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第45話 内緒の願い事

 仲見世通りを抜けると、境内へと続く長い石段が現れた。

 まっすぐ上へと伸びていく石の階段。両脇を木々が覆っていて、緑のトンネルのようになっている。階段の途中に有料のエスカレーター──エスカーの入口が見えたが、汐織は迷わず階段のほうへ足を向けた。


「せっかくだし、歩いて上ろうよ」

「いいよ。まー、体力に不安はあるけどな」

「だらしないなぁ……じゃあ、ゆっくり行こ?」


 そんなやり取りを経て、ふたりで階段を上り始める。

 石段は思ったより急で、十段も上ると早くも太ももに重さを感じた。運動不足が祟っている。汐織もワンピース姿で上りにくそうだったが、文句は言わずに一段一段しっかりと踏みしめていた。足元もよく見れば、スニーカーだった。一応、歩くことを想定していたのだろう。


「そういえばさ、小学校の時もこの階段上ったんだよな」


 息を整えながら、麻貴はふと言った。


「麻貴くんも遠足で来たって言ってたもんね。私も来たけど、全然覚えてないなあ」


 そこまで言ってから、汐織は小さく「あっ」と声を漏らした。


「でも……お弁当は美味しかったな」


 まるで、何かを懐かしむように。

 どこか遠い何かに思いを馳せるようにして、呟いていた。

 その言葉が何を意味しているかがわからないほど、麻貴も鈍いわけではない。

 きっと、そのお弁当は実母に作ってもらったものなのだ。

 嵐の夜に聞いた話が、一瞬だけ頭を過った。幼い頃に亡くなった、汐織の実の母親。その人が作ったお弁当の味を、今思い出したのだろうか。

 深入りしてはいけないということは、わかっていた。ただ、軽々しく流すわけにもいかない。彼女が自分からそのことを口にしたことくらいは、受け止めたかった。


「……もう、汐織が作った弁当の方が美味いと思うけどな」

「それは、どうだろう?」


 汐織が小さく笑って、小首を傾げた。

 それ以上は、お互いに何も言わなかった。

 互いの小学校時代の話は、これまでほとんど出てこなかったし、出さないようにしていた。家庭のことに直結しかねないし、変に傷をほじくり返し兼ねないからだ。でも、遠足の思い出くらいなら大丈夫だろう。こうして少しずつ、過去のかけらを交換していく。台所では「今」の話ばかりだったのに、外に出ると「昔」も自然と顔を出すから、不思議なものだった。

 休み休み上っていくうちに、たこせんべいもいつの間にか食べ終わっていた。階段がしんどくて、間接キスがどうとか考えている余裕が全くない。結局、せんべいの「真ん中問題」は階段の疲労にかき消されていた。意識しすぎていた自分が馬鹿みたいだ。

 ようやく上り切って、ふたりで息をついた。


「疲れたぁ……。小さい頃、絶対こんなに疲れなかったよね?」


 汐織が額に手の甲を当てて言った。

 全くの同感だ。思ったより段差のある階段がきつい。身体が鈍り切っている証拠だった。夏休みはランニングくらいした方がいいのかもしれない。


「確かに。衰えたもんだな」

「衰えたって……私たち、いくつなの?」

「あれから多分十年くらい経ってる。衰えを感じるには十分だろ」

「もう。そんなこと言ってたら、すぐお爺さんになっちゃうよ?」


 汐織は呆れたように言って、困ったように笑った。

 俺がお爺さんになる時は汐織が隣で婆さんをやっていてくれたら──一瞬そんなことを思ってしまい、頭を振る。さすがに気が早すぎだ。

 階段を上り切った先に、辺津宮の境内が広がっていた。

 開けた空間に朱色の社殿がどっしりと構えている。木々の間から木漏れ日が石畳にまだらな模様を落としていて、下の仲見世通りの喧騒はここまで届かず、蝉の声と風の音だけが響いていた。

