第39話 汐織の変化
沙子とは、少し間を空けて教室に入った。
一緒に入ったところを見られれば、また余計な誤解を生みかねない。沙子も同じことを考えていたのか、先にさっさと教室に入っていった。
二年F組の教室は、テスト初日の朝の空気に満ちていた。
教科書を机の上に広げて最後の詰め込みに必死な者。ノートの端に赤ペンで書き殴った暗記項目を、呪文のようにぶつぶつ唱えている者。かと思えば、すでに諦めの境地に達したのか、友人同士で雑談に興じている者もいる。ちなみに、隼太はそっち側だ。
麻貴は鞄を肩から降ろして、自分の席に向かった。
さっきの沙子とのやり取りで消耗した精神を少しでも回復させたい。席に着いて、深呼吸でもして、テストに集中する態勢を整えよう。そう思いながら、教室の後ろ側を歩いていく。
その時だった。
「あっ。おはよう、麻貴くん」
聞き慣れた声が、ふと近くから降りかかった。毎日聞いている声。だけど、この場所で、この距離で聞くのは──初めてだった。
顔を上げると、こちらに歩み寄ってきていたらしい汐織が、にこりと微笑んでいた。
声のトーンも、表情も、何もかもがいつも通りだ。放課後のあの六畳一間で交わすのと、何ひとつ変わらない温度の挨拶。
ただし……場所が違う。ここは、教室だ。クラスメイトが三十人以上いる、二年F組の教室。
これまで、教室の中での汐織との接点は限りなく薄かった。廊下や教室ですれ違った時に目だけで小さく合図したり、朝に目が合うとほんの軽く頭を下げたりする程度。それが暗黙のルールだった。少なくとも、麻貴はそう認識していた。
ふたりの関係は、放課後の台所だけのもの。学校では、赤の他人とまでは言わないが、せいぜい顔見知り程度の距離を保つ。それが、お互いのためだと思っていた。
なのに。
汐織は、教室のど真ん中で──しかも名前を呼んで──声をかけてきた。
当然、周囲の空気は一瞬で変わった。
教科書に目を落としていた女子が顔を上げ、雑談していた男子が口を閉じる。教室中から、じわりと視線が集まってくるのがわかった。
あの篠宮汐織が、自分から男子に声をかけている。しかも名前呼びで。これは、過去にないことだった。
「……お、おはよう」
声が少し上ずった。周囲の視線が肌に刺さる。気まずい。気まずいが、ここで挨拶を返さないほうがもっとおかしかった。
しかし、汐織は周囲の空気など気にした様子もなく、当たり前のように会話を続けてきた。
「昨日はちゃんと寝た?」
「あ、ああ。まあ、早めに寝たよ。睡眠不足でミスったら嫌だし」
「お、偉いね。前までだったら絶対徹夜してたでしょ?」
「そのとーり……」
ぐうの音も出なかった。
以前の麻貴なら、テスト前日に焦って徹夜して、睡眠時間三時間くらいでエナジードリンク頼りに乗り切ろうとしていたに違いない。それで本番は頭が回らず、ケアレスミスを連発する──という負のループを毎回繰り返していた。
今回それをしなかったのは、汐織のおかげだ。計画的に勉強を進めてくれたおかげで、前日に慌てる必要がなかった。
汐織はくすっと小さく笑った。
「じゃあ、今日は万全なんだ?」
「まあ、普段よりは」
「よかった。テスト、お互い頑張ろうね」
彼女はそう言って、ふわりと自分の席に戻っていった。長い黒髪が、窓からの光を受けて揺れる。
何事もなかったかのように。まるで、そうするのが当たり前だったみたいに、彼女は麻貴に挨拶をした。
いや、彼女にとっては本当に何事でもなかったのかもしれない。ただ、友人におはようと声をかけただけ。テスト前に頑張ろうねと言い合っただけ。それだけのこと。きっと、それだけだ。
だが、周囲にとってはそうではなかった。
