第53話︎︎ もう、変わろうとしていた
「どうすんだって……それに対する返答は、金曜にしただろ?」
麻貴は居心地の悪さを噛み殺して、そう返す。
隼太から『もうさ、付き合っちまえばいいじゃん』と振られた金曜の帰り道、麻貴は『関係が変われば汐織の居場所の意味も変わる。その善し悪しは、俺には決められない』と答えた。それに対する隼太の返事は、こうだった。
『それを判断するのは、お前じゃなくて篠宮だ』
言いたいことは、わかる。
ただ、わかるのと、答えが出るのとは別の話だ。
最終的に変えるか変えないかを決めるのが汐織だとしても、こちらが動いてしまえば、汐織の前に並ぶのは「変える」と「変えない」ではなく、「受け入れる」と「断る」の二択になる。それは、判断と呼ぶには一方通行が過ぎた。
彼女にとっての今の居場所の重さを知っているからこそ、軽率には踏み出せない。
隼太は呆れたように、ふっと息を吐いた。
「いや、そりゃ金曜日の時点ではな? でも、土曜日にお前らは自分から変わろうとした。違うか?」
隼太の言葉が、するりと胸の真ん中に滑り込んできた。
反論しようとして、できなかった。
反論できなかった理由を、ひとつずつ手繰り寄せていく。
御礼という名目に乗っかってはいたが、誘ったのは麻貴だ。
稚児ヶ淵で手を繋ごうと言い出したのも、麻貴。
別れ際、改札の前で汐織を呼び止めて、「夏休みも、また」と口にしたのも、麻貴。
では、汐織は?
わざわざ沙子に服を相談して、悩んだコーディネートで待ち合わせに来て。キーホルダーの交換を提案してきたのは彼女のほうで、手を握り返したのも、改札前で弾けるように笑って頷いたのも、彼女だった。
どちらかが引っ張ったのではない。たぶん、両方だ。
ふたりで、揃って、関係を一段先に運ぼうとしていたのだ。
「それは、まあ……そうかも、しれない」
否応なしに認めると、隼太がふっと笑った。
「だよな? だったらそれはもう、答えが出てるんじゃないか? 篠宮の中でも」
隼太は珍しく、まっすぐに言った。
いつものふざけた皮も、軽さも、そこにはない。
「ゆっくり自分たちのペースでいいんじゃね、って俺はずっと思ってたよ。けど、こうやって周りに知られちまったら、もうシラ切るのは無理だろ」
「いや、何で周りに左右されなきゃいけねーんだよ」
咄嗟に言い返す。
当事者がゆっくり進むことを望んでいるのに、どうして周りに知られたからと言って、急がなければならないのだ。
だが、隼太は意地悪な笑みではなく、苦笑いに近い顔で答えた。
「そりゃお前。相手が、〝篠宮汐織〟だからだろ」
ぐうの音も出なかった。
学校一の美少女、と男子の間で公然のように言われている子だ。彼女に関する噂は、いわばスキャンダルみたいなもの。
黙って濁し続ければ、男連中は「やっぱりまだチャンスあるんじゃないか」と勝手に解釈して、汐織にちょっかいを出しに来るかもしれない。
逆に、はっきりさせてしまえば、それで終わる話だ。少なくとも、汐織にかかる負担は減る。
この場合、誤魔化し続けて消耗するのは、たぶん、汐織のほうだ。
(そうか。そういうことも考えなきゃいけないんだな)
自分の思慮の浅さに、麻貴は唇を噛む。
自分の都合で「居場所の意味が変わるのが怖い」と先延ばしにする間、そのツケを払うのは麻貴ではなく、汐織だ。そして、彼女は決してそのことを麻貴には言わないだろう。
黙っていると、沙子がふと、机の上にぽとりと、もうひとつ言葉を落とした。
「……朝、廊下で話してたでしょ?」
話の流れを断ち切るように、沙子が唐突にそう切り出した。
