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第51話︎︎ 噂の月曜日

 月曜日の朝。麻貴はいつもより一本早い電車に揺られていた。

 平日の朝の榎ノ電は、混みすぎてもいないし、空きすぎてもいない。手すりに寄りかかって窓の外を眺めると、相変わらず海が光っていた。土曜の眩しい午後の海とも、日曜の昼下がりに窓越しに見たそれとも、ほんの少しだけ色が違う。月曜の朝の海は、何というか、少しだけ醒めていた。


(……七月かぁ)


 ぼんやり呟いて、ポケットから財布を取り出す。

 中を覗き込んで、つい口角が緩んだのを慌てて引き締めた。誰も見ていないのに、このザマはなんだ。恥ずかしい。

 小銭入れの脇には、小さな金属のキーホルダーが収まっていた。


 『SHIORI』


 六文字のローマ字がそこには記されていた。観光地のしょぼい売店で作った、どこにでもありそうな数百円のキーホルダー。それだけのものだ。それだけのもののはずなのに、財布の中で他の硬貨よりずっと重く感じてしまうのだから、人間の手のひらは案外いい加減である。

 空っぽの右手を、なんとなくぐっと握ってみた。

 あの華奢な手と指の細さと、指先のひんやりした感触。手のひらの真ん中だけ、妙に温かかった。

 二日経った今でも、その輪郭が残っている。気がするだけだ、と何度も自分に言い聞かせてはみたが、どうにも消える気配はなかった。


(……マジで、何やってんだろうな、俺)


 苦笑いを浮かべて、財布をポケットに戻す。

 電車はすぐに八ヶ浜のホームに滑り込んだ。同じ制服を着た生徒たちが、ぞろぞろと改札に向かっていく。麻貴もその流れに混じって、いつもの通学路に出た。

 月曜の朝らしい、少しだけ重たい空気の中をだらだらと歩く。海風がぬるい。七月の朝はもう完全に夏の朝で、シャツの中が早くも蒸れ始めていた。

 校門が見えてきたあたりで、ふと視線を感じた。

 他クラスの男子と、ばちりと目が合う。が、相手はすぐに逸らした。露骨に、というほどでもないが、自然でもない。一拍の遅れが、明らかに「気まずさ」を含んでいた。


(ん? なんだ?)


 立ち止まりかけたが、思い当たる節がない。気のせいだろう、と片付けて、麻貴はそのまま生徒玄関に向かった。

 下駄箱でローファーから上履きに履き替えていると、隣に同じクラスの男子が来た。確か何かの授業で話したことがあったなと思い、麻貴は軽く会釈する。

 すると相手は、目が合った途端、ふい、と顔を背けた。しかも、ローファーをしまう手つきがどこか急いでいる。気のせいかと思いたかったが、二回連続だとさすがにそうも思えなかった。


(俺、なんかしたっけ?)


 心当たりが、ない。特に最近話した覚えもないし、間接的にも彼らと関わった記憶もなかった。というか、何なんださっきから。

 とはいえ、所詮は自分のことだ。ガラの悪い男子に肩でもぶつかった日の翌週ならともかく、麻貴は元来、誰かの噂の対象になるような人間ではなかった。

 だから、結局はいつもの結論に落ち着く。


(……ま、気のせいだろ)


 今日は朝からなんかツイてないらしい。それくらいに思って、教室棟へ続く廊下を歩き始めた。

 夏に近い廊下の床が、上履きの裏でぱたぱたと鳴る。窓の向こうで、ようやく暑くなりつつあるグラウンドの土が、やけに白く光って見えた。


       *


 予鈴の少し前。教室棟の廊下で、見覚えのある美少女と鉢合わせた。長い黒髪が、窓からの光を受けて揺れている。

 篠宮汐織だ。

 彼女の周りだけ少し光が違って見えるのは、たぶん本当に窓の角度の問題だろう。そう思ってはいるが、最近そう思えない時が増えてきた。

 目が合うと、汐織がふわりと微笑んだ。


「おはよ、麻貴くん」


 穏やかな声に、廊下の喧騒が一段下がった気がした。これも気のせいだ。そう思っておこう。

 テスト初日の朝に教室で名前を呼ばれて以来、汐織は学校でも普通に麻貴に声をかけてくるようになった。それはテスト期間が終わってからもそれは変わらないようだ。むしろ拍車がかかっていた気もする。


