くか」


 麻貴が提案すると。


「──うんっ」


 土曜日に見たのと同じ嬉しそうな笑顔が、零れ落ちた。

 摘ままれた袖の、その小さな重みを感じながら。

 廊下を歩いていけば、すれ違う生徒たちの目が、やっぱり、ちらちらとこちらに集まってくる。さっきの借り物競争の余韻と、たった今の教室での騒ぎ。噂は、もう、校内中を駆け回っているのだろう。明日の朝も、たぶん似たようなものだ。しばらくは、この視線とつき合っていくことになる。

 でも、不思議ともう気にならなかった。

 午前中にぼそぼそと品定めされた時のあのちくちくとした感じも、教室で詰め寄られた時のあの息苦しさも。今は、どこにもない。

 夕方に近づいた廊下の窓から、傾きかけた七月の光が、長く差し込んでいた。

 オレンジ色になりかけたその光が、汐織の黒髪の輪郭を、淡く縁取っている。

 その光の中を、ふたりは、並んで歩いた。

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