第60話 借り物競争
午後の競技は、容赦のない日差しの中で始まった。
騎馬戦、混合リレー、女子の玉入れ。プログラムが一つ消化されるたびに、グラウンドのざわめきは少しずつ熱を帯びていく。応援団の太鼓が、地面の底をどんどんと叩いていた。
そして、午後の中盤。
ついに、借り物競争の順番が回ってきた。
「麻貴、沙子。借り物競争、始まるってよ」
隼太が、進行表のほうを顎で示して言う。
その一言で、麻貴の胃のあたりが、ずん、と重くなった。
「……ああ」
「らしいね」
麻貴と沙子は、揃って、引き攣ったような笑みを浮かべた。
お互い、この競技だけは、心の底から気が重い。昼休みに隼太が持ち込んできた「恋愛系のくじが多い」という噂が、ずっと頭の隅に居座っていた。普通のくじならいい。「眼鏡をかけた人」でも「先生」でも、いくらでも借りに走ってやる。だが、恋愛系だけは──全校生徒の前で引かされるのだけは、勘弁してほしかった。
「順番は?」
沙子が訊いてくる。
麻貴は進行表に目を走らせて、自分の名前を探した。
「俺は……三番目のレースだな」
レースは十番まである。早いほうだ。早く終わるぶん、覚悟を決める時間が短いとも言えるし、長く憂鬱を引きずらずに済むとも言える。どちらにせよ、気が楽になる要素ではなかった。
「あ。あたしより先だ」
沙子が、ほんの少しだけ口角を上げた。嫌な笑い方だ。
「なるべく変なくじは、先に処理しといてね」
「嫌だよ、何でだ。つか、くじなんて、どうせ使い回しだろ。先に引いたって減りゃしねえよ」
「はーっ……やっぱ、そうだよねぇ」
ふたり同時に、重い溜め息を吐く。
顔を見合わせて、また溜め息。
結局のところ、何を引くかは運だ。恋愛系のくじが何割混ざっているのか、正確なところは誰も知らない。ただ、無難な一枚を引き当てられることを、祈るしかなかった。
そうこうしているうちに、グラウンドのスピーカーから、借り物競争出場者へのアナウンスが流れ始めた。トラック脇の待機列まで移動するように、とのことだ。
「……いくか」
「だねぇ」
憂鬱な身体を引きずるようにして、待機列のほうへ足を向けた、その時。
「麻貴くん」
背後から、小さな声が掛かった。
聞き慣れた声だ。振り返らなくても、誰なのかはわかる。
「ん?」
振り返ると、そこには汐織が立っていた。
何か言いたげに、もじもじと、指先を組んだりほどいたりしている。学校の人前で麻貴に声をかけることに、まだ少しだけ慣れていないのかもしれない。
汐織は一度きゅっと唇を結んでから、顔を上げると──。
「頑張ってね」
嫣然と笑って、そう言った。
頑張って、の一言。
たったそれだけの言葉を、わざわざ麻貴に手渡してくれた。
「……まあ、ほどほどにな」
肩を竦めて、ぶっきらぼうに返す。
いつもの調子で答えたつもりだった。でも、その一言のお陰で、自分の中で何かがすとんと収まった気がした。
いや、背中を押された、というほうが近いのかもしれない。
恋愛系のくじが何だ。全校生徒の視線が何だ。どんな一枚を引いたって、もう気にしない。汐織がわざわざここまで来て、たった一言、そう言ってくれたのだ。それだけで、午前中からずっと胸の底に溜まっていた憂鬱が、ずいぶんと軽くなっていた。
現金なものだ、と自分でも思う。でも、現金で構わなかった。
「んじゃ、行ってくるわ」
何ともないように言って、麻貴はトラック脇へと歩き出した。
背中に、汐織の視線がついてくるのを感じる。それだけで、足取りが、来た時よりほんの少しだけ軽かった。
待機列の最後尾に並んで、ふう、と息を整える。それから、手持ち無沙汰に、先に走っている組へ目をやった。
くじを引いて、机の上に広げて、指定されたものを探しに走る。基本のルールはそれだけだ。
走者のひとりが、くじを掲げて観客席のほうへ駆けていく。なにを引いたのかと思えば、近くにいた体育教師の腕を掴んで、ぐいぐいと引っ張ってきた。「眼鏡をかけた先生」あたりだろう。観客から、ぱらぱらと拍手が起きる。
別の走者は「黄色いもの」を引いたらしく、応援席を回って誰かの黄色いタオルを借りていた。
その辺までは、まあ、いつもの借り物競争だ。
問題は、そこに、明らかに毛色の違うくじが混ざっていることだった。
くじを引いた男子が、顔を真っ赤にしながら、観客席のほうへ走っていく。
借り物競争のくじは、ゴールするまで内容が読み上げられない。だから、走者が観客席のどこへ向かうのかだけが、観客にとっての唯一のヒントになる。あの真っ赤な顔と、迷いのある足取り。あれは、明らかに「モノ」を借りに行く動きではなかった。
誰のところへ行くのか、と観客が固唾を呑む。
