第49話 繋がれた手
稚児ヶ淵に着いたのは、売店から五分も歩かないうちだった。
階段を少し降りると、視界が一気に開ける。
島の西南端、屏風のように連なる断崖の真下に、波に削られて平らになった岩場が広がっていた。海食台地というそうだ。案内板にそう書いてあった。
稚児ヶ淵の名は、かつて稚児の白菊がここから身を投げたことに由来するらしい。なかなかヘビーな由来だ。観光地の案内板にさらりと書くような内容ではない気がするが、歴史とはそういうものなのかもしれない。
「わぁ……!」
汐織から、素直な感嘆の声が漏れた。
島の入口側とは正反対の方角なので、麻貴の住む榎ノ電沿線は一切見えない。展望台から見下ろした街並みも、弁天橋も、全て島の向こう側。
目の前にあるのは、相模湾だけだった。
水平線が左右いっぱいに広がっていて、空と海の境界が溶けかけている。展望台から見た景色とはまた違っていた。あちらは「見下ろす」海だったが、ここは正面から向き合う海だ。波が岩に打ちつけて砕ける音が、腹の底に響いてくる。
ちょうど潮が引いている時間帯らしく、岩場の下まで降りて歩いている人が何人かいた。子どもたちが岩の間の水たまりで何かを探していたり、釣り竿を出していたりする人もちらほらいる。
「私たちも行ってみよ?」
汐織が声を弾ませた。
「足場悪そうだけど、大丈夫か?」
「大丈夫だよー。子どもじゃないんだから」
そう言いながら、岩場のほうへ降りていく。
さっき潮が引いたばかりなのか、岩の表面はかなり濡れていた。岩の窪みが天然の水たまりになっていて、取り残された小魚がぴちぴちと泳いでいる。海藻がぬめぬめと張り付いた場所もあって、正直あまり歩きやすい地形ではなかった。
汐織はロングワンピースの裾をほんの少しだけたくし上げて、バランスを取りながら岩場を歩いていく。スニーカーを履いているとはいえ、歩幅が狭くて少し危なっかしかった。
周囲にはカップルの姿もちらほらある。自分たちもあんなふうに見られているのだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、汐織の後について行った。
「先っぽの方まで行こ?」
無邪気にそう言って、汐織はとんとんと軽い足取りで進んでいく。
先端部分まで来ると、もう歩ける岩場はほとんどなかった。足元のすぐ先で波が砕けていて、しぶきが頬を掠める。数歩先には相模湾の深い青が広がっていて、足など届きそうにない。
「気持ちいい……」
汐織が海に向かってぐっと背伸びをした、その刹那。
「わわっ──」
身体がぐらりと揺れた。濡れた岩の上で、足元が滑ったのだろう。バランスを崩して、腕が宙をかいた。
「っと!」
考えるより先に、身体が動いていた。
汐織の右手を掴んで、ぐっと引き寄せる。彼女の身体が安定し、ほっと胸を撫で下ろした。
「……あぶねー。ったく、言わんこっちゃねえ」
「ご、ごめん」
汐織が申し訳なさそうに眉を下げた。
いつかの砂浜の時と、同じ構図だ。あの時は汐織が流木に足を取られてバランスを崩し、麻貴が支えた。顔が間近に迫って、心臓が止まりかけたのをよく覚えている。
あの時はすぐにお互いが離れたけれど、今回はそうならなかった。
前ほど顔が近づいたわけではない、というのがまずあるだろう。ただ、ふたりとも目はすぐには逸らさなかったし、今回は手も離さなかった。
波の音だけが、ふたりの間を埋めていた。
汐織の手は、相変わらず小さくて細かった。指先がひんやりしているのに、手のひらの中心はほんのり温かい。
どのくらいそうしていただろうか。いや、たぶん数秒だ。でも、その数秒がひどく長く感じた。
さっさと手を離すべき。そう一瞬思ったのだけれど、何となくここで手を離すのが正解だとは思えなかった。
「……危ないし、このまま手繋いどく?」
少し冗談っぽく言ってみた。
断られても傷つかない空気感を、意識的に装う。そんな小癪な自分に呆れもしたが、予防線を張っておかないと、この後つらくなるのは自分だ。
ほんの数時間前、弁天橋を渡っていた時は『さすがに繋げない』と思っていたくせに、偶然に乗じてその提案をしている。全く、どれだけ汐織と手を繋ぎたいと思っているのだ、自分は。
それを思うと、何だか可笑しくなった。きっかけは偶然かもしれないが、勇気を出したことだけは褒めてやりたい。
そして──。
「……うん」
汐織は、小さく頷いた。
俯き気味で、耳が赤い。驚いて顔を覗き込むが、彼女が手を離す気配はなかった。
どうやら、マジらしい。
「じゃあ、このままでいくか」
一応確認してみると、もう一度こくり。
麻貴が一度握っていた手を緩めると、お互いの指がするりと重なって。再び、ぎゅっと結びついた。
俗に言う、恋人繋ぎ。
彼女は相変わらず俯いたままなので、表情は見えない。でも、時折海風に吹かれて髪の隙間から見えるその頬は、キーホルダーを交換した時と同じくらい赤かった。
恋人繋ぎのまま、ふたりは並んで稚児ヶ淵を歩いた。
岩場を巡って洞窟の入口前を通り過ぎ、またぐるりと戻る。それだけなのに、ふたりで手を繋きでいるというだけで、同じ世界が違って見えた。
「あっ。お魚いるよ」
汐織が小さく声を漏らして、岩の窪みを屈んで覗き込む。
「おー、ほんとだ」
麻貴も隣にしゃがんで、窪みの中を確認してみた。水たまりの中で、透き通った小魚がちろちろと泳いでいた。
その間、もちろん手は繋がれたままだ。
こうしてたまに何か話はするものの、ここまでの道のりに比べれば、口数は少ない。
何も言わなくても成立する時間、といえようか。
汐織が時折貝殻に手を伸ばしたり、海の方を指差したりする。そのたびに、繋いだ手が少しだけ引っ張られて、互いの距離が揺れた。離れそうになって、またすっと戻る。そのうち手のひらが少し汗ばんできた。自分のなのか、汐織のなのか、もうわからない。
トイレ大丈夫? 喉乾いてない?
そんな気遣いの言葉も頭の中に浮かんだが、それを口にしてしまうと、手を離すきっかけを作ってしまう気がして。一度離すと、もう手を繋げなくなりそうで、結局何も言えなかった。
岩場から階段を上がって、散策路に戻る。
足場が安定した道に戻っても、どちらも手を離そうとはしなかった。もう『足元が危ないから』という理由は成立しないのに、それでもふたりの手は繋がれたままだ。
帰り道、さっきキーホルダーを買った売店の前を通りかかると、相変わらずおばちゃんが店先に立っていた。
ふたりの繋がれた手を見て、またにやりと笑う。そして、麻貴にだけ見えるように──ぐっと親指を立ててみせたのだった。
(ンのババア……)
汐織に気づかれたら終わるというのに、なんと言うことをしてくれるのだ。頼むからやめてくれ。
そう心の底から思いつつ、麻貴は苦い笑みを浮かべて小さく頷いた。
おばちゃんは満足そうに、暖簾の奥に引っ込んでいく。
ちくしょうめ。あの人には何だか勝てる気がしない。




