第52話︎︎ 白状しちまえ
四限目のチャイムが鳴り終わるか終わらないかのうちに、ポケットのスマホが震えた。
LIMEの通知だ。
【八木隼太:いつもの空き教室な】
隼太からだった。短いひと言。スタンプもない。
今日は汐織の図書委員当番の日だ。本来なら、昼食会は集まらない約束のはずだった。それなのにわざわざ呼び出すあたりに、午前中ずっと感じていた不穏な空気の続きがある。
そこへ、もう一通。今度は汐織からだった。
【篠宮汐織:お弁当、沙子に渡してあるから!】
メッセージの後ろに、ウサギが親指を立てているスタンプがちょこんと付いている。彼女はこういうところで律儀だ。日課になりつつあった弁当の引き継ぎを、たとえ自分が当番でも忘れない。
ちょっと心が和んだのも束の間、ふとひとつ気になることがあった。
汐織のメッセージのテンションが、若干高い気がする。それも、無理に明るく振舞ったような書き方だった。
気のせいかもしれない。本来、文字に温度などないのだから。でも、彼女のメッセージはここ最近毎日見ているから、なんとなく癖はわかっているつもりだ。絵文字の付き方が、いつもより一個多い。
【麻貴:了解。ありがとな】
簡素な返事を打って、麻貴は席を立った。
教室を出て、本館から別棟への渡り廊下に出る。
渡り廊下の手前、廊下の角に、女子の小さな塊があった。
他のクラスの女子だ。何かをしゃべっていて、楽しそうにくすくす笑っている。
その中のひとりが、麻貴を見たとたんに。
ぴたっと言葉を切って、隣の友達の腕をつついた。
(……あん?)
あからさますぎる反応だった。
しかも、その女子のほうも、麻貴と目が合うとすぐに口元に手を当てて、ふふっ、と何やら笑ってしまっている。
麻貴はそれとなく目を伏せて、足を速めた。
別棟の階段を上がる頃には、胸の奥がざわざわしてきている。
(鬱陶しいな。マジで、なんなんだよ)
別棟の二階。突き当たりの空き教室の引き戸を開けると、誰もいなかった。
窓の外では、グラウンドからのざわめきが薄く聞こえている。古い木の机と椅子が無造作に並んでいて、午後の光が床に細い筋を作っていた。
遅れて、足音がふたつ。隼太と沙子が一緒に入ってきた。
「おー、お疲れ」
「うーっす」
「おつー」
相変わらず気の抜けたやり取りで、それぞれが机を寄せていく。
ただ、今日に限っては、その「気の抜けた」さえも、いつもと微妙に温度が違っていた。
(いや、マジで怖いんだけど)
麻貴はいつも隼太の隣に座ると、沙子は手元の包みから、薄い水色の布で丁寧に包まれた弁当箱を取り出した。
いつものやつだ。中に何が入っているか、もう麻貴も大体予想がつく。
沙子はそれを、すっと机の上に置いた。麻貴がほっとして手を伸ばそうとすると──。
ひょい。
すんなりと、向こう側に引っ込められた。
「え?」
間抜けな声が出た。
「……で?」
沙子が、目を細めた。
「いや、でっていきなり言われても。なんのことだよ?」
「箕島くん」
「なんだよ」
「あのさ、本当に気づいてないわけ?」
沙子の眉が、僅かに寄った。
隣を見ると、隼太は天井を仰いで、はあ、と息を吐いている。
「気づいてないっぽいぞ」
「マジかー」
「マジかー、じゃないんだけど。意味わからん」
ふたりに勝手に話を進められて、麻貴は完全に置いてきぼりだ。
沙子は弁当箱を片手で軽く押さえながら、もう片方の手で頬杖をついた。
「汐織とはもう付き合ってるの?」
「──ッ!? は、はあ!?」
ぐっ、と喉が詰まる音がした。
咳き込みそうになって、何とか堪える。空き教室の机の角に膝をぶつけそうになったのは、その動揺のせいだ。
「な、何だそれ。意味わかんねー」
「いやー、正直、もうそろそろそう言われても文句言えねーぞ、麻貴」
隼太が、頭の後ろで手を組みながら、にやにや言った。
その目には、明らかに「自業自得」と書いてある。
「だ、だから……何でいきなりそんな話になってんだよ」
心臓がどくどくとうるさい。背筋にも嫌な汗が滲み始めていた。
隼太が、ふっと笑って首を傾げてみせる。
「お前ら、土曜日。手ぇ繋いでたろ?」
時間が、止まった。
息を吸ったような気がしたが、肺に空気が入ってこない。背中をつう、と冷たいものが伝った。
(あー……あああーーーーーー! そういうこと!?)
