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第41話 テストは終わり……

 個人成績票が配られたのは、期末テストの全日程が終了した翌日の金曜日のことだった。

 四日間にわたるテスト期間は、あっという間だった。初日の朝に汐織から教室で声をかけられた衝撃も、隼太の追及も、沙子の圧も、テスト用紙が配られた途端にどこかへ消えていた。問題を解いている間だけは、余計なことを考えなくて済む。それがある種の救いだったのかもしれない。

 そして今、麻貴の手元には一枚の薄い紙がある。

 担任の長田が帰りに素っ気なく配って回った個人成績票。テスト返却と解説は来週からだが、各科目の点数と合計点、順位だけは先にまとめて返されるのがうちの学校のルールだ。

 結果は──主要五教科、軒並み八割超え。

 目を疑った。二度見した後に三度見もしたほどだ。

 前回の中間テストが六割程度だったことを考えると、ちょっとした躍進。いや、ちょっとどころではない。この成績が自分のものだと受け入れるのに、数秒かかった。


(マジかよ)


 副教科は半分程度で、こちらはまあ予想通り。ただ、親との約束では副教科は大目に見るということになっていたし、赤点もない。

 独り暮らしの条件『成績を落とさないこと』は、無事にクリアだ。アパートを引き払えだの転校しろだのと言われる心配はなくなった。夏休みを気兼ねなく迎えられる。もちろん、二学期以降も同じプレッシャーは続くのだけれど。

 ただ、この部屋で向かい合って問題を出し合ってくれる相手がいるなら。汐織がいるなら、何とかなる。そう思えてしまう自分がいた。

 ちなみにその汐織の成績はというと、主要科目は九割超えで、学年トップクラスだ。副教科も高水準。さすが優等生としか言いようがない。教える側がこれだけできるのだから、教わる側の成績が上がるのも当然だろう。

 そして、テスト期間中にもうひとつ、変わったことがあった。汐織が、学校でも普通に麻貴に声をかけてくるようになったのだ。

 テスト初日のあの朝を皮切りに、廊下ですれ違えば「どうだった?」と声をかけてきて、教室で目が合えば小さく目を細めて「なあに?」と首を傾げる。もう隠す気は皆無だ。

 幸い、テスト期間中は午前授業のみで学校にいる時間が短かったこともあり、目立った問題にはなっていない。隼太が上手く立ち回ってくれているのも大きかった。男子連中からの視線は相変わらず鋭かったが、あいつが緩衝材になってくれているおかげで、今のところ大事には至っていない。

 ただ──来週からは通常の午後授業が再開する上に、体育祭もある。夏休みまでまだ数週間、教室でのふたりの距離感が、周囲にどう映るのか。それだけが少し気がかりだった。


       *


 午前授業が終わり、まだお昼過ぎだった。

 七月に入ったばかりの日差しが、アパートの階段を白く照らしている。六月の湿っぽさはまだ残っていたが、空気の温度がひとつ上がった気がした。

 帰りにいつものスーパーに寄って、ふたりで買い物をしてから部屋に上がった。汐織は靴を丁寧に揃え──もうこの動作に迷いはない──鞄を玄関の隅に置いて、まっすぐ台所に向かっていく。

 エプロンを頭からかぶり、背中に手を回して紐を結ぶ。あの日スーパーで買った無地のエプロン。もう何度も洗っているから生地が柔らかくなっていて、最初よりしっくりと彼女の身体に馴染んでいた。

 買い物袋の中身を取り出していく手つきが、いつもより弾んでいる。鶏もも肉、片栗粉、じゃがいも、きゅうり、卵、マヨネーズ。それらを見て、麻貴はおおよそのメニューを察した。


「もしかして、唐揚げ?」

「正解。それと、ポテトサラダも作ろうかなって」


 唐揚げ。この小さなワンルームのキッチンで、まさか揚げ物をする日が来るとは思わなかった。コンロは二口しかないし、換気扇だって大したものではない。だが、汐織がやると言うのなら、きっとやれてしまうのだろう。これまでもそうだった。


「おお、なんかいつもとメニューの雰囲気が違うな。テスト明けのご褒美ってこと?」

「うん。テスト頑張ったんだから、今日は美味しいものたくさん食べないと」


 汐織は冷蔵庫から卵を取り出しながら、得意げに言った。


(いつも美味しいもの作ってもらってるんだけどな)


 そう思ったが、口にはしなかった。言ったところで「今日は特別だから」と返されるのがオチだ。それに、嬉しそうにしている彼女に水を差すのも気が引ける。

 汐織は早速、鶏もも肉をまな板に広げて下処理を始めた。余分な脂を落として、一口大に切り分けていく。ボウルに醤油、おろしにんにく、おろし生姜を合わせて揉み込むところまでが、よどみのない一連の動作だった。

