第46話 展望台にて
──歩いていこう。
何故、そう宣言してしまったのだろうか。今となっては自分でもわからない。二度目のエスカーの乗り場は目の前にあって、汐織も「乗る?」と訊いてくれていた。あそこで素直に「乗ろう」と言えばよかったのだ。
なのに、変な意地を張ってしまった。
エスカレーターなんかに金を払ってたまるか──そんな根拠のない闘志が一瞬だけ灯ったのが元凶だったのだも思う。汐織の前で情けない姿を見せたくなかったのかもしれないし、金魚すくいで一匹すくえた程度の成功体験が妙な自信を生んでいたのかもしれない。
いずれにせよ、判断を完全に誤った。
二区間目の階段は、一区間目よりさらに急で長かった。石段の幅が狭くなっていて、一段一段の段差もきつい。最初こそ景色や花に思いを馳せ何か話していたが、途中からは無言。会話を楽しむ余裕などとっくに消えていて、ただひたすら足を動かすことだけに集中していた。
そして今──島の頂上付近にたどり着いた時には、麻貴は完全に息が上がっていた。
「ぜえ……ぜえ……」
膝に手をついて、前かがみになる。太ももがぱんぱんだ。汗が額から顎を伝って、地面にぽたりと落ちた。
「だ、大丈夫……?」
さすがに汐織も心配そうな顔をしている。だが、エスカレーターの提案を断ったのは麻貴のほうだ。彼女に非は全くない。
「ああ……ご、ごめん。汐織は平気なのか?」
「ううん、私も結構疲れちゃった。麻貴くんほどじゃないけど」
麻貴くんほどじゃない──その一言に、地味にダメージを受けた。汐織はワンピースにスニーカーという格好ながら、こちらよりだいぶ余裕がある。おそらく麻貴の運動不足が深刻だったのだろう。体育の授業だけで運動した気になるのは危険だ。
「素直にエスカレーター乗っとけばよかったな……」
「だね」
お互いに苦い笑みを漏らした。
デートでこんなに疲れてどうするんだ。隼太が見ていたら腹を抱えて笑っているに違いない。見られていなくてよかった。
「せっかくだし、展望台も見ていこっか」
汐織が、少し先に見える建物を指差して言った。
島の頂上にそびえる灯台展望台。榎島のシンボルのひとつだ。確かに、ここまで来たなら上らない理由はない。ただ──。
「階段、じゃないよな?」
「エレベーターみたい。ほら」
汐織が指差した看板を見て、心の底から安堵した。
もし階段だったら本気でリタイアしていたかもしれない。
入場券を買って、エレベーターに乗り込む。扉が閉まった瞬間、冷房の効いた空気が身体を包んだ。
エレベーターの中で冷気に救われるという、なんとも情けない光景だ。
展望台の上に出ると、風が一気に変わった。下界よりずっと強い海風が、正面から吹き付けてくる。
思ったより人は少なかった。午前中から昼にかけてはまだ空いている時間帯なのだろう。
「なんだかんだで、ここ上ったの初めてだな」
「私もたぶん初めてかな? 毎日見てるのにね」
ふたりで手すりのほうへ歩いていく。
手すりに辿り着いた瞬間、息を呑んだ。
七月の海が、足元から遠くまで広がっていた。空との境界が曖昧なほどの青。水面が陽光を受けて、無数の光の粒を散らしている。左手の相模湾、右手に弧を描く陸地が、ひとつの画角に収まっていた。
さっき渡った弁天橋が、ここから見ると細いリボンみたいだった。あの上を、さっきまでふたりで歩いていたのだ。
「綺麗だね……」
汐織が、隣で呟いた。手すりに両手を置いて、遠く海のほうを眺めている。風に黒髪が流れて、目を少し細めていた。
景色は確かに綺麗だった。
でも、景色と彼女のどちらを見るかと問われれば──答えは、もう決まっている。
(夜景だったら、もっとすごいんだろうな)
ふと、そんなことを思った。もしまた来る機会があるなら、夜もいいかもしれない。ムードもあるし、もっとデートっぽい気分にもなるだろう。
(また来る、か)
当然のように想定している自分に、思わず苦笑いを浮かべた。
そんな機会があるかわからないのに。でも、自分自身でその可能性は否定しなかった。
汐織の隣に並んで、今度は反対側の景色を見てみる。
陸地のほうへ目を向けると、榎ノ電の線路が海岸沿いを走っているのが見えた。その向こうに街並みが広がっている。商店街の屋根、住宅地、学校のグラウンド。そして──ふたりが通う高校の校舎が、小さく見えた。
ここからだとこんな風に見えるのか。いつも学校や部屋から榎島のほうを眺めていたから、逆の視点は新鮮だった。毎日通っている場所が、ジオラマみたいに小さい。
「あっ、見て。麻貴くんの部屋も見えるよ」
