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第61話 ふたりが出した答え

 ゴール方向ではなく、観客席へ向かって走り出した麻貴に、グラウンドのざわめきが、ぐにゃりと質を変えた。


「えっ、あいつ、どこ走ってんの?」

「いや、借り物だろ。誰か借りに行くんだよ」

「どこ行くんだ?」

「この方角は……いや、これ篠宮さんのとこじゃね? 絶対そうだって!」


 もう、観客の何割かは、答えに見当がついているらしい。予想混じりの野次が、走る麻貴の背中を追いかけてきた。

 構うものか。もう、そんなのはどうだっていい。

 麻貴は応援席のテントを目指して、まっすぐに走った。その一画に、彼女がいる。

 シートに座っていた汐織は、自分のほうへ走ってくる麻貴に気づいて、ぎょっとした顔をした。だが、すぐに何かを察したように、すっくと立ち上がる。

 驚いた表情。でも、その奥に、何かを期待しているような色が、確かにあった。逸らさずに、まっすぐ麻貴を見つめてくれている。

 遠くから、隼太の声がした。


「おお、まさか引いたか!? 麻貴、いっけぇーッ!」


 別の種目の待機列のあたりからだった。

 隼太も次の競技の待機列で、沙子も借り物競争の待機列にいる。

 そうか。ちょうど汐織が、応援シートにひとりでいるタイミングでもあったのだ。

 全く、神とやらは本当に悪戯好きらしい。

 借り物競争の待機列にいた沙子と、ふと目が合った。こちらを見て、ふっと小さく笑みを浮かべてみせる。何をするつもりなのかは、彼女も察したらしい。

 麻貴はテントの前まで走り込んで、足を止めた。

 息が上がっている。整える時間が惜しくて、それでも一度だけ、大きく呼吸をした。


「麻貴、くん……?」


 おずおずと、汐織がこちらの顔を覗き込んだ。

 期待しているような、どこか怯えているような、そんな目をしていた。


「汐織。これ」


 握っていたくじを、汐織にだけ見えるようにそっと差し出した。

 彼女の視線が、その紙片に落ちる。


『大切な人♡』


 その四文字を読み取って、汐織は驚いたように、ぱっと顔を上げた。

 信じられない、とでも言いたげに、両手を口元に当てている。耳まで、みるみるうちに赤くなっていた。その青みがかった瞳が、じんわりと潤んでいく。

 麻貴はもう一度、深く息を吸った。

 観衆の前だ。何百という視線が、こちらに集まっている。

 でも、これだけはちゃんと訊いておかなければならなかった。無理矢理連れていくわけにもいかない。


「来て、くれるか?」


 声は、情けないくらいに震えていた。

 汐織はその潤んだ瞳で、麻貴の顔とくじの紙片を、交互に見た。それから──。


「……うん。もちろん」


 こくり、と頷いた。

 ほんの小さな頷き。でも、それで十分だった。


「悪いな」


 今更になってバツが悪くなり、麻貴はぽつりと言った。

 彼女が不思議そうに首を傾げる。


「どうして謝るの?」

「いや、だってさ。絶対騒がれるだろ、これ。そしたら迷惑かけるだろうなって」

「え?」


 汐織は一瞬だけきょとんとした顔をして。照れたようにくすっと笑う。


「……そんなの、今更だよ。慣れちゃった」


 そして、小首を傾げてみせた。

 なんでもないことのように、軽く。

 けれど、その「慣れちゃった」のひと言には、人気者として彼女が背負ってきたものが、全部詰まっている気がした。視線に晒されることに、噂の的になることに、慣れざるを得なかったのだ。


「そっか……そうだったな」


 麻貴は、それだけ言って。

 意を決して、汐織の手を引いた。

 指先で、軽く彼女の指を掴むだけ。そのつもりだった。これは競技だから、と、自分に言い訳をしながら。借り物競争で、借りたものを連れていくだけ。それだけのこと。そういう体裁で。