頭の中で、ばらばらだったものが一斉に繋がっていく。
朝、下駄箱で逸らされた目。教室に入った瞬間に集まって、すぐに散った視線。廊下の角でひそひそと交わされる声。汐織を取り囲む女子たちの不自然な多さ。隼太の意味深な態度に、沙子の苦笑い。
全部、これだ。
土曜の午後、榎島の弁天橋から仲見世通りまで、麻貴と汐織はずっと手を繋いで歩いていた。観光客の流れの中、堂々と恋人繋ぎで。すれ違う男に舌打ちされても、離さなかった。
あれが、見られていたのだ。
しかも、誰に見られたのかは正確にはわからない、というのが余計に怖い。
隼太曰く、弁天橋で手を繋いで歩いているところを、他のクラスの誰かに目撃されたらしい。そして、週末の二日間でそれがあっという間に広がった。それがことの成り行きだ。
「マジかぁ……」
麻貴は両手で顔を覆った。
財布の中の『SHIORI』のキーホルダーが、急に重く感じた。数百円の金属片のはずが、いきなり鉛みたいな重量に変わったような錯覚さえある。
(……だよなぁ。あんな目立つ場所で、堂々と手繋いで歩いてりゃそうなるよなぁ)
あの時の自分は、もう周りの目なんてどうでもよかった。離す気はなかったし、離したくもなかった。汐織もそうだった、と思う。
でも、どうでもよくなかったのは、ふたりの中でだけだったらしい。
外側から見れば、明らかに恋人として見られる絵だ。誰かに目撃されて、そしてそれが「篠宮汐織」のだとわかってしまえば、燃え広がる速度は推して知るべし。
恐る恐る顔を上げて、沙子に訊いた。
「し、汐織は……何か言ってた?」
声が、ちょっと掠れた。
汐織が真っ先に攻撃を受ける構図にだけはなっていてほしくない。沙子が知っているなら、教えてほしかった。
彼女は少し黙って、それから肩を竦めた。
「あたしはそんな野暮なこと訊かないよ。あの子が自分から話すまでは、こっちから踏み込まないって決めてるし」
「……まあ、そうか」
「でも、クラスの子達には訊かれてたかな。今朝、教室入った瞬間からずっと囲まれてたよ」
胸の奥が、すうっと冷えた。
授業中の汐織の落ち着かない様子は、これだったのか。
いつもの優等生らしい横顔を保ちつつも、シャーペンを持つ手が時々止まっていたのも、ノートを意味もなく繰り返しめくっていたのも、全部。
「汐織は、なんて?」
「上手いこと濁してた。詳しいことは何も言ってなかったよ」
沙子は淡々と言って、ようやく弁当箱を麻貴の前に差し出してくれた。
「で、どうなの?」
差し出しながらの、再度の問い。
弁当を受け取りつつ、麻貴は答えた。
「いや。どうって言われても……付き合ってはないよ」
「付き合っては?」
沙子の目が、鋭くなった。
「いやその……確かに、手は繋いだし。榎島で、デートっぽいことはしたけど」
「デートだと!?」
「隼太、うるさい」
デートという単語に反応して叫んだ隼太を、沙子が一言で黙らせる。
沙子は表情を変えずに続きを促した。
「で?」
「付き合うとか付き合わないとか、そういう話はしてない。ほんとに」
そこまで聞いて、はあ、と沙子が大きく息を吐いた。
怒っているような、呆れているような、安心しているような。複雑な感情が混ざった溜め息だ。
「ま、そうだろうとは思ってたけどね」
〝王子〟は弁当箱の蓋を開けながら、麻貴の手の弁当箱のほうを顎でしゃくった。もう食べていいよ、ということらしい。
麻貴も自分の弁当の包みを解いた。