席に戻った汐織のもとには、すぐさま近くの女子たちが集まっていった。何やらひそひそと問い詰めている様子が、ここからでも見える。汐織は少し困ったように笑いながら、何かを答えているようだった。
そして、麻貴の方はというと。
「おいこらてめー、どういうことだ?」
背後から、聞き覚えのありすぎる声が響いた。
振り返る間もなく、隼太が顔を突き出してきた。目が完全に据わっている。
こいつだけならよかった。だが、目撃者は他にもいるわけで……さらに、隼太の後ろから男子が数人、ぞろぞろと寄ってきた。
畳みかけるように質問が飛んでくる。
「何で。お前が。篠宮さんと。話してんだ?」
「しかも名前呼び? 下の名前? いつから? は?」
「なあ箕島、ちょっと説明してくんない?」
「え、篠宮さんとお前って、もしかして……」
「お前が篠宮さんと話してるの初めて見たんだけど?」
全員、目が笑っていない。やばすぎる。
「な、何もない! 気まぐれなんじゃねーの!?」
咄嗟に言い訳をした。嘘ではない。嘘ではないが、事実でもなかった。正確には、何もないとは到底言えない関係だが、何があるのかと問われると自分でもよくわからない。契約? 台所の共有? それとも──いや、今はやめておこう。
「気まぐれで篠宮汐織が男子に声かけるわけねーだろ」
「いつから仲良いの? え、マジで何?」
「てか『麻貴くん』って呼ばれてたよな? な? 聞いたよな?」
集中砲火が止まらない。
助けを求めるように教室を見回すと、窓際の席で沙子と目が合った。
沙子は、こちらをじっと見ていた。助けを求めようと思ったが──。
『あんた、嘘言ってないよね?』
すぐさま、彼女の目線ならはそんな圧が掛かった。さっき廊下で見たあの据わった目と、まったく同じだ。
さっき「いいと思うよ」と言ってくれたばかりなのに、この目はなんだよ。そう思うが、よく考えれば沙子が認めてくれたのは『汐織が嫌がっていないなら』という条件付きだ。教室で堂々と声をかけるという行為が、沙子の想定を超えていたのかもしれない。
結局、朝のチャイムが鳴るまで、男子たちからの追及は続いた。隼太に至っては「帰りに詳しく聞かせろよ」と不穏な予告まで残していった。
(て、テスト前に心理的なダメージを負わせないでくれぇ……)
麻貴は机に突っ伏して、額を冷たい天板に押し付けた。
嬉しかった。それは間違いない。
汐織が教室で自分に声をかけてくれたこと。ふたりの関係を、もう隠す必要はないと思ってくれたこと。胸の奥がじんわりと温かくて、くすぐったい。
ただ、大事なテスト前にこれだけドキドキさせられるのは、正直勘弁してほしかった。心拍数が全然落ち着かない。
チャイムが鳴り、テスト用紙が配られる。
裏返しのまま置かれたプリントを前に、麻貴は目を閉じて深呼吸した。汐織の笑顔と、隼太の据わった目と、沙子の圧が、頭の中でぐるぐると回っている。
だが、開始のチャイムが鳴ると、それらの雑念はすぐに消えた。
問題用紙をめくると、見覚えのある問題が並んでいる。どれもこれも、汐織と一緒にやった範囲ばかりだ。
ペンが、迷いなく動いた。
あのローテーブルの上で、向かい合って問題を出し合った夜。丁寧に教えてくれた声とその解法のパターンが、するすると頭から引き出されていく。
一限目の数学。二限目の化学基礎。三限目の英語。
どの科目も、手応えがあった。わからない問題がほとんどない。あったとしても、汐織に教わった考え方を応用すれば、解き筋が見えた。こんな経験は、高校に入ってから初めてだ。
(神様仏様汐織様、ありがとうございます……!)
麻貴は心の中でそう唱えながら、解答欄を埋めていった。
午前中のテストが終わる頃には、朝の動揺はどこかに消えていた。代わりに胸の中に残っていたのは、確かな手応えだった。