「お、おう。おはよう」


 軽く頭を下げ返した。慣れたつもりでも、未だにここで声がワンテンポ遅れる。情けないが、まあ仕方ない。

 彼女はちょうど麻貴の隣に並ぶ位置で、すうっと歩く速度を落とした。並んで、教室方向へ向かう。


「ご飯、ちゃんと作れた?」

「ああ。送ってくれたレシピ通りやったら、俺でも一応作れたよ。普通に美味かった」

「ほんと? よかったぁ」


 汐織は嬉しそうに目を細めた。

 さすがに毎日毎日うちに来るわけでもない。そういう日のために、汐織が「これくらいなら麻貴くんにも作れるよ」というレシピをいくつかLIMEで送ってくれていたのだ。レシピと言っても全部画像と手書き。丸っこい字の書き込みが入った、汐織オリジナルの特製版だ。

 昨日の日曜は、その中から豚の生姜焼きを選んで作ってみた。生姜とにんにくのチューブの量だけは目分量で恐る恐る決めたが、結果としては十分美味い夕飯になった。自炊できる側の人間に俺もとうとうランクアップしたのではないか、と一瞬本気で思ったくらいだ。無論、そんなのはただの幻想なのだろうけど。


「ほんと、作り方次第なんだなぁ。もうちょっとレパートリー増やしたいから、また作れそうなの教えてくれ」


 軽く言ったつもりだったが、汐織はそこで急に顎に指先を当てて、視線を少しだけ上に逃がした。


「えー? どうしようかなぁ」

「え、なんで」

「だって……麻貴くんが料理上手くなると、私が行く意味なくなっちゃうし」


 声が、ほんの少し落ちた。

 冗談めかした、軽口の体裁。でも、語尾に少しだけ寂しい色が混じっているのは、気のせいではないだろう。


(あ、あの。汐織さん? ここ、学校の廊下なんですけど?)


 心臓が、ばくばくと高鳴る。

 学校で、しかも朝の廊下で、暗にうちの台所のことを匂わせる発言をするとは、想定外もいいところだ。意地悪なのか天然なのか、判別がつかなかった。


(つか、可愛過ぎるから。反則だから、それ)


 心の中で頭を抱えそうになりつつ、必死に表情を保つ。


「ば、バカ。意味とか……別に、そういうのはないだろ」

「え?」

「お前が来たい時に来ればいいって、言わなかったか?」


 声を抑えて、ぼそりと言う。

 あの嵐の夜、ベッドの中で「いつでも来ていい」と告げたあの時のニュアンスを、できるだけ崩さないように。なるべく軽く、それでいて、軽すぎないように。

 汐織は驚いたようにぱちぱちと瞬きをした。

 それから、ぱっと顔を綻ばせて。


「……うんっ」


 花が咲くみたいに、嫣然と笑った。

 心臓がさっきから不規則に跳ねていて、廊下の真ん中で立ち止まりそうになる。

 頼むから、学校でその笑顔はやめてくれ。このままでは心不全になってしまう。

 そこで、予鈴が鳴った。

 彼女は名残惜しそうに、しかしすぐに切り替えるように、軽く手を上げる。


「じゃあ、また後でね」

「お、おう」


 ふわりと長い黒髪が揺れて、汐織が女子のグループのほうへ歩いていく。何人かの女子が早速彼女を取り囲んで、何やら早口でひそひそ話しかけているのが見えた。汐織は誤魔化すようの笑って、何かを返している。

