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第48話 よきせぬ交換

 定食屋を出て、稚児ヶ淵を目指す。

 しらす丼の満足感がまだ腹の中に残っていて、午後の散歩としては申し分ないコンディションだった。木々の間を抜ける小道は日陰が多く、七月の陽射しが木漏れ日に変わって石畳に落ちていた。蝉の声が、さっきより近い。島の奥に進むにつれて、人の気配が減っていった。

 五分ほど歩いたところで、道の脇に小さな売店が見えた。


「ちょっと喉渇いちゃった。飲み物買ってきていい?」


 汐織が店先の自動販売機を指差した。

 確かに、歩いていると汗ばんでくる。食後で喉も乾きやすいし、ペットボトルの水でも買っておいた方がよさそうだ。

 売店は小さかった。飲み物とアイスが入った冷蔵庫、棚にはお菓子と土産物が雑然と並んでいる。窓口から覗ける範囲に店主の姿は見当たらなかった。

 冷蔵庫からペットボトルの水を二本取り出して、ついでに店内を見回した時──違和感に気づいた。

 棚の一角を、やたらとカラフルな南京錠が占領している。

 赤、青、ピンク、銀。大きさも形もさまざまで、中にはハート型のものまであった。錠前の横に小さなカードが添えてあって、「お名前を書いてかけましょう!」と手書きで書かれている。

 観光地で南京錠を売っている理由が、すぐには思い当たらなかった。


「南京錠? なんでまた」


 一つを手に取って、ひっくり返してみる。普通の南京錠だ。鍵が二本ついている。


「えっと、それは……」


 汐織のほうを見ると、彼女は何かを言いかけて、口を噤んだ。頬がうっすら色づいている。知っているようだが、自分の口からは説明しづらいらしい。

 その時、売店の奥の暖簾をかき分けて、おばちゃんが顔を出した。


「〝龍恋の鐘〟で使うんだわさ」

「龍恋の鐘?」

「知らないかい? すぐそこにあるんだよ」


 おばちゃんは店の裏手のほうを親指で示し、続けた。


「榎島の岩屋の上にね、鐘があるんだよ。天女と五頭龍の伝説にちなんだ鐘でさ、恋人同士で鳴らすと永遠に結ばれるっていう言い伝えがあるの。知らなかった?」


 名前だけはどこかで聞いた記憶がある。小学生の遠足では寄らなかったはずだ。

 いや、もしかしたら行ったのかもしれないが、ガキンチョに恋人同士で鳴らす鐘だの何だのと言われても響くはずがない。


「で、その鐘の周りのフェンスにね、カップルがこの南京錠をかけるんだよ。ふたりの名前を書いてさ、鍵をかけて、鍵は海にぽいっ。縁結びのおまじないってやつ。フェンスはもう錠前でびっしりだよ」


 嬉々として解説してくれた。

 何百回と同じ説明をしてきた人間の慣れた口調だ。


(ああ、要するにデートスポットか)


 南京錠の意味を理解した途端、手に持っていた錠前がずしりと重くなった気がした。慌てて棚に戻す。


(さすがにそれは……無理だな)


 付き合ってもいないのに、縁結びの鐘を鳴らして南京錠をかけるなんて、ハードルが高すぎる。どうやらこの売店が「龍恋の鐘」と岩屋洞窟への分岐点になっているらしく、だからこんなに南京錠を推しているわけだ。

 どう断ろうか。汐織のほうを窺うと、彼女は別の棚のほうを向いて、土産物のキーホルダーを眺めるふりをしていた。気まずいのは向こうも同じらしい。

 と──おばちゃんが、追撃してきた。


「あんたらにぴったりじゃないか。どうだい、一個買っていったら?」


 ふたりとも、固まった。

 一瞬の沈黙の後、ふたりして顔を見合わせた。汐織の顔が、みるみる赤くなっていく。耐えきれなくなったように、彼女が俯いてしまった。

 このおばちゃん、とんでもないことを言ってくれた。


「えっと、俺たちは……」


 なんとかこの場を切り抜けなければ。「友達です」と言えばいいのだ。友達。ともだち。たった四文字。なのに、その言葉がなぜか喉から出てこない。

 友達、で合っているのか?

 もう友達という枠からは、とっくにはみ出している気がする。かと言って恋人でもない。台所仲間? 契約相手? どれも違う。この関係に名前がないのだ。

 言い淀んでいると、おばちゃんが畳みかけた。


「あら。あんたら、まだ付き合ってなかったんかえ」


 空気が、決定的に壊れた。


(こんのクソババァ~!!)


 心の中で盛大に毒づいた。空気をとんでもないことにした上に、とんでもないことを言いやがる。

 観光地で長年商売をしてきた嗅覚か、それとも単なる無遠慮なのか。たぶん両方だろうが、最悪だ。

 そこで、汐織が消え入りそうな声で口を開いた。


「わ、私たちにはまだ早い、かな……」

「まだ!?」


 思わず食いついてしまった。

『違う』ではなく『まだ早い』。その差は、天と地ほど違う。『まだ』ということは──いつかはそうなることを、前提にしているのだろうか?


