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第42話 デートの約束では?

 料理が揃い、ローテーブルに皿が並んだ。

 揚げたての唐揚げがこんもりと盛られた大皿。きつね色の衣が蛍光灯の下でつやつやと光っている。その横に、ポテトサラダが小鉢に盛られていた。きゅうりの緑とゆで卵の黄色が、マヨネーズの白に映えている。あとは味噌汁と白いご飯。

 確かに、いつもの食卓よりほんの少しだけ豪華だった。いつもはもう少し健康的な料理が並んでいるのだが、今日はその限りではない。唐揚げの存在感が、食卓に「ハレ」の空気をもたらしていた。

 ソファに横並びで座って、手を合わせた。


「「いただきます」」


 何度交わしても、この瞬間だけはほんの少し特別に感じる。もう慣れたはずなのに、ずっと慣れない。

 まず唐揚げをひとつ、箸で持ち上げた。熱い。齧りつくと、衣がかりっと弾けて、中から鶏肉の旨味が溢れ出す。生姜とにんにくの下味がしっかり効いていて、片栗粉の衣がさくさくと軽い。白いご飯が嘘みたいに進んだ。


「……うっま。何でこんな美味く作れるんだよ」


 素直に声が出た。コンビニの唐揚げとは次元が違っていた。何が違うのかと訊かれても答えられないが、温度も衣も肉汁も、全部がちょうどいい。

 ポテトサラダも素朴でうまかった。じゃがいもがほくほくで、きゅうりのしゃきしゃき感がいいアクセントになっている。マヨネーズの酸味が唐揚げの油っこさを中和してくれて、また唐揚げに手が伸びた。無限のループだ。


「よかった。揚げ物はちょっと自信なかったんだけど……この台所、換気扇弱いから匂い残っちゃうかなって」

「全然気になんねーよ。てか、このまま毎日唐揚げでもいいくらいだ」

「さすがにそれは身体に悪いってば」


 汐織がくすくすと笑った。テスト明けの開放感もあるのか、表情がいつにも増して柔らかい。

 二個目の唐揚げを口に放り込んで、しっかり咀嚼してから飲み込む。それから、少し間を置いた。


「あのさ……御礼がしたいんだけど」


 自分から切り出すのは、少しだけ勇気が要った。

 汐織が箸を止めて、きょとんとこちらを見る。


「御礼? 何の?」


 本気でわかっていない顔だった。自分がどれだけ麻貴の助けになっているのか、どうやら本当に自覚がないらしい。


「勉強。今回成績良かったの、完全に汐織のお陰だからさ。さっき個人成績票の写真を母さんに送ったら、生成AIを疑われたくらい」

「お母様、ひどい」


 汐織がぷっと吹き出した。口元を手で押さえて上品に笑うその仕草に、こちらも胸があたたまる。

 実際、母親からの返信は『これ本当にあんたの? AIで作ったんじゃないの?』だった。どれだけ息子を信用していないのだろうか。まあ、信用されるような成績を取ってこなかった自覚はあるが。

 汐織は少しだけ表情を改めて言った。


「私は別に、何も特別なことなんてしてないんだけどな。わからないところを教え合って、問題出し合って。それだけじゃない? それに、私だって一緒に勉強してたわけだし。成績が上がったのは、麻貴くんが頑張ったからだよ」


 汐織らしい物言いだった。

 自分の貢献を限りなく小さくして、相手の努力に帰結させようとする。きっと、ずっと前から彼女はこうだったのだろう。自分の存在を軽くすることに、慣れすぎている。

 麻貴は箸を置いて、少しだけ真剣な声で言った。


「いや、もう家庭教師同然でやってもらってたからさ。さすがに、飯以外にもなんでもかんでもやってもらってばかりだと、俺も気持ち悪いっていうか。何かしら、御礼させてほしいんだ」

「……それは、私の台詞なんだけど」


 彼女が物言いたげに上目遣いでこちらを見て、ぽそりと呟いた。


「ん? どういうこと?」

「ううん。なんでもない」


 汐織は破顔して肩を竦め、それ以上は言わなかった。

 私の台詞って、どういうことだろうか。御礼をさせてほしいということ? まあ、なんでもないと言っているし、追求する場面ではないのだろうけど。麻貴は軽く咳払いしてから、言った。


