第62話 尋問
閉会式は、まるで頭に入ってこなかった。
校長の話も、得点発表も、優勝クラスの歓声も、麻貴の耳の上を素通りしていく。グラウンドの真ん中で整列したまま、麻貴はまだ半分、現実感のないところにいた。
あの数分間が、本当にあったことなのか。
借り物競争のくじ。応援席へ走ったこと。差し出した紙片。握り直された手。汐織の、あの凛とした声。
思い返すたびに、耳の奥がじんと熱くなる。
閉会式が終わって、各クラスがぞろぞろと教室に引き上げ始めた。麻貴は応援席のテントの撤収を手伝いながら、それでもまだ、どこか上の空だ。畳んだパイプ椅子を、危うく自分の足に落としかけた。
「いやぁ、頑張ったなぁ」
ぽん、と肩を叩かれた。
振り向くと、隼太がにこにこと立っている。心の底から楽しそうな、いい笑顔だった。
「まさか、ここまでやると思わなかったぜ。見直したわ」
「……うるせえ」
照れ隠しに、ぶっきらぼうに返す。
その隣で、沙子が、どこかもじもじとしていた。
〝王子〟らしくない仕草だ。何か言いたげに口を開きかけては、閉じる。それを二、三度繰り返している。
「ほら、〝王子〟。言いたいことあるんだろ。言ってやれよ」
隼太に促されて、沙子は小さく咳払いをした。
それから、一歩、前に出る。
「……さっきのは。かっこよかったよ」
ぼそりと、しかし、はっきりと言った。
「正直、あんなことやられたら……あたしも、ちょっとやばいかも」
言い終えて、沙子はふいと視線を逸らした。
頬が、ほんのり赤い。いつも涼しい顔をしている〝王子〟が、今だけは、完全にただの女の子の顔だ。
「と、まあ〝王子〟もこの有り様だ。実際、お前は本当によくやっ──ぐぼぁッ!?」
隼太が最後まで言い終わるより早く。
沙子の拳が、隼太の鳩尾に、深々とめり込んでいた。
麻貴も喰らった必殺〝鳩尾砕き〟である。
隼太がくの字に折れて、声にならない呻きを上げた。
「な……んで、俺が……」
「うるさいな。茶化すからでしょ」
涼しい顔に戻った沙子が、ぴしゃりと言い捨てる。
その理不尽な光景に、麻貴は思わず吹き出してしまった。
助かった、と思う。
いつもの隼太と、いつもの沙子。今日ばかりは、それがありがたかった。さっきまで宙に浮いていた現実感が、隼太の情けない呻きひとつで、すとんと足元に戻ってくる。
ちなみに、沙子が借り物競争で引いたくじは『最も残念な異性』だった。そこに隼太を連れて行ったものだから、大爆笑を引き起こしていた。尤も、上の空で麻貴はそれどころではなかったのだけれど。
三人で、教室へ向かって歩き出す。
汐織は学年の違う係の片付けがあるとかで、少し遅れてくるそうだ。
「で、麻貴。覚悟はできてるか?」
歩きながら、隼太が、まだ少し腹をさすりつつ言った。
「覚悟って」
「お前、これから教室戻ったら何が起こると思う?」
……ああ。
そういえば、そうだった。
ここから麻貴に待っているのは、ただの地獄だ。
*
二年F組の引き戸を開けると、麻貴は、半ば予想していた光景と対面した。
教室に足を踏み入れるなり、男子が数人、ばっと一斉に立ち上がったのだ。
「箕島ぁぁッ!!」
「お前、どういうつもりだ!?」
「説明しろ、説明っ!」
口々に叫びながら、わらわらと詰め寄ってくる。
完全に、囲まれた。
(……はぁ。やっぱ、こうなるか)
覚悟はしていた。していたが、実際に来られると、それはそれで結構気が滅入る。
ちらりと教室を見回すと、女子たちは半ば呆れた顔で、この男子の群れを眺めていた。
「いやもう、いいじゃん」
「察してあげなよ……」
そんな小声が、ちらほらと女子側から聞こえた。女子側は、おおむね、もう状況を呑み込んでいるらしい。というより、ここ最近の汐織を見て、察していたのかもしれない。
救いを求めて、麻貴は隼太と沙子のほうを見た。
沙子が、隣の隼太の脇腹を、つん、と肘で突く。
「ほら。助けてあげれば?」
「いやー」
隼太は、にやりと笑った。
「もうちょい眺めてようぜ。こんなオモシロ場面、なかなか見れねーって」
「はあ……しーらないよ」
沙子は、深い、深い溜め息を吐いた。
そして、自分の席に座って、肩を竦めた。
(くそっ、あのヤロー……!)
