第59話 嫌なフラグが立った時
午前の全競技が終わると、グラウンドにアナウンスが流れた。昼休憩を告げる、間延びした放送。それを合図に、生徒たちがいっせいに散っていく。テントを畳む者、トイレに走る者、売店に並ぶ者。グラウンド全体が、わっと別の生き物に変わった。
「今日は空き教室、使えないもんなあ。場所、どうする?」
「中庭の木陰でいいんじゃない? あそこなら、人も少ないし」
隼太の問いに、沙子があっさり答えを出した。
いつもの空き教室は、体育祭の日は使えないし、グラウンドの応援席は、日差しがきつすぎる。沙子の案は妥当だった。
四人で中庭に移動して、校舎の影が濃く落ちている一画にレジャーシートを広げる。シートを引っ張り出してきたのも、四隅をきちんと整えたのも沙子だ。
さすが〝王子〟。こういう段取りの良さも板についている。
「……何?」
沙子が麻貴の視線に気付いて、首を傾げた。
「いや、慣れてるなって」
「ああ……うん」
そこで納得したように、ほんの僅かに頬を綻ばせた。
「父がアウトドア好きでね。キャンプとかピクニックとか、こういうのに割と家族でも行くからさ」
「ああ、なるほどな。じゃあ、林間学校の時とかも大活躍か」
「それで、また〝王子〟扱いされるあたしの身にもなってほしいけどね」
沙子は苦笑いを浮かべ、肩を竦めてみせた。
やはり、〝王子〟は〝王子〟で大変らしい。
準備が整い、木陰のシートの上に四人で座った。
それぞれが、それぞれの昼飯を広げる。
隼太のは、購買で買い込んだらしいパンとおにぎりの山。よくもまあこれだけ買ったな、というくらいの量だ。沙子のは、家から持ってきたシンプルな弁当。卵焼きと、唐揚げと、ブロッコリー。常識的な、いわゆる普通の弁当だった。
そして、汐織のは──。
「えっと、これ……」
汐織が、少し照れたように、かなり大きめのタッパーをふたつ、シートの真ん中に置いた。
ひとつ目の蓋を開ける。
麻貴は、思わず固まった。
タッパーの中に、おにぎりがころころと並んでいた。三角のものも、俵型のものもある。海苔の巻き方で中身が分けてあるらしく、ぱっと見ただけでも、梅、鮭、おかか、昆布、ツナマヨ。種類が五つはあった。数にして、十個近い。
ふたつ目のタッパーを開けると、今度は唐揚げが山盛りになっていた。それから、いつもより明らかに厚切りの卵焼き。タコの形に切られたウィンナー。隙間を埋めるように、プチトマトがたっぷり詰まっている。
(おお……如何にも運動会っぽいな)
心の中で、ぽつりと呟いた。
なんだか、小学生の頃の運動会を思い出してしまう。
あの頃、母親がこんな感じのメニューを作ってきて、親子でブルーシートの上に座って食べた。唐揚げと、卵焼きと、タコさんウィンナーと。確か、唐揚げをひとつ落として土だらけにしてしまって、それでかなり凹んだんだっけか。もう何年も思い出さなかった記憶が、唐揚げの匂いに引きずられて、ふっと蘇った。
「みんなで食べられるようにと思って、多めに作ってきたの。よかったら、どうぞ」
汐織はそう言って、はにかんだ。
今日は麻貴だけでなく、皆の分も作ってきたらしい。さすがに、ふたりで食べる分にしては多すぎると思っていたところだ。
沙子が、ぱちぱちと瞬きをする。
「えっ、これあたしも貰っていいの?」
「うん。もちろん」
「それじゃあ、ありがたくいただこうかな。汐織のご飯、美味しいから」
「えへへ。そんなに凝ったものは作ってないんだけどね」
沙子から褒められ、汐織は照れくさそうに笑った。
彼女も汐織の手料理を食べたことがあるらしい。いつ食べたのだろう? 少し気になった。
「篠宮、お前……もしかして女神の化身では?」
沙子が珍しく素直に手を合わせたその隣で、隼太はもはや拝む勢いでお弁当を眺めていた。
「女神って。大袈裟だよ」
「いんや、そんなことないね! うぉー! 俺、これから一生、篠宮汐織の手料理を食べたことがあるって自慢して生きていくんだ……!」
「隼太、普通にキモい」
沙子の的確なツッコミに、麻貴は思わず吹き出してしまった。
汐織のほうは、苦笑いを浮かべて頬を掻いている。
(手料理を一回食べたくらいで一生自慢できるなら……俺、来世まで自慢できんじゃねーか?)
