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第43話 榎島デート開始

 土曜日の午前十一時。榎島駅の改札前。

 麻貴は約束の十分前には着いていた。

 いつもなら五分前行動すら怪しい人間が、今日に限って余裕を持って到着している。自分でもおかしいとは思うのだが、昨夜からずっとそわそわして結局早く目が覚めてしまったのだ。

 服装にも珍しく迷った。クローゼットの中身を引っ張り出しては戻し、鏡の前で三回くらい着替え直した。結局、黒シャツにデニムパンツという無難な組み合わせに落ち着いたが、その過程は墓場まで持っていくつもりだ。もし隼太にでも知られたら、三日は笑われる。

 駅前は土曜の昼前ということもあって、観光客や地元の人間でそこそこ賑わっていた。普段通過するだけの駅に降り立つと、見慣れたはずの景色が妙に新鮮に映る。改札の向こうには土産物屋の看板が見えていて、海方面への案内表示が立っていた。藤澤方面に行く時にたまに車窓から眺めていただけの町が、降りてみると全然違った。

 改札の向こう側に目をやりながら、スマホの時計を確認する。十時五十二分。待ち合わせまではあと八分程だ。何度も確認するなと自分で思うのに、ポケットに戻したはずのスマホがまたすぐ手の中に戻ってきた。落ち着きがなさすぎる。


(今更緊張してるって、どうなんだよ)


 昨夜、布団に入ってからも妙に目が冴えていた。唐揚げの匂いが部屋にまだ残っていて、それが余計に眠れなかった理由だと思う。

 そこで、藤澤方面から電車が入ってきた。改札のほうから、ぞろぞろと人が降りてくる。

 その中に、一際目立つ少女がいた。

 腰まである長い黒髪に、すらりとしたモデル体型。白を基調にした、ふわりとしたワンピースでその華奢な身体をそっと覆っている。袖にゆるやかなギャザーが寄っていて、足首まである薄い生地が、歩くたびにひらりと揺れていた。

 汐織だった。ただし、今日の彼女は、いつもとは少し雰囲気が違っていた。

 あの大掃除の日に来た時の、動きやすさを重視した格好とは明らかに違う。お泊まりの翌日に着てきたワンピースとも、また別物。

 今日のは──誰かと出かけるための、外行きの服であることは、誰の目から見ても明らかだった。

 髪はいつもの通り下ろしていたが、耳のあたりに小さなヘアアクセサリーが光っている。これも普段は付けていないものだ。

 思わず、がん見してしまった。

 制服でもエプロン姿でも部屋着でも見慣れていたはずなのに、「出かけるために着飾った汐織」は初めてだ。破壊力が、ぜんぜん違う。


「えっと。お待たせ」


 汐織が少し照れくさそうにはにかんだ。頬がほんのり色づいていて、どこか視線が右往左往している。緊張しているのは、もしかすると彼女も同じなのかもしれない。

 返事をしようとしたが、声が一拍遅れた。


「……おー。時間通りだな」


 何とかそれだけ言った。もっと気の利いた言葉が出てこない自分が情けなかったが、今は語彙力に期待するだけ無駄だ。

 汐織が麻貴の前に立って、少し間を置いた。

 それから、おずおずと自分の服を見下ろす。ワンピースのスカート部分を、指先で軽くつまんだ。


「服、変だったかな……?」


 上目遣いで、こちらを窺ってくる。

 麻貴がガン見してしまったせいで、変な勘違いをさせてしまったようだ。


「い、いや! 全然。そんなことない。……よく似合ってると思う」


 精一杯の言葉を絞り出した。もっと何か言えればいいのに。「可愛い」とか「綺麗だ」とか、そういうストレートな言葉を持っていないわけではないが、口にした瞬間自分の心臓が破裂する気がした。そっちのほうが危険だ。


「ほんと? えへへ、やった」


 汐織が照れ笑いして、はにかんだ。両手を身体の前で軽く組んで、嬉しそうに口元を綻ばせている。

 またやられた。この笑顔にはいつまで経っても耐性がつかない。


(いやいや、これもう完全にデートの会話じゃん)


 昨夜「デートじゃね?」と気づいたばかりだというのに、開始三十秒で完全にその空気に呑まれていた。抗うだけ無駄なのかもしれない。


「じゃあ、行くか」

「うん」


 頷きあって、ふたりで榎島駅から商店街方面へ歩き始める。

 土曜の昼前、商店街は観光客でそれなりに賑わっていた。土産物屋、海鮮の店、カフェ、雑貨屋が軒を連ねている。狭い通りに人が行き交い、どこかの店先から焼きたてのせんべいの匂いが漂ってきた。

