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第56話︎︎ 体育祭、開始!

 体育祭当日の朝は、いっそ非情なほどの晴天だった。

 七月の半ば。空は青を通り越して白く、頭の上から太陽がぎらぎらと降りかかってくる。グラウンドの土はすでに乾ききっていて、生徒たちが何人か並んで歩くだけで、ぱあっと薄く土埃が舞った。

 開会式が終わって応援席に戻ってくる頃には、麻貴のシャツの背中はもう湿り始めていた。


(七月でこれかよ……。八月のオリンピックって、よく死人出ねえな)


 どうでもいいことを考えながら、麻貴は応援席のテントの下に滑り込んだ。

 四人分の場所は、隼太が朝のうちに確保してくれていたらしい。テントの真ん中あたり、日陰の濃いところだ。横並びで四人座っても窮屈にならない、ちょうどいい区画。隼太は本当にこういう手回しだけは抜かりがない。

 その隣に、沙子が腰を下ろした。ジャージ姿の〝王子〟は相変わらず絵になっていて、それだけで他クラスの女子の何人かがちらちらと目を投げて寄越していた。

 そして、麻貴の隣には、汐織。

 ジャージにハーフパンツ。腰まである長い黒髪は、ひとつに高くまとめてあった。額には学年カラーの鉢巻きをきゅっと結んでいて、その結び目の上で、軽くて細い後れ毛が風に揺れている。

 いつもの制服姿でも、私服姿でも、エプロン姿でもない。体育の時の汐織、いや、〝体育祭の汐織〟だ。

 麻貴は、目が止まりそうになるのを必死に逸らした。


(……いや、鉢巻して可愛いって、なんなんだよ)


 反則だろう、それは。可愛い子は何を着ていても可愛いらしい。

 ジャージの胸元に短く書かれた学年と組、ハーフパンツから伸びる白い脚と、それから揺れるポニーテール。情報量が多すぎて、こっちの処理が追いつかなかった。

 しかも、この格好の汐織を見ているのは、麻貴だけではない。応援席だけでも何百という単位の人間がいるのだ。学校一の美少女のお祭り仕様を、男どもがざわつかないわけがなかった。

 その視線の多さを、隣にいるだけでこちらも肌で感じる。


「どうしたの?」


 隣の汐織が、こてんと小首を傾げた。

 その何気ない仕草が可愛くて、心臓がきゅう、と小さく鳴る。


「い、いや、何でもない」


 慌てて視線を汐織から逃がす。

 逃がした先で、沙子とばっちり目が合った。

〝王子〟は涼しい顔のまま、口角を上げる。


「素直に言ってあげればいいのに」

「何を!?」

「それは、自分が一番わかってるでしょ?」


 沙子は〝王子〟らしからぬ悪戯っぽい笑みを浮かべて、肩を竦めた。

 そんなふたりのやり取りに、汐織が拗ねたように口を尖らせる。


「えー、なあに? やっぱり何かあるんでしょ」

「ほ、ほんとなんでもないから。気にしなくていいよ」

「そんなこと言われたら、余計気になっちゃうよ……あっ。もしかして私、どこか変だった?」


 何やら勘違いさせてしまったらしく、汐織は少し慌てたように自分の格好を見下ろした。

 ジャージの襟元を指先で整えて、ハーフパンツの裾をちょんと引っ張る。最後に、額の鉢巻きをぺたぺたと触れていた。

 その仕草までいちいち可愛いから、本当に困る。


「そういうんでもないから!」


 麻貴は食い気味に否定し、何でもないふりで前を向いた。が、相変わらず汐織の不思議そうな視線が、こちらの頬に刺さっている。


(……ったく。貰い事故もいいところだろ、これ)


 心の中で悪態を吐きつつ、とりあえず息を整える。

 体育祭は、まだ始まったばかりだ。


       *


 最初の競技は、男子の綱引きだった。

 隼太は、五種目登録の代償として、いきなりここから引っ張り出されている。

 大声で号令をかける応援団の声と、ロープを引く生徒たちの足音、それから観客席のざわめき。グラウンドの真ん中で隼太がロープを掴むのが、テントから遠目に見えた。

 程なくして、綱引きが始まった。号砲と同時に、両軍がぐっと体重をかける。

 押し押されの接戦だ。相手クラスの方が運動部が多く、ガタイも大きい。明らかに不利だった。

 隼太は明らかに脚に力が入っている。汗が頬を伝うのも、ここからでもよく見えた。

 暫く経った頃には顔が真っ赤になっていて、既に辛そうな顔をしている。


「あー、こりゃダメだ。あの野郎、もうへばってやがる」

「さすがにちょっと情けないね。『俺がF組のエース!』とか言ってたくせに」


 麻貴と沙子の感想は、見事に一致した。

 始まってすぐなのに、もう肩で息をしている。何故五種目も登録したんだ、あいつは。


「八木くん、頑張ってー!」


 隣の汐織は両手を口元に添えて、本気の応援を送っている。

 声量こそ控えめだが、声色の真剣さが他のふたりと完全に違った。隣で聞いていると、こちらの方が照れくさくなる。

 ただ、どれだけ声が控えめでも、篠宮汐織の声援だ。その効果は計り知れず、クラスの男子連中に力が戻った。一気に巻き返していく。


「おっ、盛り返した。皆、結構踏ん張ってんなー」

「ほんと、男って馬鹿だな」


 沙子はそう言いつつ、口元に小さな笑みを浮かべていた。

 汐織の応援ひとつでこうも盛り返さるなら、彼女には応援に徹してもらった方がいいのかもしれない。

 そう思った矢先だった。

 相手チームが大きく引いた弾みで、隼太の足元が砂を蹴って滑った。ずるりと前のめりになって、両膝が砂にめり込む。ロープにしがみついたまま、見事な勢いで地面と一体化した。


「うぎゃああああッ」


 隼太の悲鳴が、グラウンドで響いた。

 周囲からもゲラゲラとした笑いが起こったかと思うと──。


「ぷっ──」


 隣の〝王子〟の口からも、品のない音が漏れていた。

 沙子は珍しく口元を手の甲で押さえて、それでも我慢しきれずに肩を震わせている。


「沙子、ひどい」


 汐織が眉を八の字にして、すかさず諫めた。

 しかし、よくよく見ればこれは確かに笑える絵だ。面白い。麻貴は言った。


「いやいや、ひどくねーよ。あいつにはピエロが似合ってる」

「もう、麻貴くんまで。ひどいよ?」


 優等生らしく汐織は叱ろうとするが、その口元はもう完全にこらえきれていなかった。一拍置いて、ぷっと吹き出す。

 結局、三人で笑ってしまった。

 なんてことのない掛け合い。なんてことのない、応援席の風景。とにかく、こうやって笑い合っている時間が、麻貴にとっては今日の体育祭の中で一番気を抜ける時間でもあった。


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