週に何度もあの台所で作ってもらっている身からすると、隼太の感動はずいぶんとスケールが小さかった。
……と、そんなことを内心で考えていたのが、顔に出ていたのかもしれない。
沙子が、こちらを見てふっと笑った。そして、何の前置きもなく、隼太のほうを向いて、こう言った。
「その汐織の手料理を、ほぼ毎日食べてる男がここにいるって、知ってる?」
「……あ?」
はしゃいでいた隼太の動きが、ぴたりと止まった。
ぎぎぎ、と油の切れた機械みたいな動きで、隼太の首がこちらを向く。
目が、完全に据わっていた。
「麻貴……コロス!」
とんでもない言われようである。
「いや、何で俺が殺されなきゃいけないんだよ」
「うるせー! お前なんて、借り物競争で変なお題引いて、頭抱えちまえってんだ!」
涙目で叫びながら、隼太は購買のパンの袋を乱暴に破った。
やけ食いのように、おにぎりとパンを口に詰め込んでいく。
「おい麻貴、ちゃんと俺の分も残しとけよ!? 急いで自分の食うから!」
殺人鬼のような目をして、隼太がこちらを指差した。
あまり刺激しない方がよさそうだ。
「わーってるって」
「そんなにすぐなくならないってば」
汐織が、呆れたように笑っていた。
その横で、麻貴はタッパーから唐揚げをひとつ摘んで、口に運んだ。
もちろん、もう冷めてしまっている。冷めているのに、衣がカリっと立っていた。噛むと、生姜とにんにくの下味が、じんわりと舌に広がる。
いつもの、汐織の唐揚げの味だった。
あの六畳一間の台所で、以前も食べさせてもらった、あの味。
それが今、グラウンドのすぐ脇の、中庭の木陰にあった。なんだか不思議な感覚だ。
(何だか、懐かしいな……)
小学校の運動会の記憶が、今と不意に重なった。
あの時の母親と、今の汐織。立場や容姿などまるで似ても似つかないのに、何故か近いものを感じてしまう。
それはおそらく、「自分以外の誰かのために、朝早くから台所に立った人の弁当」だからだ。
誰かのためを想って作った料理には、きっと味付けや腕以外の何かが宿るのだろうか。
ノスタルジーに浸りつつ、麻貴はもうひとつ唐揚げを摘んだ。
「えーっと、午後はまず俺の騎馬戦だろ、それから混合リレー。沙子のリレーはもう終わったから……篠宮は応援団のやつだっけ?」
食べながら、隼太が指を折って午後の予定を確認し始めた。
「うん。あと、玉入れ」
「で、麻貴と沙子が借り物競争、と」
ひと通り数え上げて、隼太が「あっ」と思い出したように顔を上げた。
「そうそう、その借り物競争な。あれ、噂で聞いたんだけどさ」
パンを齧りながら、隼太がにやりと笑う。
なんだか、嫌な笑い方だった。
「さっきの冗談じゃなくて、今年、くじの内容がだいぶアレらしいぜ?」
「アレ?」
麻貴が訊き返すと、隼太は声を一段落として、もったいぶるように身を乗り出してきた。
「体育祭実行委員に、ラブコメ大好きな女子が混ざってるらしくてさ。なんでも、恋愛系のくじが結構な数入ってるって噂だ」
「は? なんで」
思わず、間の抜けた声が出た。
借り物競争のくじといえば、『眼鏡をかけた人』だの『先生』だの、その程度の無難なものだと思っていた。恋愛系、というのが、どうにも結びつかない。
「いやー、わっかんね。盛り上げたいんじゃね? 体育祭、最後のほうダレるしさ」
「……最悪」
麻貴は本気で顔を顰めた。
ただでさえ、借り物競争なんて気が進まない。くじで指定されたものや人を、観客の前で借りに行かなければならないのだ。友人の少ない麻貴にとっては、その時点で鬼門だった。それが「恋愛系」となれば、地雷原を裸足で歩くようなものだ。