 並んで歩くが、ふたりの間には微妙な隙間がある。いつもの台所で横並びに座る距離よりは遠くて、でも決して遠すぎるわけでもなくて。どっちつかずの間隔が、妙に落ち着かない。


「なんか、このへんお洒落な店増えたよな」


 沈黙が気まずくて、当たり障りのない話題を出した。


「ね。学校帰りにみんなカフェとか寄ってるんだって」

「なるほどなー」


 麻貴はもともと実家が鎌蔵のほうで、独り暮らしを始めてからの最寄りは羽瀬ヶ崎だ。定期券の範囲外なので、榎島の商店街をこうして歩く機会はほとんどなかった。

 汐織も、友達とこの辺のカフェに来たりはしていないらしい。学校ではいつも女子グループに囲まれているが、放課後に遊びに行くという関係ではないのかもしれない。学校での汐織は、みんなに優しく、控えめで、でも深く踏み込んだ付き合いは沙子以外にはしていない。そういう距離の取り方が、少しだけ自分と似ている気がした。

 商店街を歩いていると、少し変わった店が目に入った。

 夏祭りのようなテーマパーク風の内装。入口に「金魚すくい」と書かれた看板がかかっている。どうやら、店内で金魚すくいができるらしい。看板の下に小さく「お持ち帰り不要・すくった金魚はそのままお返しください」と書いてあった。

 そのお店の前で、汐織の足が止まった。看板を見上げて、目がきらっと光る。

 興味を持ったのが即座にわかった。料理の時と同じ顔だ。


「金魚、持ち帰らなくていいんだって。麻貴くん、やる?」

「え、俺が?」

「うん。私、こういうの苦手だし」

「俺も自信はないんだけどな……まあ、持ち帰らなくていいなら一回やってみるか」


 半ば汐織に引っ張られる形で入店した。

 店内は涼しくて、水槽と金魚鉢がいくつか並んでいる。中央に、縁日のような浅い水槽が据えられていて、赤やオレンジの金魚がゆらゆらと泳いでいた。

 麻貴がポイ──紙の網──を手に取って、水面に向かい合う。金魚たちは意外と素早くて、最初の二回は空振りに終わった。力加減がわからない。


「こっちの赤い子、可愛い」


 汐織が隣で金魚を指差し、目を細めた。彼女の甘い匂いがかすかに届いたが、今はそれどころではない。


「金魚なんてどれも同じだろ」

「えー? そんなことないよ。この子が一番美人だと思う」


 謎の美人認定をして、汐織がくすっと笑う。

 魚なのに美人なのか、とか諸々のツッコミは一旦控え、麻貴はその美人な金魚とやらに狙いを定めた。そして、すっとポイを水面に滑り込ませる。ふわりと水の抵抗を感じたかと思えば、紙の上で金魚がぴちっと跳ねた。


「うっしゃ!」


 思わずガッツポーズ。一匹すくえた。


「わ、すごっ」

「よーし、このまま全部すくってやるぜ」


 素直に感心してくれる汐織の反応が嬉しくて、調子に乗ってもう一匹を狙いにいく。今度はオレンジ色のやつだ。慎重にポイを近づけるが──あっけなく紙が破れた。


「あぁっ……」

「破けちゃったね。もう一回やってみる?」

「いや、俺はこんなとこで運を使いたくない」

「運だったんだ」


 麻貴の軽口に、汐織がくすくすと可笑しそうに笑った。

 当たり前だ。金魚すくいなんて初めて成功させたし、きっと、彼女の前でかっこをつけたい麻貴に神様が力を貸してくれたに違いない。ただ、そういった運があるのだとしたら、もう少し他のところで使いたいというのが本音だった。

