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第58話︎︎ 勝利の女神

 午前の競技は、次々と消化されていく。

 短い水分補給の時間を挟みながら、男子の借り物競争予選、女子の障害物走、男女混合の大玉転がし。生徒たちの大半が午前と午後のどこかには出るので、応援席はざわざわと人の出入りが絶えなかった。

 そして、午前の中盤あたりで、汐織の番が回ってきた。

 女子の長距離走。一〇〇〇メートル。

 女子の競技の中では、一番きつい部類の種目だ。


「一〇〇〇メートルって、一キロじゃんか。本当に大丈夫なのかよ?」

「そのくらいなら平気だよ。一キロずっとダッシュするわけじゃないし」


 汐織は困ったようの笑って、ジャージの袖をめくった。

 準備運動を一通り済ませて、麦茶を一口含む。仕草のひとつひとつが普段通りで、こちらが心配する余地もなかった。

 彼女がスタート位置に向かって、テントを離れていく。

 その背中が遠ざかると、応援席のあちこちから低いざわめきが上がった。


「おお……」

「やっぱ、ジャージでも可愛いな」

「ポニテ反則だろ」


 様々な方向から、ぼそぼそと男子の声が聞こえる。

 いつものことだ。学校一の美少女として、汐織がどこに行っても起きるざわめき。アイドル性、と言い換えてもいい。彼女自身は気にしていないか、気にしないように振る舞っているか、そのどちらかだろう。

 ただ、今日は──それだけでは終わらなかった。

 別種類のざわめきが、もうひとつ重なる。


「あいつ、噂の奴だよな」

「箕島って、あいつだよな? あそこに座ってんの」

「やっぱ同じとこに座ってんじゃん」


 今度は、明らかに麻貴を意識した声色だった。

 汐織の背中を追っていた視線が、ついでのように麻貴にも向けられる。

 ちらり、ちらりと、品定めするような目。

 あいつのどこがいいんだ――そんな声にならない言葉が、肌に刺さった。

 胸の真ん中が、じわりと重くなる。


(……鬱陶しいなー、マジで。殴りてー)


 苦々しく息を吐いて、それでも顔には出さないようにする。

 ふと、隣で隼太がにやりと笑った気がした。次に、肘で軽く脇腹をつついてくる。


「お前の彼女、今日も人気だなぁ?」

「おい、テメー」


 隼太の冗談に、思わず口が悪くなった。

 わざと、空気を軽くしようとしてくれているのが分かる。けれど、この場でその冗談は火に油を注ぐようなものだ。


「隼太、今そういうの言わなくていいから」


 すかさず、沙子が窘めた。

 涼しい顔のまま、声だけはきっぱりしている。

 隼太が「へいへい」と肩を竦めて引っ込むまでが、まるでお決まりのやり取りだった。


(……ったく。まあ、気持ちは楽になったんだけどさ)


 心の中で、苦笑する。

 隼太の軽口と、沙子の窘め。

 このふたりがいるから、視線がこちらに集まっても、なんとか普通の顔をしていられる。ふたりが間に入ってくれるだけで、「噂のあのふたり」ではなく、「いつもの四人組」として見てもらえる気がした。

 本当に、いつも助けられてばかりだ。

 そこで一〇〇〇メートル走の号砲が鳴って、慌てて視線をグラウンドに戻した。

 白いラインから、女子たちがいっせいに走り出す。

 その中で、汐織のポニーテールが軽やかに揺れていた。

 スタート直後から無理に前へ出ようとはせず、中団のあたりで自分のリズムを守っている。

 言葉通り、本当に自分のペースで走っていた。

 その落ち着いた走り方を見ていると、なぜか、台所に立つ汐織の手つきを思い出した。

 迷わず、急がず、必要なだけ、必要な手数で。

 そんなところまで、いつもの汐織らしい。

 そう思うと、知らずのうちに笑みが零れた。

 応援席で、麻貴は黙ってその後ろ姿を追っていた。


       *


 長距離走のあと、汐織は息をやや上げながらも、笑顔でテントに戻ってきた。

 順位は中の上、というところ。一〇〇〇メートルを走った直後とは思えないくらい、けろりとした顔だった。


「ほい、お疲れ」

「ありがとう」


 麻貴がペットボトルを差し出すと、ありがたそうに受け取って、口を付ける。

 その入れ替わりに、今度は麻貴の番だった。

 午前の終盤、男子の百メートル走。


「麻貴くん」


 トラックの方に向かおうとすると、不意に汐織から呼び止められた。

 振り返ると──。


「応援してる」


 嫣然と笑って。彼女はそう言ったのだった。


「……おう」


 一言そうとだけ返し、麻貴はそのままトラックに向かった。

 自分の番になって、係に促されるままスタートライン横で整列する。同じ組に並ぶのは、隣のクラスを中心に、よそから集められたメンバーだった。

 砂のレーンに足を擦りつけて、軽く準備運動をする。

 深呼吸をしようとして、ふと、左右からの視線に気づいた。

 それに合わせて、ぼそ、と低い声が聞こえてくる。


「お、あれじゃね?」

「そう、あいつだよ。篠宮さんと手ぇ繋いでたって噂の」

「デマだろ、絶対」

「でも、今日も一緒みたいだぜ?」

「え、まじ……?」


 スタートラインの両側で、ぼそぼそとそんなやり取りが交わされていた。

 目を合わせる気もなさそうに、しかしちらちらと向けてくる視線。明らかに、自分のことを話している。

 胸の真ん中が、ちくちくとした。


(うっぜぇ……)


 応援席にいる時とは、また違う種類の不快感だ。

 応援席ではテントの陰に逃げ込めるし、隣には汐織がいて、隼太と沙子もいた。けれど、スタートラインの上ではひとりだ。同じレーンに並ぶのは知らない他クラスの男ばかりで、目を逸らす場所もなかった。