二段の弁当箱だ。下段はつやつやの白米と梅干し。上段は、卵焼きが二切れ、鶏もも肉の照り焼き、ほうれん草の胡麻和え、隅っこにプチトマトがふたつ。配置にも、彩りにも、いつも通りの気合いが入っていた。
むしろ、いつもより丁寧だ。卵焼きの巻き方が綺麗で、断面の渦が均一で、鶏肉の照りも均しく行き渡っている。
その弁当を見下ろしながら、麻貴は土曜の経緯をぽつぽつと話した。
成績クリアの御礼として誘ったこと。榎島で金魚すくいをして、たこせんべいを半分こしたこと。弁天橋から富士山が見えたこと。展望台に上って、稚児ヶ淵まで降りていって、岩場で汐織がよろけたから手を取ったこと。そのまま、何となく離さなかったこと。
全部を細かく話すのは恥ずかしすぎたので、要点だけかいつまんで。それでも十分に、ふたりの間に何があったかは伝わったはずだ。
「なるほどなぁ。事情は把握した。麻貴、やるじゃん
」
全部聞き終わってから、隼太が感心した様子で腕を組んだ。
沙子はその横で、自分の弁当の卵焼きをひと切れ口に運み、ぼそりと付け加えた。
「ま、あたしは知ってたんだけどね」
「は!? 知ってたんかい!」
隼太の素早いツッコミが、空き教室に響く。
〝王子〟は涼しい顔でそのツッコミを流した。
「服どうすればいいかって、金曜日に相談受けたからね。あたしにそんなこと訊かれても、ねえ?」
沙子は肩を竦めて、苦笑いを浮かべた。
まさかの、あの優等生の篠宮汐織がデートの服を友達に相談していたらしい。それも、〝王子〟様に。隼太が訊いた。
「篠宮になんてアドバイスしたん?」
「榎島行くなら歩きやすい靴がいいんじゃない? ってだけ。服は系統違うからわからないし」
思わず、ぽかんとする。まさかそんなやり取りがあったとは。
頭の中で、土曜の朝の光景が巻き戻された。
榎島駅の改札の向こうから歩いてくる、白いワンピースの汐織。歩くたびにふわりと揺れていた、薄い裾。耳元で小さく光っていたアクセサリーと、それからスニーカー。
あの足元が、沙子のアドバイスだったのだ。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
ワンピースも、アクセサリーも、靴の一足までも。その全部が、麻貴と過ごす一日のために、彼女が選び抜いてくれたものだった。
「……嬉しそうだったよ。凄く」
ぽつり、と。沙子が、わざと過去形を強調するように呟いた。
声音が、急に柔らかくなっていた。
さっきまでの「で?」と詰めてくる時の温度とは、明らかに別物だ。
思わず、沙子のほうへ目をやった。
沙子はこちらを真っ直ぐには向いていなかった。空き教室の床に目を逃がしたまま、それでも口元だけは僅かに緩んでいる。三年来の親友がデートに浮かれていた、その嬉しい記憶を、自分の中で確認するみたいに。
(あの、汐織が……やばいな。めちゃくちゃ嬉しい)
土曜日の汐織のあれこれが、麻貴の中でもう一度色を変えた。何でもない仕草、たとえば改札前で照れ隠しに敬語になったあのときも、別れ際の弾けるような「うん!」も、全部、彼女がそれだけ、この一日を大事にしていた証だったのだ。
胸の奥が、ぎゅう、と詰まった。
そうして感慨深くなっていると……隼太がまた口を開いた。
「で? どうすんだよ」
口調は軽いのに、その質問は全く軽くなかった。
決断を、迫られている。
それだけは、よくわかった。