汐織が手すりから少し身を乗り出して、指差した。
言われた方角に目を凝らすと──確かに、羽瀬ヶ崎のほうに、麻貴のアパートの屋根らしきものが見えた。あの古びた二階建てが、街並みの中に埋もれている。
「おー、ほんとだ。結構見えるもんなんだなー」
あの場所で毎日、汐織は料理を作ってくれている。ふたりで食卓を囲んで、たまに勉強をして、駅まで送って。それが全部、ここからだと街並みの中の一点でしかない。
麻貴にとっては、これまでの人生観を変えるような出来事がたくさん起こっているのに。この景色の中では、屋根が僅かに見える程度というのが、なんだか変な感じだ。
汐織がしばらく街並みを見下ろしていた。風が髪を攫って、ワンピースの裾を揺らしている。
それから、ぽつりと呟いた。
「なんだか、不思議だよね」
声のトーンが、少し変わった。さっきまでの弾んだ声ではなく、何かを噛み締めるような響き。
「私たちは毎日一生懸命生きてるのに、ここから見るとあんなにちっぽけで……結構、人生ってそんな感じだったりするのかな」
誰かに向けて言ったというよりは、独り言に近かった。
麻貴は少し驚いた。まさか、汐織も似たようなことを考えていただなんて、思いもしなかった。
あのアパートで、あの学校で、どれだけ大変なことが起きていても、ここからだとどれも小さくて、見えもしない。それは皆そうだ。人生とは、確かにそういうものなのかもしれない。
でも──彼女はもっと近い場所のことを言っている気がした。
あの嵐の夜、泣きながら語ってくれた苦しみ。新しい家族との関わり、居場所を失いかけている不安。あれだけ大きく感じた痛みも、こうして高い場所から見下ろせば、街の中に埋もれた一点に過ぎない。
自分の苦しみを「ちっぽけなもの」として片付けることで、楽になろうとしている?
一瞬だけそう考えて、すぐに否定する。おそらく逆だ。
そんな「ちっぽけなもの」に苦しめられている自分を、嫌悪しているのではないだろうか。
麻貴はしばらく黙って、同じ景色を見ていた。
汐織の言葉を、頭の中で何度か転がした。簡単に返していい言葉ではない。ただ、放っておけなかった。
思い浮かんだのは、結局こんな言葉だった。
「確かに、ここから見たら何でもちっぽけに見えるかもしんないけどさ」
汐織が「え?」とこちらを振り向いた。風に髪が流れて、少し驚いたような顔をしている。
「自分で必死に悩んで出した答えって……少なくとも自分にとっては、全然ちっぽけじゃないと思うよ」
事前に考えていた言葉ではなかった。
ただ、彼女が自分の苦しみを「ちっぽけなもの」と評してしまうのが、嫌だったのだと思う。
あの夜、泣きながら話してくれたこと。味がしなくなったこと。居場所がなくなっていく恐怖。あれは全然ちっぽけなんかじゃない。少なくとも麻貴にとっては、胸が潰れそうなほど重たかった。
だから──他人から見てどれだけ小さなことでも、自分が必死に向き合って出した答えには、ちゃんと価値がある。そう伝えたかった。
「麻貴くん……」
汐織が、小さく名前を呟いた。
風がひときわ強く吹いて、ふたりの間を通り抜けていく。
汐織は少しだけ目を伏せてから、小さく息を吐いた。
それから──柔らかい笑みを浮かべた。
「うん……そうだね」
その笑みに、さっきまでの寂しさはなかった。
正しい言葉だったのかはわからない。もっと上手い言い方があったかもしれない。でも、彼女の気持ちが少しでも楽になったのなら、それでいい。
彼女はまた前を向いて、海を眺めた。さっきとは少し表情が違う。眉間の力が抜けて、目元が柔らかかった。
麻貴も、同じ方向を向いた。
いつか、彼女も自分の足で答えを出す時が来るだろう。家族のこと、居場所のこと。
その時、麻貴は彼女の背中を押せる存在でいたい。つらい時があるなら、支えられる存在になりたかった。
しばらくふたりで黙ったまま、展望台の風に吹かれていた。
会話がないのに、気まずくなかった。台所で横に並んでいる時と同じだ。何も言わなくても、隣にいるだけで成立する時間がある。
やがて、汐織がくるりとこちらを向いた。
「ご飯、食べに行こっか。お腹空いちゃった」
いつもの困ったような笑顔で。彼女は、さっきまでの空気をさらりと切り替えた。
これは、この子なりの気遣いでもある。そんな気遣いに、麻貴もいつも救われていた。
展望台のエレベーターに向かいながら、麻貴はふと思った。
この子の隣にいたい。
御礼とか、契約とか、そういう名目は全部抜きにして。ただ、一緒に毎日を過ごせたら。
──もう、誤魔化しようのない本音だった。