「え!? あ、その……」


 汐織が自分の発言の意味に気づいたらしく、耳まで真っ赤になって黙り込んだ。口をぱくぱくと動かしているが、言葉が出てこない。

『まだ』の一言が、ふたりの間の空気を取り返しのつかないところまで運んでいく。

 期待していいのか。いや、焦って単に言い間違えただけだろう。そう考えるのが自然なはずなのに、頭の中がぐるぐるする。心臓はうるさいし、顔も何だか 熱くなってきた。汐織も真っ赤だ。絵面が地獄だった。

 どうする。何を言えばいい。この沈黙をどうにかしなければ。

 おばちゃんがにやにやしているのが視界の端に映って、さらに居たたまれなくなった。完全に楽しんでいるようだ。人の恥を肴に商売するなと言いたい。

 もう限界だ。

 ええい、ままよ──麻貴は近くの棚に目をやり、最初に目に入ったものを指差した。


「こ、これ! これ買います!!」


 指差した先にあったのは、ネームを彫れるキーホルダーだった。観光地でよく見かけるやつだ。小さな金属のプレートに、機械が自動で名前を彫ってくれるタイプ。棚の隅に彫刻用の機械が置いてあった。

 南京錠から話題を逸らすためだけの、完全な苦し紛れだった。


「じゃ、じゃあ私も、それ、買います……」


 汐織も便乗した。この空気を何とかしたい一心が、声の震えから伝わってくる。キーホルダーという無難な選択肢に、ふたりとも飛びついた。

 おばちゃんが「あいよ」と言いながら、キーホルダーと水の代金を受け取る。その口元がまだにやついているのは、見なかったことにした。

 ネーム彫刻の機械は売店の隅にあった。おばちゃんの視線から少しだけ離れた場所で、ようやく一息つく。

 顔の熱がまだ引いていなかったが、それはたぶん汐織も同じだ。ふたりとも妙にぎこちない動きで、機械の前に並んだ。


「お互い、自分の名前彫ろっか」


 汐織が、少し落ち着きを取り戻した声で言った。


「自分の? まあ、いいけど」


 麻貴としては、相手の名前を彫ってプレゼントするつもりだった。自分のキーホルダーに「SHIORI」と彫って、汐織に渡す。そういうイメージだ。

 なのに、彼女は自分の名前を彫れという。もしかして、自分の名前を麻貴に彫られるのは嫌だったのだろうか。少しだけ引っかかったが、言われた通りにすることにした。

 機械の前に並んで、それぞれアルファベットを入力する。ウィーンという小さなモーター音を立てて、刃先が金属を削っていった。

 麻貴のキーホルダーには『ASAKI』。

 汐織のキーホルダーには『SHIORI』。

 小さな金属のプレートに、それぞれ自分たちの名前が刻まれた。

 これで終わりだ。お互いに自分用のお土産ができた。南京錠事件からの上手い着地だ。そう思っていたら──。


「……交換しよ?」


 汐織が自分のキーホルダーを両手で持ったまま、こちらをおずおずと見上げた。


「え?」

「今彫ったやつ、交換したいなって」


 呆気にとられた。

 自分の名前を彫ろうと提案した理由が、ここにきて繋がった。自分の名前を彫ったものを交換すれば、相手の手元に自分の名前が残る。

 まさか、最初からこれを狙っていた、とか?

 南京錠を断った後のあの一瞬で、もうこの結末まで思い描いていたのだろうか? 或いは、特に何も考えずに天然でやっている? だとしたら、大層な小悪魔っぷりだ。これで勘違いしてしまう男子の屍の数は、天まで続くだろう。そして、自分もそうなり兼ねない。


「あ、ああ……そういう、ことか」


 声が少し掠れた。

 汐織が『SHIORI』のキーホルダーを、そっと差し出した。麻貴も『ASAKI』のキーホルダーを差し出す。

 金属の小さなプレートが、指先から指先へ渡っていった。

 麻貴の手のひらに、『SHIORI』。

 汐織の手のひらに、『ASAKI』。

 ひんやりと冷たい、金属特有の無機質な冷たさ。なのに、手のひらの中で握ると、不思議と温かい気がした。


「えへへ。大事にするね?」


 汐織がはにかんで、キーホルダーを両手で包むようにして胸の前に抱えた。

 たかがキーホルダーだ。数百円の、観光地のお土産。南京錠ほどの意味もない、ちっぽけな金属の板に過ぎない。

 なのに、彼女がそうやって抱えると、それがとてつもなく大事なものに見えた。


(いや、だから……これじゃあ、もう南京錠買うのと変わらないって)


 お互いの名前が入ったキーホルダーを、お互いが持つ。やっていることの意味は、南京錠と何も変わらない。むしろ、持ち歩ける分だけたちが悪かった。

 あっちはフェンスに固定されて終わりだが、こっちは毎日ポケットや鞄の中に入れることになる。日常の中に、ずっと相手の存在を感じることになってしまうのだから。

 視界の隅で、おばちゃんがにやついている気配がした。もしかしたら、あの人は最初からこうなることをわかっていたのかもしれない。

 麻貴は『SHIORI』のキーホルダーを、財布の中にしまった。ポケットに入れると落としそうで怖かったのだ。


(落としたら困る、か)


 そう思っている時点で、もう大事にしていることと同じだ。

 汐織は鞄のポケットに丁寧にしまっていた。ファスナー付きの内ポケット。一番安全な場所を選んでいた。

 売店を出ると、道が二手に分かれていた。

 一方は『龍恋の鐘』への道。もう一方は岩屋方面、稚児ヶ淵への道だ。手書きの案内板が、それぞれの方角を指している。

 ふたりは迷わず稚児ヶ淵へ続く道を選んだ。

 今日のところは、こっちでいい。

 でも、次に来ることがあれば──別の道を、選ぶかもしれない。

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― 新着の感想 ―
おばちゃん、GJ! くそばばあのフリをしているが、何か特別な存在の化身に違いない。 今朝も身悶えました。
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