男子はしばらく右往左往した末、結局は同じクラスらしき女子のグループに駆け込んで、そのうちのひとりの腕を、半ば強引に引っ張り出した。
女子席から、きゃーっと黄色い声が上がる。
男子席からは、笑いと「おいふざけんなお前!」という野次が飛んだ。
そして男子は、引っ張り出した女子を連れて、ゴール地点の実行委員にくじを差し出す。
実行委員の女子が、その紙片を覗き込んで、嬉しそうにマイクを口に当てた。
「えー、くじは……『好きな子とハイタッチ』ですねッ! では、どうぞ、ハイタッチしてください!」
その瞬間、グラウンドがどっと沸いた。
男子は、もう開き直ったらしい。連れてきた女子と、半ばやけくそ気味に、ぱちん、とハイタッチをしてみせた。
会場が、さらに沸いた。
(……マジでやりやがった、あの実行委員)
隼太の昼休みの情報は、どうやら本物だったらしい。
恋愛系のくじが混ざっているのは、ほぼ確実だ。しかも観客のほうも、それを完全に楽しんでいた。普通のくじが出れば普通の拍手、恋愛系のくじが出れば黄色い声と野次。そのコントラストで、借り物競争はプログラムの中でも一番の盛り上がりを見せていた。
麻貴は、ごくりと唾を飲み込んだ。
一組、また一組と、前のレースが片付いていく。そのたびに、自分の番が、確実に近づいてくる。
やがて、前の組の最後のひとりがゴールテープを切った。係の生徒が進行表に目を落として、次の組に呼びかける。
麻貴の組だ。
スタートラインに、五人ほどが横並びになる。麻貴のほかは、知らない他クラスの面々ばかりだった。隣の男子が、ちらりとこちらを見て、何か言いたげにしてからやめた。たぶん、噂のことだろう。
くじの机は、トラックの先にぽつんと置かれていた。
麻貴は軽く膝を曲げて、スタートの構えを取る。
短距離は、得意だ。くじに最初に辿り着く自信だけはあった。そこまでは、だが。
それから間もなくして、号砲が鳴った。
考えるより先に、足が出る。
朝の百メートルと同じだ。白線を蹴って、風を切って、まっすぐにくじの机を目指す。隣の走者を、二歩で置き去りにした。
机に、一番乗り。
ずらりと裏返しに並んだくじの中から、一番手前の一枚を、ぱっと掴み取った。
その場で、紙を開く。そこには──。
『大切な人♡』
丸っこい字で、そう書かれていた。
ご丁寧に、語尾にハートマークまでついている。
麻貴は、その紙片を持ったまま、しばし固まった。
(はあああ……やっぱ、こうなるんだよなぁ)
諦観と、覚悟が、胸の中でない混ぜになる。
実行委員の女子の意図が、これ以上ないくらい透けて見えた。狙いすましたような一枚。よりにもよってこんなくじを、よりにもよって自分が引うとは。最悪だ。
もちろん、『大切な人』で思い浮かぶ顔は、ひとつしかない。
考えるまでもなかった。その人は、応援席のテントの下で、こちらを眺めている。
なんとなく、こうなる気はしていた。
昼休みからずっと、フラグは立ちまくっていた。隼太の忠告も、汐織の泳いだ視線も。全部、この一点に向かって伏線を張っていたみたいだ。
(……神様ってのは、ほんとロクなことしねえな。一回ぶん殴りてえ)
恨み言を心の中で吐きながら、麻貴はその場に立ちすくんだ。
ここで、汐織のところに行けば。あのテスト明けの『手繋ぎ目撃事件』を、うやむやのまま夏休みに持ち込むことは、もう、絶対に不可能になる。
少し時間が経ったこともあって、今は噂も少し薄らいでいた。こうして体育祭や廊下でちくちくと嫌味を言われる程度には、収まってきている。でも、ここで全校生徒の前で汐織のところへ走れば、その「程度」では済まなくなるのは確実だ。
逃げ道が、頭をよぎった。
隼太のところに行って、「大切な親友♡」みたいなノリで、ネタとして処理するのも手だ。観客は笑って済ませてくれるだろうし、汐織を矢面に立たせることもない。それが、一番波風の立たない選択だった。
でも、そこで──ふと午前中に考えていたことが、頭の奥で蘇ってくる。
『宙ぶらりんでいることのツケは、汐織のほうにばかり回っている』
『次に動くのは、自分の番だ』
心臓が、ひとつ、大きく跳ねた。
走り終えたあとに飲んだ、あのぬるい水の味まで、一緒に思い出す。あんな視線の中でも、汐織はずっと笑顔を向けてくれていた。さっきも『頑張って』とわざわざ言いにきてくれている。
それなのに。ここでまた、逃げるのか。
逃げて、ネタにして、波風を立てずに──それで、本当にいいのか?
(……ここで行かないのは、男じゃねえよな)
息を、ひとつ吸った。
くじを握る手に、力が入る。
もう決めた。やってやる。
さっき、隼太からも言われたばかりではないか。
そう決意するや否や──麻貴は、机に背を向けて、応援席のほうへ走り出した。