 その光景の遠景で、やっぱり視線を感じた。

 ちらり、ちらり、とあちこちから、自分のほうへ刺さる。さっき下駄箱で感じたのと同じ種類だ。


(やっぱ、人前で話すと目立つのかな)


 汐織はそもそも目立つ。その汐織と廊下で立ち話をすれば、どうやったって人目は集まってしまうのだ。今までは「篠宮汐織」のほうへ集中していたものが、ふたりで話している分こちらにも飛んできているのだろう。

 たぶん、そうだ。それだけだ。

 心の中で、自分にそう言い聞かせる。

 二年F組の引き戸を開けた途端、空気がほんの一瞬、止まった気がした。

 いや、止まったのではなくて、温度を変えた、と言うべきか。一斉に視線が集まって、同じ速度でいっせいに散る。

 露骨な男子。何人かは、それこそ獲物に狙いをつけたみたいな目をしていた。

 好奇心の塊の女子。こちらは口元を片手で押さえて、すぐ隣の友達と何かをささやいている。

 もう一度、心臓がおかしな鳴り方をした。


(え、何。どういうこと?)


 ドアの前で、思わず固まりそうになった。

 冷静になれ、と頭の中で唱えてから、なんとか足を進める。何でもないふりで自分の席に向かい、椅子に鞄を掛け、腰を下ろす。動作のひとつひとつが、いつもよりぎこちない自覚があった。

 居心地が悪くなって、スマホをいじっていた隼太の席に向かう。

 いつもなら、麻貴が来たらすぐに「よーっす」だの「今日もギリだな」だの軽口を投げてくる男だ。その隼太が、今日に限ってすっと顔を上げて麻貴を見た。

 そして──ほんの少しだけ眉を寄せる。


「……うーっす。今日も早いな」

「お、おう。まあな」


 返事はある。あるのだが、いつもと違っていた。明らかに何かを含んだ「うーっす」だ。

 声を落として、麻貴は訊いた。


「な、なあ。なんかあったのか?」


 隼太はちらりと教室を見回して、それから麻貴に向き直った。


「……昼休みに話すよ。どっちかっつーと、話してもらう、が正しいかもな」


 眉間に皺を寄せたまま、低く言う。

 何だその、なんだか刑事ドラマみたいな言い回しは。


「ん? あ、ああ。わかった」


 意味がわからないまま、頷くしかなかった。

 訊き返したら逆に面倒くさそうな空気が、隼太の周りに漂っていたからだ。なんとなく不安なまま、教室の前方に意識を逃がす。

 そこで、沙子と目が合った。

〝王子〟こと相沢沙子は、頬杖をついた姿勢のまま、こちらを真っ直ぐ見ていた。涼しい目で、特に怒っているわけではなさそうだ。

 ただ、彼女はほんの少しだけ肩を竦めてみせた。それから、目尻だけ柔らかく緩めて、ふっと笑う。


(どいつもこいつも……マジで、なんなの?)


 怒っているわけではない。むしろ、呆れている。明らかに何かが起きていて、それが起きるべくして起きた、とでも言いたげな顔だ。

 わからない。さっぱりわからなかった。

 チャイムが鳴って、担任の長田が教室に入ってきた。左手はいつも通りポケットの中だ。出席を取って、軽い連絡を済ませて、それから午前授業が始まる。

 現代文。古典。数学。何の科目をやっても、教師の声がやけに遠かった。教科書の文字が、何度同じ行を追っても頭に入ってこない。

 たまに顔を上げて、汐織のほうを盗み見た。

 いつもなら、彼女はノートを取る手も背筋もピンと伸ばしていて、優等生らしい横顔を保っている。だが、今日に限ってはどこか落ち着かない様子だった。シャーペンを持ったまま手が止まることがあるし、たまに教科書のページを意味もなく一枚めくり直したりしている。

 彼女の周りに集まる女子グループの空気も、先週までと少し違う気がした。

 具体的にどう違うのかはわからない。

 でも、何かが──確実に違っていた。


(やっぱ、なんかある、よな……)


 不安だけが膨れていく午前中だった。

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