 しかし。

 汐織は、その手をするりと握り直してきた。

 指先だけの、おざなりな繋ぎ方ではなく。

 指と指を、深く絡める繋ぎ方。

 あの、稚児ヶ淵と同じ。そう……恋人繋ぎだった。


「──ッ!?」


 慌てて、汐織のほうを振り向く。

 彼女は顔を真っ赤にしたまま、俯きがちにこちらを見上げる。

 そして、小さな声で。でも、はっきりと、こう言った。


「……私が同じくじを引いても、麻貴くんのところに、行ったから」


 伏目がちで。消え入りそうな声量なのに、その芯だけは、凛としていて。

 その言葉は、すっと麻貴の胸に届いた。

 それは、観衆に向けた言葉ではない。

 麻貴に向けた、麻貴だけのための言葉だった。

 だが、すぐ近くにいた観客の何人かには、確実に、届いてしまっていた。


「えっ、ちょっと、今なんか、すごいこと言ってなかった!?」

「いま、なんて言った? 聞こえた?」

「篠宮さんが、自分から……?」


 ざわめきが、波のように広がっていく。

 その波が、グラウンド全体に伝播するのに、そう時間はかからなかった。

 グラウンドが、一気に沸いた。

 女子席から、悲鳴じみた黄色い声。

 男子席からは、怒声と呻きの入り混じった、地鳴りのような声。

 その混沌を、隼太の声が貫いていく。


「おら、麻貴! とっとと男見せろやぁぁーッ!!」


 そして、視界の端。

 いつのまにか待機列から進み出ていた沙子が、両手で口元を覆って、立ち尽くしていた。

 涼しい顔の〝王子〟が、今だけは、ただの女の子の顔をして、こちらを見ている。

 一気に恥ずかしくなってきた。


「とりあえずッ。は、走るぞ」

「う、うんっ」


 手を繋いだまま、ふたりでゴール地点へ走り出す。

 汐織は走り慣れていないのか、それとも緊張のせいか、少し歩幅が合わなかった。引っ張りすぎないように、置いていかないように。麻貴は彼女のペースに合わせて、リードする。

 繋いだ手のひらが、いつもよりずっと、熱かった。

 会場じゅうの視線が、ふたりに集中していた。

 その重さは、午前中にスタートラインで感じたものとは、比べ物にならなかった。でも、不思議とさっきほど嫌ではない。

 それはきっと、隣に汐織がいるからだ。

 ゴール地点には、体育祭実行委員の女子が、マイクを持って待ち構えていた。

 麻貴が差し出したくじを覗き込んで、その子はこれでもかというくらい、顔を輝かせる。

 そして、勢いよくマイクを口に当てた。


「えーっと、くじは……『大切な人♡』ですッ!!」


 会場が、一段と大きくどよめいた。

 実行委員の女子は、それはもう楽しそうに、マイクを汐織のほうへ向ける。


「篠宮さんは、これ──いいんですか?」

「えっ……!?」


 まさか、自分にマイクを向けられると思っていなかったのだろう。汐織は驚いて、居心地悪そうに俯いた。

 しかし、ゆっくりと顔を上げて。


「……はい」


 しっかりと、頷いた。

 一瞬の静寂。そして──。


「ゴール認定ですッ!」


 実行委員の満面の笑みと同時に、グラウンドが爆発した。

 歓声。悲鳴。野次。拍手。地鳴り。

 もう、ひとつひとつの音は聞き分けられなかった。グラウンド全体が、ひとつの巨大などよめきになって、麻貴と汐織を呑み込んでいく。

 収拾なんて、つくはずもなかった。

 麻貴たちは、逃げるように退場ゲートの方へ向かう。そこしか逃げ道がなかった。

 トラックから外れたあたりまで逃げて、ようやく繋いでいた手がするりとほどける。

 お互い、視線も合わせられなかった。耳まで、真っ赤だ。それはたぶん、自分も同じだと思うけれど。


「あ、麻貴くん。わ、私……」


 汐織が何かを言いたげにもじもじとする。

 麻貴はそれを、手で制した。


「あー、えっと……帰りに、話そっか」


 今は周りに人が多すぎる。到底、ちゃんと話せる空気ではなかった。

 それでも、お互いにわかっていた。

 今やったことは、もう絶対に「なかったこと」にはならない。それだけは、確実に。


「……うん」


 汐織は小さくこくりと頷いた。

 そして、さっきまで麻貴と繋いでいた自分の右手を、左手でそっと包むようにして。応援席のほうへ、戻っていった。

 その背中を見送って、麻貴は、ふう、と長く息を吐いた。


(あーあ。やっちまった)


 心の中で、呟く。

 それから、すぐに別の声が重なった。


(いや……やれた、のか?)


 やっちまった、なのか。

 やれた、なのか。

 どちらが本心なのか、自分でも、まだよくわからなかった。

 ただ、何だか胸の中で痞えていたものが、軽くなった気がした。

 グラウンドのざわめきは、まだ、収まっていない。

 七月の空は、憎らしいくらいに、青く晴れ渡っていた。

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