 参拝の列はまだそれほど長くなかった。まだ午前中なおかげか、並んでいるのは数組程度だ。

 周囲にはやはりカップルが目立つ。榎島は縁結びの神様としても知られているから、当然か。


(まさか、この歳になって榎島神社に参拝に来るとはなぁ)


 小学校の遠足の時は、お賽銭を投げて適当に手を合わせただけだった。何を祈ったかなんて、もちろん覚えていない。


「せっかくだし並ぼうか」

「うん」


 最後尾についた。前に並んでいるのは若い女性二人組と、中年の夫婦。列はゆっくりと進んでいく。

 汐織が財布から小銭を取り出しているのが見えた。五円玉だ。ご縁がありますように、というやつだろうか。麻貴も財布を探ったが、五円玉は見当たらなかった。仕方なく十円玉を指先に挟む。

 順番が来た。

 ふたりで並んで賽銭箱の前に立つ。汐織が五円玉を投げ入れ、麻貴も十円玉を入れた。からん、と軽い音が重なる。

 二礼、二拍手、一礼。

 目を閉じて、手を合わせる。

 柄でもないことをしようとしている自覚はある。神様に何かを祈るなんて、小学生の遠足以来だ。あの頃は「ゲームが欲しい」とか、「お小遣いが増えますように」とか、きっとそんなくだらない願い事をしていたように思う。

 でも、今は──もう少し切実なものだった。


(汐織と……こんな時間を、ずっと過ごせますように)


 何度かその願い事を心の中で繰り返し、目を開ける。

 自分が何を祈ったのか改めて自覚して、少し恥ずかしくなった。縁結びの神様に、こんなことを願うなんて。さっき衰えたとか言っていた高校生が、何を願ってるんだか。

 でも、何が今の一番の願いかというと……きっと、それなのだと思う。それ以外、頭から何も浮かばなかった。

 参拝を終えて列から離れる。御朱印所の前を通りかかった時、汐織が何気なく訊いてきた。


「麻貴くんは、何お願いしたの?」


 軽い口調だった。世間話の延長みたいなトーンだ。

 だが、もちろん正直に答えるわけにはいかない。


「……内緒。そういう汐織は?」


 返すと、汐織は一拍だけ間を置いた。

 それから、少し悪戯っぽく笑って、人差し指を唇の前に立てた。


「じゃあ、私も内緒っ」

「……そうかよ」


 ちょっと不貞腐れたように言って、目を逸らした。

 そんな悪戯っぽい笑顔も可愛くて心臓がまた跳ねたというのは、ここだけの話だ。

 お互いに「内緒」の願い事。もしかしたら、似たようなことを祈ったのかもしれない。そう思ってしまうのは、さすがに都合が良すぎるだろうか。

 境内を後にして、ふたりは榎島のさらに奥へ向かって歩き出した。

 参道から外れると、木々に覆われた道が続いていた。枝葉が頭上を塞いで、日差しが遮られる分だけ空気がひんやりしている。人の流れは仲見世通りよりだいぶ少なかった。蝉の声が近くて、でもひんやりとしていて。七月の島は、もう夏の音をしていた、

 汐織が半歩先を歩いている。

 その背中を追いかけながら、麻貴はふと思った。

 こうして誰かの後ろを歩くのは、いつ以来だろう。独り暮らしを始めてから、誰かと一緒にどこかへ向かうということ自体がほとんどなかった。隼太と帰ることはあるが、あいつとは横に並んで歩く。

 誰かの背中を見ながら、その人がどこへ連れていってくれるのかわからないまま付いていく。そういうのは──子どもの頃に親の背中を追いかけていた時以来かもしれない。

 エスカーの標識を見て汐織が足を止めて、くるりと振り返った。


「あ、またエスカレーターあるよ? 今度は乗る?」


 いつもより少し子供っぽくて、無邪気で。そんな彼女の笑顔が何よりも好きなんだと、改めて思わされた。

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