 逃げ場のない場所での品定めは、想像していたよりだいぶ気が滅入る。

 そこへ。


「麻貴ぃーッ! 気合入れろよ〜ッ!」


 応援席のほうから、聞き慣れたうるさい声が飛んできた。

 いつもの倍はあろうかというボリュームの、隼太の声だ。

 はっと思わず顔を上げた。

 テントの下では、隼太が両手をメガホンの形にして声を張っていた。その隣で、汐織が、両手を口元に添えて、何かを叫んでくれている。

 もともと声が大きくないのと、グラウンドのざわめきと風のせいで、彼女の声は届かない。

 でも、口の形だけは、ちゃんと見えた。


 ──あ、さ、き、く、ん! が、ん、ば、れー!


 たぶん、そう言ってくれていた。

 その横で、沙子が小さく頷いて、ぐっと拳を握ってみせた。

 もう、それだけで十分だ。

 胸の真ん中の嫌な感じが、すうっと薄まる。

 代わりに、別の熱が来た。


(……ったく。適当に流そうって思ってたのによ。そんな応援されたら、負けられねーじゃねーか)


 短距離は、どちらかというと得意なほうだ。

 持久力はないが、瞬発力には自信があった。全員、ぶち抜いてやる。


「位置について。よーい──」


 号砲が鳴った。

 考えるより先に、足が出た。

 白線を蹴って前に出るや否や、さっきまで背中にまとわりついていた視線も、ざわめきも、全部まとめて後ろに置き去りにする。

 聞こえるのは、風と、足音と、心臓の鼓動。

 それだけで世界が満ちていく。

 前だけを見た。

 腕を振って、膝を運ぶ。足裏でグラウンドを噛んで、おもいっきり蹴ってやった。

 数歩先に、さっきまでぼそぼそ言っていた奴らの背中があった。

 すぐに横へ並んだ。

 ちらりとこちらを見た気がするが、目を合わせる必要もなかった。すぐに、追い抜いてしまったからだ。

 一人、二人。

 ほんの数秒で、背中は全部後ろへ消えた。

 まだ加速できる。息は上がっているが、苦しくはなかった。

 最後の二十メートル、奥歯を噛んで、もう一段だけギアを上げる。

 ゴールテープが迫ってきて。

 歓声が、一拍遅れて耳に戻ってくる。

 そのまま走り抜けて──テープを切った。

 一着で、もちろん順位は一位。

 我ながら、なかなか悪くなかった。


       *


 荒い息のまま、応援席のほうへ戻る。

 膝に手をついて二、三度大きく息を吐き、顔を上げると、もう汐織が駆け寄ってきていた。

 手にはペットボトルの水。冷たい結露が、彼女の細い指を濡らしている。


「お疲れ様! 一位、やったね!」


 勝者を迎えたのは、勝利の女神の笑顔だった。


「はっはー、見たか!」


 息を切らしながら、わざと大袈裟に胸を張ってみせる。

 いつもなら絶対にこんなことはやらないキャラだ。けれど、走り終わった直後の高揚と、彼女の応援を受けたあとの余韻のせいで、なんだか少し調子に乗ってしまった。

 汐織は可笑しそうに笑って、それから少し意外そうに付け加えた。


「麻貴くん、短距離()得意だったんだ?」

()ってなんだよ、()って。そうだよ、持久力はないんだよ、悪いか」

「ごめんごめん。運動、苦手なのかと思って」


 汐織はくすくす笑って言った。

 たぶん、榎島でへばっていた麻貴の姿が、彼女の中に強く残っているのだろう。あの島の階段地獄では、汐織よりも先に音を上げていた記憶がある。

 ペットボトルを受け取り、ひと口含んだ。

 ぬるくなりかけた水が、走ったあとの喉に染み込んでいく。

 その一口を飲み込んで、麻貴の中で、ふと、別のものが落ちてきた。

 ああ、これだ。

 この子は、こうやって、いつも視線の中で笑っていたんだ。

 麻貴は今日、何度かトラックや応援席で「あいつだ」と指された。それだけで、胸の真ん中がちくちくしたし、鬱陶しかった、走り終わった今でも心臓がうるさい。

 ほんの数時間だ。たった数時間、視線に晒されただけで、麻貴はこうも消耗していた。

 なのに、汐織は。

 毎日、こういった視線や言葉を浴びている。

 教室に入った時も、廊下を歩く時も、図書室のカウンターに立っている時も、女子のグループに笑顔を返している時も。それを当たり前のものとして受け止めて、それでも穏やかに笑って流していたのだ。

 その上、麻貴との噂まで重なって、それでも、わざわざこちらの前まで来てくれた。

 じゃあ、今までの宙ぶらりんの間、しんどさを引き受けていたのは、どっちだったのか。

 答えは、聞くまでもなかった。


(……ほんと、お前さぁ)


 心の中で深く息を吐いて、もう一口水を飲んだ。

 目の前で、汐織はなんでもない顔をして、自分のペットボトルを開けている。額にうっすら浮いた汗をタオルで拭きながら、グラウンドのほうを眺めていた。

 なんてことのない、体育祭の午前の光景。

 なんてことのない、いつも通りの汐織。

 それだけのはずなのに、その横顔が、いつもよりだいぶ尊く見えた。

 応援席のテントの向こう、グラウンドでは午後の競技の準備が始まっている。

 体育祭は、まだ半分くらいに差し掛かったところ。午後には、メイン扱いされているらしい借り物競争もある。


(……何を借りに行かされるんだろうな)


 ぬるくなった水をもう一口飲んでから、麻貴は大きく溜め息を吐いた。

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