 その間に、もうひとつの鍋で水からじゃがいもを茹で始める。ポテトサラダの仕込みだ。同時進行で、きゅうりに塩を振って板ずりにしている。


「手伝うことある?」

「んー……じゃあ、ゆで卵作ってくれる? お鍋に水入れて、沸騰したら卵入れるだけだから」

「了解」


 指示の通りに小鍋に水を張って火にかけた。これくらいなら麻貴にもできる。もう何度目かわからない分担作業だが、こうして並んで台所に立つことが、いつの間にか日常になっていた。

 下味をつけた鶏肉に片栗粉をまぶしながら、汐織がふと口を開いた。


「麻貴くんの成績票、見ちゃった」

「いつの間に」

「えへへ。テーブルに置いてあったから、つい」


 少しだけ悪戯っぽく笑う。


「凄いね。前回よりだいぶ上がったんじゃない?」

「まあ、優秀な先生がいたもんで」

「生徒が優秀なんじゃないかなー」


 そう言いながらも、彼女の声は弾んでいた。

 まるで、麻貴の成績アップを自分のことのように喜んでくれている。

 無論、それには彼女なりの理由もあるはずだ。麻貴が成績を意地すれば独り暮らしを続けられるし、そうなると、汐織の居場所もなくならない。でも、本当にそれだけだろうか?

 そこまで考えかけて、すぐにやめた。余計なことを考えるのは、もうやめにしよう。

 フライパンに油を注いで、汐織が温度を見始めた。菜箸の先を油に浸し、じゅわっと泡が立つのを確認してから、片栗粉をまぶした鶏肉をそっと滑らせるように入れていく。油の跳ねる音が、台所に響いた。


「──ッ」


 油がほんの少しだけ飛んだらしい。汐織が小さく顔を歪めたが、すぐに菜箸で鶏肉の位置を整えて、落ち着いた手つきに戻る。揚げ物は初めてではないのだろう。動きに余裕があった。


「大丈夫?」

「うん。慣れてるから。エプロンもあるし」


 汐織はエプロンの裾をぴらっとつまんでみせた。あの時買ったエプロンが、こういう場面でちゃんと役に立っているようだ。買っておいてよかった。

 鶏肉がじわじわと色づいていく。きつね色に変わり始めると、台所に香ばしい匂いが広がった。生姜とにんにくの風味が、強烈に食欲を刺激してくる。

 この狭い台所で、この匂いは反則だろう。腹が鳴るのを必死で堪えた。

 一度油から上げて休ませ、もう一度高温の油でさっと二度揚げする。汐織がそれを皿に上げると、キッチンペーパーの上で余分な油が吸い取られていった。揚げ物の工程ひとつとっても無駄がなくて、見ていて飽きない。

  二度揚げの間、やることがなくなって壁に寄りかかった。ふと、カレンダーが目に入る。今日は金曜日なので、明日は土曜で休みだ。

 そこで、先週の大雨が頭を過った。汐織が泊まったあの日から、もう一週間が経っている。


(まあ……思ったほどは、変わらなかったよな)


 あの夜は色々なことがあった。汐織が家庭のことを話してくれて、泣いて、麻貴はそんな彼女を抱きしめた。そしてそのまま一緒のベッドで寝て、朝を迎えたのだ。

 あれだけ大きな出来事だったのに。そのすぐ後にテスト期間に突入してしまったせいで、ふたりの関係が劇的に変わるということはなかった。

 ただ、何となくふたりの間にある空気が、ほんの少し柔らかくなったような。甘い、とまでは言い切れないけれど。そんな感覚は、確かにあった。

 そこで、ふと気づく。


(てか、よくよく考えたら……勉強教えてもらうのって、〝契約〟に入ってないんだよな)


 思い返してみると、当初の契約はこうだった。

 麻貴が食材費を出す。汐織はそれで好きなものを作り、台所を自由に使っていい。詮索はしない──。

 それだけだ。

 勉強を教えてもらうことなど、その枠組みのどこにも含まれていない。弁当を作ってもらうのも、掃除をしてもらうのも、おにぎりを持ってきてもらうのも、全部「契約」の外側だ。

 未だにこの関係を「契約」の中に押し込めようとしている自分にも呆れつつ、しかし、それを差し引いてもひとつの事実だけは残った。

 汐織は、契約を超えて──自分のために、たくさんのことをしてくれている。


(御礼は……した方がいいよな)


 楽しそうに揚げ物の仕上がりを確認している汐織を見ながら、そう思った。

 断られそうだとは思う。この子は「ついでだから」と言って、自分のしたことをいつも小さくしてしまう。でも、助けてもらった側としては、やっぱり何かしたかった。


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