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第47話 しらす丼を君と

 展望台を出て、島の奥へ続く小道を数分歩いたところに、その店はあった。

 汐織が昨日のうちに目を付けていた定食屋だ。観光客向けの派手な看板を掲げた店が多い中で、ここだけは少し様子が違う。木の引き戸に「営業中」の札が下がっていて、暖簾は色が褪せて端がほつれかけていた。壁には蔦が這っている。

 中に入ると、年季の入った木の柱が飴色に光っていた。壁には色褪せた短冊メニューが何枚も貼ってあって、天井の梁が低い。古びてはいるが、汚いのとは違う。長い時間をかけて磨かれた場所だった。

 汐織がこの店を選んだのは、なんとなく納得がいく。


「奥のお座敷、空いてますよ」


 店のおばちゃんに案内されて、奥の小上がりへ進んだ。靴を脱いで畳に上がる。窓際のテーブルがぽっかりと空いていた。

 座った瞬間、思わず「おお」と声が出た。

 窓の向こうに、海が見えたのだ。

 さっきまで展望台の上から見下ろしていた海が、今度は少し近い高さにあって、山々かはばっと広がっていた。窓が開け放たれていて、潮風がそのまま入り込んでくる。クーラーは入っていないのに、全然暑くなかった。外の風が心地よくて、座っているだけで身体が涼んでいく。蝉の声と、遠くの波の音も、それに寄与しているのかもしれない。


「いい席取れたね」

「ああ。ツイてるな」

「テスト頑張ったご褒美かも」


 汐織がにっこりと笑った。

 テストの御礼で来たはずなのに、汐織のほうがご褒美だと言ってくれるのが、なんだか可笑しい。御礼をしているつもりが、結局こちらのほうが楽しませてもらっていた。

 注文はメニューを見るまでもなかった。ふたりとも、しらす丼。昨日から決まっていた約束だ。

 注文を済ませて、窓の外を眺める。階段で消耗した疲れが、座っているだけで少しずつ引いていった。

 麻貴の部屋とはまるで違う空間なのに、隣にいる安心感は不思議と同じだ。


「この後さ、岩屋の方まで行く?」


 麻貴が訊いた。

 岩屋とは、榎島の最深部にある岩屋洞窟だ。弁財天信仰の発祥の地とも言われる海蝕洞窟で、弘法大師や日蓮上人が修行したと伝わる場所。小学生の遠足で行った記憶はあるが、「洞窟を探検した」という興奮しか覚えていない。


「どうしよっか?」


 汐織がそう言いながら、ちらりと自分の服を見下ろした。

 その仕草で、はっとする。

 汐織は裾の長いワンピースを着ている。洞窟の中は足元が悪いだろうし、裾が汚れるかもしれない。せっかくの外行きの服が台無しだ。

 でも、彼女はきっと、麻貴が行こうと言えば頷くだろう。この子はそういう子なのだ。


「まー、洞窟はいいか」


 麻貴がさらりとそう言うと、汐織は困り眉で笑って、少しだけ肩の力を抜いた。


「あ、でも稚児ヶ淵のほうは行きたいかも」


 そして、代わりにそんな提案を出したのだった。

 稚児ヶ淵は、海底が隆起してできた岩場だ。断崖の真下に広がっていて、富士山の向こうに沈む夕日が美しく、『県の景勝五十選』にも選ばれているらしい。昨日汐織が見ていた観光サイトに書いてあった。


「じゃあ、とりあえずそっちまで行こっか」


 景色が綺麗な場所なら、汐織も喜ぶだろう。もっとも、稚児ヶ淵までの道もそれなりに階段がありそうだが──さっきの二の舞にならないよう、今度はゆっくり行こうと心に誓った。

 雑談を交わしながらしばらく待っていると、しらす丼が運ばれてきた。

 丼の上に、生しらすが小山のように盛られている。半透明の小魚が、びっしりと白飯を覆い尽くしていた。その上に大葉と刻み海苔、卵黄がひとつ。脇に小さな醤油差しが添えてある。


「わっ、すごい……」


 汐織が目を丸くした。スマホで写真は見ていたのだろうが、実物のインパクトは別物らしい。しらすの一匹一匹が光を受けてうっすら透き通っていて、確かに壮観だった。

 麻貴は丼を手元に引き寄せて、しらすの山を見下ろした。


「全員がこっちを見てる……」


 ぼそっと呟いた。

 しらすの黒い目が、全部こちらを向いている。数百匹分の視線が、一斉に麻貴を見つめていた。


「もうっ、そういうこと言わないでよ。ほんとにそう見えてくるでしょ?」


 汐織が眉をひそめて咎めたが、口元は笑っている。自分の丼のしらすを改めて覗き込んで、「……確かに」と小さく呟いていた。やっぱり見えるらしい。


「「いただきます」」


 手を合わせた。

 醤油を少量回しかけて、箸でしらすを白飯と一緒にすくい上げる。ひと口。

 しらすの甘味と潮の風味が、口の中いっぱいに広がった。白飯の温かさと、生しらすのひんやりした冷たさ。その温度差が不思議と心地良かった。噛むとしらすの小さな身からじゅわりと旨味が滲み出して、醤油の塩気と合わさる。

