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第50話 満面の笑み

 帰りは、来た道を戻る必要がなかった。

 羊羹屋の横に細い脇道があって、そこを進むと五分ほどで下山できるそうだ。汐織が調べたサイトに、そう書いてあったらしい。


「あ、ここ通ったかも」


 汐織が脇道を覗き込んで言った。遠足の帰り道の記憶が蘇ったのだろう。


「俺も、なんか見覚えある気がする」


 木々に覆われた細い道と、苔むした石段。確かに、小学生の頃に通ったような、通っていないような。記憶は曖昧だったが、どこか懐かしい空気があった。

 脇道を進んでいくと、不意に視界が開けた。眼下に西浜海岸が広がり、その向こうに──富士山が見えている。


「わっ。ここからも見えるんだ」

「今日だけで何回目だ、富士山」


 汐織がくすっと笑った。弁天橋から、展望台から、そして今。同じ山なのに、角度が変わるたびに違う顔を見せてくれる。富士山のバーゲンセールだ。

 時刻は三時を少し過ぎたところだった。もう少し遅ければ、夕陽が見られたかもしれない。


(どうせなら、富士山に沈む夕日も見れたらよかったのにな)


 これだけ富士山を見ているのに、肝心の観光サイトでもおすすめの夕日シーンを見れないとは、何とも皮肉なものだ。

 でも──それは次に取っておけばいい。そうやって『次』を当然のように考えている自分に、もう驚かなくなっていた。

 手は、まだ繋がれたまま。ゆっくりと山を下っていく。

 元の参道に戻って仲見世通りを通り抜ける時も、弁天橋を渡る時も、手は離れなかった。

 一度不安になって、ちらりと彼女の横顔を見てみる。すると、こちらの視線に気付いて、ふと目が合った。


「……なあに?」


 どこか恥ずかしそうに、彼女は小首を傾げた。

 麻貴は「い、いや」と首を振って、視線を前に戻す。

このままでいい、ということだろう。そう受け取ることにした。

 すれ違う男どもが汐織を見てから麻貴を見て、舌打ちをしていた。

 やっぱり、彼女と手を繋いでいるということは──当たり前だが──そういう風に、見えるのだ。ふたりは特別な関係で、この清楚可憐な美少女と麻貴は恋仲なのだ、と。

改めてそれを認識すると、無駄に緊張してきた。

 その反面、当人同士の会話はめっきり減っていた。

 行きの時は会話が多かったように思う。商店街も、金魚すくいも、橋の上でも。今にして思えば、お互い言葉で距離を埋めようとしていたのかもしれない。

 帰りは、口数が少ない代わりに、手が繋がっている。何とも不思議なものだ。

 同じ弁天橋で、同じ海の上で、同じ風を浴びているというのに、全く別物のように思えてしまう。同じ橋なのに、見える景色がぜんぜん違った。

 橋の上で、また風が吹いた。汐織の長い髪が揺れて、麻貴の腕に少しだけ触れる。行きなら心臓が止まっていたかもしれないが、今は不思議と落ち着いていた。何だか、少し大人になった気分だ。

 橋を渡り終えてから商店街を抜け、駅に向かう。

 午後の榎島は、行きの時よりも観光客が増えていた。すれ違う人の中に、手を繋いでいるカップルが何組かいる。

 行きはそれを横目で見るだけだったのに、今の自分は彼らと同じことをしているだなんて。数時間前の自分に言っても、絶対に信じてもらえなさそうだ。

 ふたりの手が離れたのは、結局、駅に着いてからだった。

 ゆっくり歩いていたせいか、時刻は四時を少し過ぎている。午後の日差しが傾き始めていて、駅前の影が長くなっていた。

 改札の前で、どちらからともなく手が離れた。意識的に離したのか、自然に離れたのか、自分でもよくわからない。

 いざ離すと、急に恥ずかしさが押し寄せてきた。

 さっきまでは繋いでいることが自然だったのに、離した途端、繋いでいたという事実が重くなる。右手がすうすうして、何もかもが落ち着かなかった。隣を見ると、汐織も自分の左手を右手でそっと握っていた。


「……今日は、ありがとう。楽しかった、です」


 汐織は少しだけ改まった口調で言うと、はにかんだ。

 何故か、いきなり語尾が敬語になっている。照れ隠しだろうが、彼女のそんなところも愛おしかった。


「あ、ああ。こちらこそ」


 麻貴も視線をあちらこちらにやりながら、答えた。

 お互いにどぎまぎしている。少し前まで手を繋いでいた人間の会話とは思えないぎこちなさだ。


(てか……もともと勉強教えてもらった御礼だったんだっけ)


 色々なことが怒りすぎて、すっかり忘れていた。御礼がいつの間にかデートになっていて、デートがいつの間にか手を繋ぐことになっていて。最初の名目は、とっくにどこかへ消えている。


「じゃあ、また月曜日ね」


 汐織が小さく手を振って、改札のほうへ歩き出す。

 ちょうどその時、駅メロディが鳴った。藤澤方面の電車がきたようだ。

 彼女が改札を通ろうとしたところで──麻貴は、声を少し張った。


「汐織!」


 汐織はきょとんとして、振り返った。

 少しばかり、勇気を要することを言おうとしている。でも、この程度のことが言えなくて、これからどう距離を縮めるというのだ。そう自分を叱咤激励し、言葉を紡いでいく。


「夏休みもさ、またどっか遊びに行こーぜ。もっと遠出したっていいしさ。楽しいこと、どんどんやってこう!」


 声は、少し上擦ってしまった。何でもない風に言ったつもりだったが、全然できていない自覚はある。心臓がばくばく鳴っているし、恥ずかしくて頭も沸騰しそうだ。

 でも、言えた。「また」を、自分の口から。御礼でも、ついででも、仕方なくでもなく。自分の意思として。

 汐織は一瞬だけ目を見開いた。それから──。


「──うん!」


 満面の笑みを浮かべて、元気よく頷いたのだった。

 さっきの敬語口調から一転、弾けるような声だ。嬉しさを隠す気がまるでない。

 小さく手を振ってから改札をくぐり、小走りで電車に乗り込んでいった。ドアが閉まる直前、車内からこちらを振り返って、もう一度だけこちらを振り返り、はにかんだように微笑んだ。

 それを契機とするように、ドアが閉まって電車が動き出す。

 電車はすぐに見えなくなってしまったが、麻貴はそこから動けなかった。


(これは……めっちゃくちゃ頑張ったのでは?)


 さっきまで汐織と繋がれていた右手を見る。

 まだ、彼女の手の感触が残っている気がした。小さくて、細くて、指先がひんやりしていて。でも、手のひらの真ん中だけほんのり温かかった、彼女の華奢な手。

 ぐっと、自らの手を握った。

 空っぽの右手を。何もない空気を。

 でも、そこには確かに何かが残っているような気がしてしまって。電車が去った線路の先を、しばらくぼーっと眺めてしまう。

 レールが夕方の光を受けて、鈍く光っていた。

 七月の空が、いつもより広く見えて。明日に、繋がっているように思えた。

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