「あ、ああ。ちょっとな」
「あれね。クラスの子たちに質問攻めにされた、直後だから」
弁当のプチトマトを箸でつまんだまま、沙子はこちらを見もせずに言った。
「え……?」
言葉の意味を取り損ねて、間抜けな声が漏れる。
数秒遅れて、ようやく頭の中で像が結ばれた。
質問攻めをされた直後。
頭の隅で、朝の廊下の光景が静かに巻き戻されていく。
『おはよ、麻貴くん』
『ご飯、ちゃんと作れた?』
『あんまり料理上手くなっちゃうと、私が行く意味なくなっちゃうし』
あのひと言ひと言が、質問攻めの直後に、わざわざ自分から麻貴の前まで来て、口にしたものだとしたら。
息を止めていたのに気づいて、ようやく、ふっと吐く。
吐いた息が、思っていたより震えていた。
(……汐織、お前さぁ。それ、よく言えたな)
彼女が一番、ふたりの関係を「秘密」にしていたかったはずなのに。
彼女が一番、人の視線を浴び慣れていて、それで疲れることを知っているはずなのに。
あの場面で逃げ込まないで、わざわざこっちに来て。軽口の体裁で、『私が行く意味』という、ふたりの関係を匂わせるような言葉を、人前で口にした。
たぶん、それは……選んだからだ。
「……そういうこと、だと思うけどな。あたしは」
沙子はそこまでだけ言って、それ以上は付け加えなかった。
断定はしない。あくまで「あたしは」と置いて、答えそのものは言い切らない。
その代わりに、自分の弁当に、箸を伸ばす。
沈黙が、机の上に落ちた。
空き教室の窓の外で、グラウンドからのざわめきと、軽音楽部の練習がほんの僅かに混ざって聞こえてくる。誰かのベースの音が、低く、規則的に、地面の底のほうで鳴っていた。
それから、隼太がこほんと咳払いをひとつ。
「……まあ、要するにだ」
彼は自分のパンの袋を破りながら、言った。
「さっさとはっきりしろ、ってことだよ。それは、お前の役目だと思うぜ?」
パンの袋がしゃりと音を立てる。
その軽い音が、麻貴の中で、やけにくっきりと響いた。
しばらく、麻貴は手元の弁当を見下ろしていた。
二段の小さな箱。蓋を開けて、見慣れた配置と色合いが目に入る。
卵焼きの渦は、いつもより念入りだ。鶏もも肉の照り焼きは、皮目までこんがり。ほうれん草の胡麻和えにかかった胡麻が、いつもより細かく丁寧に擂られている気がした。プチトマトは隅にちょこんと、ふたつ。彩りに気を遣ったのが、ひと目でわかる弁当。
しかも、おかずの仕切りもきっちり整っている。麻貴が箸で取り出しやすいように、汁気のあるおかずと、そうでないおかずが上手く分けてあった。
『私が行く意味なくなっちゃうし』
軽口の体裁で、それでも、彼女のほうから差し出した小さな白旗。
それらの事情を全て鑑みてみると、これはたぶん、ふつうの弁当ではない。そう、思ってしまった。
いつもの弁当ではない。毎朝の習慣の延長で、流されるように出来上がったものではないはずだ。
汐織が、自分の意思で。変わることの決意を込めて作られた弁当だとしたら。
それならば、次に動くのは──。
黙って箸を取り、卵焼きをひと切れ口に放り込む。
舌の上に、白だしの優しい味が広がる。冷めているのに、出汁の香りがしっかりと立ち上った。何度食べても飽きない、汐織の弁当の味。
ただ、今日のそれは、いつもよりも、やけに沁みた。
ご飯を一口、照り焼きと一緒に頬張る。優しい甘辛さが、口の中で米の甘みと混じった。
胸の奥に、温かいものが、ゆっくりと広がっていく。
箸を置いて、ほんの少しだけ、目を閉じる。
目を開けると、空き教室の窓の向こうで、七月の空がやけに青かった。