「うっわ……あたしも、嫌な予感しかしないんだけど」
沙子も、げんなりとした顔で額を押さえている。
彼女も彼女で、引くくじによっては色々面倒なことが起きそうだ。
出場するふたりが揃って、心の底からうんざりしていた。
その時──ふと視線を横にやって、気付いた。
珍しく、汐織が何も言ってこない。
いつもなら、こういう話題の時は「えー? 何でそういうことするんだろ」とか「頑張ってね」とか、なにかしらの相槌を打つはずなのに。今日の彼女は黙って、おにぎりを上品に頬張っていた。
ただ、その視線が、ほんの一瞬だけ泳いだ気がした。
ほんの、僅かに。隼太が「恋愛系のくじ」と口にした、まさにその時だけ。汐織の目が、ふっと手元のおにぎりに落ちて、それから所在なげに、グラウンドの方へ逃げたのだ。
見間違いかと思ったけれど……こうして黙っているあたり、もしかすると、その噂を前から知っていたのかもしれない。
(……まさかな)
まさか、と思う。
まさか、そんな面倒なもの引かないよなと思いつつ、嫌な予感だけは、確かに胸の奥に居座っていた。
手の中のおかかおにぎりが、急にちょっとだけ、硬く感じる。
汐織は、相変わらず何も言わなかった。視線を戻して、何でもない顔で、二個目のおにぎりに手を伸ばしている。
それから何でもない雑談を交わしているうちに、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴って、四人で手早く片付けを始めた。
空になったタッパーを汐織が重ねて、隼太が散らかしたパンの袋を麻貴がまとめる。沙子がレジャーシートをぱっぱと畳んでいった。連携も、もう慣れたものだった。
四人でグラウンドへ戻る道すがら、隼太がすっと麻貴の隣に並んできた。
前を歩く汐織と沙子には聞こえない程度に声を潜める。
「なあ、麻貴」
「あん?」
「借り物競争でさ」
隼太は、前を見たまま言った。
「もし、くじで……『好きな人』とか、その手のやつ引いたらさ。迷わず、篠宮んとこ行けよ?」
笑い半分の、いつもの軽い口調だった。
でも、全部が全部冗談には聞こえなくて。ちらりと横を見ると、隼太の目だけが、ほんの少し真剣だった。
あの、テスト前の帰り道で「変えようとしたのはお前らだろ」と言った時の、表情に似ている。
麻貴は、すぐには何も答えなかった。
否定もしない代わりに、肯定もしない。
ただ、目を逸らさずに、小さく息を吐いただけだった。
「まっ、それでいいよ」
隼太はそんな麻貴に安心したのか、にやりと笑った。
ぽん、と一度肩を叩いて。それ以上は何も言わず、ひょいと先に行ってしまった。前を歩く沙子に「おーい、置いてくなよ」とか言いながら、いつもの軽い背中に戻っていた。
残された麻貴は、ゆっくりと歩を進めた。
(……覚悟、しといたほうがいいんだろうな)
まさか、というのは、時々、本当になる。
恋愛系のくじ。汐織の泳いだ視線。隼太の本気の目。
全部が、ひとつの方向を、なんとなく指している気がした。
ポケットの中に手を入れる。指先に、財布の硬い感触が当たった。
その財布の中に収まっている、『SHIORI』の小さなキーホルダー。
数百円の、ただの金属片。それが、今日もポケットの中で、やけに重い。
グラウンドのほうから、午後の開始を告げるアナウンスが流れ始めた。
ざわめきが、また、大きくなっていく。