 すくった金魚を水槽に戻して、店を出る。持ち帰れないとわかっていても、一匹すくえたことに妙な達成感があった。

 台所の中にいる時とは、少し空気が違っていた。外の風と、人混みと、知らない店。それだけで、同じ軽口でも響き方が変わる。

 これまで一緒にいる時間は、いつも料理か掃除か勉強だった。金魚すくいには、何の意味もない。ただ楽しいだけ。それが、不思議と悪くない。

 商店街を抜けると、視界が一気に開けた。

 潮の匂いが強くなって、風の質が変わる。さっきまでの狭い通りが嘘みたいに、左右に海が広がっていた。

 目の前に、榎島弁天橋が伸びている。

 島へと渡る長い橋だ。七月の陽光を受けた水面がきらきらと光っていて、欄干の向こうには青い空がどこまでも続いている。橋の上を観光客がぞろぞろと歩いていた。

 普段、電車から眺めている海と橋。でも、こうして橋の入口に立って正面から見ると、全然違っていた。車窓越しの海は風景の一部でしかなかったのに。


「やっぱり土曜日は人が多いね」

「まあ、観光地だしな」


 そんな会話を交わしながら、ふたりで橋を渡り始める。

 風が強かった。海から吹き上がってくる潮風が、正面からまともに当たる。汐織が片手で髪を押さえながら歩いていた。ワンピースの裾がふわりと揺れて、長い黒髪が潮風に靡いて肩口から流れていく。


「風、気持ちいい」


 汐織が目を細めて、独り言のように言った。

 それに対して何も反応しなかったのは、風のせいだけではない。単純に、その横顔に見惚れてしまっていたのだ。

 学校で見せる顔とも、麻貴の部屋で見せる顔とも違っていて。そのキラキラ輝く横顔から、目が離せなくなってしまっていた。

 意識を取り戻したのは、橋の中ほどまで来たところで、汐織がぱっと足を止めた時だ。


「あっ、見て。富士山見えてるよ」


 汐織が無邪気に指差した。

 釣られるようにそちらを見ると、空が澄んでいるおかげで、富士山のシルエットがくっきりと浮かんでいた。頂上付近がまだうっすらと白い。七月でも少し雪が残っているのか、それとも雲だろうか。


「おっ。ほんとだ。めっちゃ綺麗に見えてんな」


 榎島弁天橋からは、天気が良い日には富士山が望める。通学の電車からも稀に見えることはあるが、こうして遮るもの無く眺めるのは初めてだった。夏の空気が少しだけ霞をかけているのに、それでもちゃんと見える。

 しばらくふたりで欄干に寄りかかって、海と富士山を眺めていた。

 汐織がぽつりと呟く。


「なんだか、不思議だね。普段毎日見えてるところに、自分がいるのって」


 いつも電車の窓から眺めていた島に、今、自分の足で立っている。確かに、不思議な感覚だった。


「……だな」


 そう返しながら、麻貴はそっと視線を海のほうへ逸らした。

 不思議なのは、この場所に汐織と並んでいること自体だ。つい一ヶ月前まで、碌に話したこともなかったクラスメイトと、橋の上で富士山を眺めている。

 いや、それだけではなかった。

 その子がほぼ毎日一緒にうちに来て料理を作ってくれていて、そして──半分事故ではあるが──お泊まりまでしてしまっている。不思議なことだらけだ。

 ひときわ強い風が吹いて、汐織が髪を押さえた。それを合図みたいに、ふたりで欄干を離れる。

 ふと周囲に目をやると、橋の上を歩いているのは観光客が大半だった。家族連れもいるが、男女のカップルが目立つ。手を繋いで歩いているペアも少なくない。

 視界の端に、汐織の手が映った。

 ワンピースの横で、何もしていない右手。細い指が、風に揺れるスカートの裾のすぐそばにある。


(手は……さすがに繋げないよなぁ)


 ちらりと見て、すぐに視線を前に戻した。

 付き合ってもいないのに手を繋ぐのは、さすがに。そう思うのに、一度意識してしまった時点でもう手遅れな気もする。

 距離にして、腕一本分。いつもの台所で並んで食器を洗う時のほうが、ずっと近いのに。外だと、やけに遠く感じる。

 橋の終わりが近づいてきて、色褪せた青銅鳥居が見えてきた。その向こうに参道が続いていて、人の流れが島の中へ吸い込まれていく。

 汐織が少し歩調を速めた。鳥居のほうに顔を向けて、楽しそうに目を細めている。


「行こっ?」


 彼女は楽しそうにそう言って、くるりとこちらを振り返った。

 潮風にワンピースの裾が揺れて、黒髪がさらりと肩の上で流れている。耳のアクセサリーが、太陽の光を受けて小さく煌めいた。

 色んな観光地も、まだ見ぬ綺麗な景色も、全部あの鳥居の向こう側にある。

 でも、そんなどの景色よりも、今綺麗なものを見ている気がして。

 彼女の笑顔から、目を逸らせなかった。

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