「だからさ、明日って休みだろ? 何か御礼させてくれよ。欲しいものとか、行きたいところとか、なんかないか? ……予算は限られてるけど」


 汐織は唐揚げを箸で器用にふたつに割りながら、悩ましげに首を傾げた。


「うーん……」


 考え込んでいる横顔を見ていると、何だかこちらまでそわそわしてしまった。何を言い出すのか予測がつかない。この子はいつもそうだ。肉じゃがのメモの時も、おにぎりを作ると言い出した時も、浜辺に行こうと提案してきた時も、想像の斜め上から来る。

 それから間もなくして何かを思いついたらしく、「あっ」と小さく声を上げた。ぱっと顔を明るくして、こちらを振り向く。


「それなら私、あそこ行きたい」

「あそこ?」

「榎島!」


 汐織が窓のほうを──榎島があるであろう方角を──指差して言った。


「榎島ぁ?」


 素っ頓狂な声が出た。

 榎島なんて、ほぼ毎日、通学の電車から眺めている。観光地として有名ではあるが、自分たちにとっては日常の風景でしかなかった。景色として見ることはあっても、わざわざ降り立とうと思ったことはない。


「何でまた。俺らにとっては別に特別でもなんでもない場所だろ」

「だからこそ、じゃない?」

「どういうこと?」

「身近すぎるから行く機会がないっていうか。麻貴くんは、いつ行った? 榎島」


 汐織が小首を傾げて、こちらを見た。

 その質問に、言葉に詰まった。


「言われてみれば……」


 思い返しても、全然行っていない。観光地だから人が多いのでなんとなく避けていたし、わざわざ行く理由もなかった。最後に行ったのはいつだろう。遠い記憶を手繰り寄せて、ようやく思い出す。


「小学生の頃、かも。遠足で」

「でしょ?」


 汐織は得意げに微笑んだ。


「私も全然行ってないなーって。友達とかは、冬にイルミネーションとか見に行ってたみたいなんだけど。だから、どうかな? 近いし」


 にこにこと提案する汐織を前にして、断れるわけがなかった。

 内心では、横濱あたりまで足を伸ばす感じを想定していたのだが。まさか二駅先でいいとは。いかにも汐織らしい。


「まあ……あんなとこでいいなら」

「やったっ」


 汐織が小さくガッツポーズをした。あの図書室の時と同じ仕草だ。拳を胸の前でぎゅっと握って、口元を綻ばせている。

 何度見ても、この仕草には参ってしまう。


「じゃあ、明日行くか」

「うん!」


 それからふたりで、待ち合わせの場所と時間を決めていった。

 汐織はスマホを取り出して、榎島の地図を確認しながら「ここ行ってみたい」「ここにこんなお店があるんだって」と、早速情報を集め始めている。さっき思いついたばかりのはずなのに、もうすっかり乗り気だ。画面をスクロールする指が、いつもより早い。

 その横顔を見ていると──


(あれ?)


 不意に、我に返った。


(これって、デートじゃね?)


 今更ながら、とんでもないことに気づいてしまった。

 御礼のつもりで「休日にどこか行こう」と誘って、場所と時間を決めた。相手は汐織で、もちろんふたりきり。

 これは、どう考えてもデートだ。

 一緒にスーパーに行ったことなら何度もある。夜の浜辺に行ったこともある。駅まで送るのはもう日課だ。だが、それらには全部「ついで」や「成り行き」や「仕方なく」という名目がくっついていた。辛うじて、ではあるが。

 でも、今回は違う。麻貴は明確に「誘った」のだ。御礼という体裁はあるものの、休日にふたりで出かける約束をしたという事実は変わらない。

 隼太の言葉が、ふと頭の中に蘇ってきた。


『もう付き合う寸前って感じだよな』


 ちらりと汐織のほうを見ると、彼女はまだスマホの画面に夢中だった。榎島の観光ページを見ているらしい。口元が緩んでいる。

 心臓がうるさかった。

 唐揚げの味が、さっきより美味く感じるのは、気のせいだろうか。

 窓の外では、七月が動き始めていた。六月とは違う、少し夏を帯びた橙色が部屋に差し込んで、汐織の黒髪をほんのり透かしている。

 テストは終わり、成績もクリアした。夏休みも近付いている。

 そしてそんな日に、汐織とふたりで出かけようとしていた。


「麻貴くん。お昼、このお店でしらす丼食べよ? 景色が綺麗なんだって」

「お、おう。いいんじゃね」


 いつもの調子で返したつもりだったが、声がほんの少し裏返ったのは……たぶん、気のせいだ。

 たぶん。

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