 卵黄を崩すと、また違った。まろやかさが加わって、味が丸くなる。大葉の清涼感が後味をすっきりさせてくれるから、箸が止まらなかった。


「美味しい……」


 汐織が、小さく呟いた。

 あの『美味しい』の声だ。

 ふと、最初に台所で聞いた時のことを思い出した。あの頃の汐織は、おそるおそる味を確かめるようにして『美味しい』と言っていたように思う。味がしなくなったと泣いていた夜の、ずっと前の話だ。

 でも、今のはそれとは違う。身体の力が抜けて、目が少し細くなっていて、口元が自然と綻んでいた。素直に味を楽しんでいる声だった。

 汐織がしらすを口に運びながら、窓の外に目をやった。


「やっぱり来てよかったね」


 それが榎島のことなのか、この店のことなのか、それとも麻貴と一緒にということなのか。

 どちらにせよ、彼女が楽しんでくれているなら、それでいい。

 窓の外には海が広がっていた。波の音を聞きながら食べるしらす丼。いつもは麻貴の部屋の狭い窓から、かろうじて見える海を眺めながら食卓を囲んでいる。それが今日はこんな場所で、汐織と向かい合って同じものを食べている。

 場所が違っても、汐織と一緒にごはんを食べるということが特別であることに変わりはない。あの部屋だから成り立っていた関係ではないのだ、と。どこにいても、この子との食事は格別で。麻貴にとっては特別なものだった。


「麻貴くん、卵黄崩した?」

「おー。崩した方が美味いな、これ」

「だよね。まろやかになるっていうか……あ、大葉と一緒に食べるのもいいよ」

「ほう」


 言われた通りに、しらすと卵黄と大葉をまとめて口に入れた。三つの味が合わさって、さっきとはまた違う旨味が広がる。


「確かにこれは美味いわ」

「でしょ?」


 汐織が得意げに微笑んだ。

 食べ方を教え合うのも、いつもの台所と同じだった。場所を変えても、このやり取りは変わらない。

 汐織がしらす丼を食べ進めながら、ふと箸を止めた。


「ねえ、麻貴くん」

「うん?」

「しらすって、生まれてからお店に並ぶまでの間、すっごく短い時間しかないんだって。朝獲って、その日のうちに届けないと鮮度が落ちちゃうから」


 唐突な豆知識だった。観光サイトで読んだのだろう。


「へえ。だから生しらすって珍しいのか」

「うん。だから、こうして食べられるのって、結構タイミングなんだなって思って」


 汐織は丼に目を落としたまま、少しだけ間を置いた。


「なんだか、出会いみたいだよね」


 ぽつりと、零れ落ちるように言った。

 心臓が、どくんと鳴った。

 出会いやタイミング。

 それはもちろん、しらすの話だ。しらすの話のはずなのに、彼女の声は、しらすだけの話をしているようには聞こえなかった。

 或いは、自分が勝手にそう受け取っただけかもしれない。ただ──。


「……かもな」


 それだけ返した。

 汐織は少しだけ口元を綻ばせて、また箸を動かした。

 それ以上は何も言わなかった。麻貴も、何も訊かない。それ以上の話は野暮というものだ。

 しらす丼を食べ終わる頃には、窓から差し込む光の角度が少し変わっていた。昼過ぎの陽射しが畳の上に四角い形を落としている。

 お茶を飲みながら、ぼんやりと窓の外を見ていた。

 数ヶ月前は、コンビニのパンとカップ麺をひとりで食べていた。テレビの音だけが響く、あの狭い部屋で。味なんて気にせずに腹を満たしていた。

 あの頃の自分が今の自分を見ればどう思うだろうか?

 あの篠宮汐織とこうして休日に榎島の定食屋で過ごしていると言っても、絶対に信じないだろう。


「ごちそうさまでした」

「ごちそうさま」


 ふたりで手を合わせた。

 汐織が丼を見下ろして、綺麗に食べ終わった器をしばらく眺めていた。


「美味しかったね」

「ああ」

「また来たいなぁ」

「……だな」


 何となしに汐織が言って、思わず一瞬間が空いてしった。

 その『また来たい』はこの定食屋に、ということだろうか。それとも、麻貴と、ということだろうか。

 どちらの意図かはわからない。でも、汐織はこちらみ見て、少しだけ目を細めた。

 会計を済ませて、店を出る。引き戸を開けると、午後の陽射しが正面から当たった。

 ここから暫く歩いて階段を下った先に、稚児ヶ淵がある。

 汐織が半歩先を歩き出して、振り返った。


「行こ?」


 麻貴はその笑顔に、黙ってついていった。

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