心の中で、隼太に呪詛を飛ばす。
さっきせっかく感謝してやったというのに、見殺しにする気満々だ。
いや、まあ隼太とて根は悪人ではない。本当に麻貴が窮地に陥れば、ちゃんと助けてくれるはずだ。たぶん。きっと。
……助けてくれるよな?
とりあえず、麻貴は両手を軽く上げて、男子たちを宥めにかかった。
「と、とりあえず、落ち着いてくれって。いきなり説明って言われても、何を説明すりゃいいんだよ」
しかし、もちろんその程度で収まる連中ではなかった。
更なる尋問の数々が、麻貴を襲う。
「篠宮さんが大切って、どういうことだよ!?」
「お前、篠宮さんに何したんだ!?」
「あんな、あんないい子に……!」
「弱み握ったとかじゃねえだろうな!?」
あまりの言われように、苛立ちより先に、呆れがやってきた。
弱みって。人を何だと思っているのだ。
だが、呆れが先に来たおかげで、逆に肝が据わった。
あれをやってしまった以上、なあなあで切り抜けられるわけがない。とことんやり合うしかなかった。
「そんなに一気に訊かれて、答えられるわけねーだろ。質問はひとつずつにしてくれ」
麻貴が睨みつけてそう返すと、男子たちは虚を突かれた顔をした。
それから、おずおずと、ひとりが口を開く。
「……いつから、篠宮さんと、そういう関係なんだよ」
「〝そういう関係〟の定義がわからねーけど。まあ、絡みだしたのは、先月くらいかな」
ちゃんと質問には返す。
そういう関係の定義がわからない以上はそれだけしか言えなかった。
別の男子が吃驚の声を上げた。
「せ、先月!? お前、今までそんなの全ッ然わからなかったぞ!?」
「そりゃあ、今のお前ら見てればわかるだろ。汐織に、迷惑かけたくなかったんだよ」
言うと、男子たちが、ぐっと言葉に詰まった。
ちなみに、と、もうひとりが食ってかかってくる。
「……な、何で、名前で呼んでんだよッ」
「お前らの言うそういう関係なら、名前で呼び合うもんなんじゃねえの? 知らんけど」
言いながら、麻貴は、内心でだんだん苛ついてきていた。
何だってこんな、罪人みたいな扱いを受けなきゃならないんだ。
というか。汐織は、こういうレベルの奴からいつもこんな色恋の目で見られ続けてきたのか。不愉快だった時もあるだろうし、怖かった時もあるだろう。
それを想像すると、自分が責められていることより俄然そっちに腹が立ってきた。
「お、おい待て! じゃ、じゃあ、あの土曜日に、篠宮さんが弁天橋でお前と手ぇ繋いでたってのは……!」
「……まあ、事実だな」
「て、てめぇッ! 箕島ぁぁッ!!」
一触即発。
教室の空気がぎりぎりと張り詰めた、その時。
すらっと教室の引き戸が、開いた。
その音だけで、教室の空気が止まる。
戸口に立っていたのは、汐織だった。
ジャージ姿のままだが、鉢巻きはもう外していて、髪は降ろしている。さっきまでの〝体育祭の汐織〟ではなく、いつもの、教室で見る篠宮汐織の佇まいだった。
「し、篠宮さん?」
男子のひとりが、呆けたように、その名を呼ぶ。
誰も、それ以上は声を出せなかった。
汐織が放つ空気が、それを許さなかったのだ。
おそらく彼女は、教室に入る前からこの状況を予測していたのだろう。少しだけ眉を下げて、小さく息を吐く。
(怒ってる、のか……?)
何となく、そんなようなものを感じた。
表情はいつも通り。決して、怒りという感情を振り撒いているわけではない。それなのに、誰も彼女に向かってものを言えなかった。
それはひとえに、彼女の纏う雰囲気が、それを許さなかったのだ。




