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第38話 週明け、〝王子〟から

 月曜日の朝。榎ノ電の車窓から、海が見えた。

 梅雨の合間の晴れだった。金曜の嵐が嘘みたいに空は高く澄んでいて、朝の光を受けた水面が一面に白く輝いている。窓の隙間から入ってくる風には、潮の匂いと少しだけ夏の気配が混じっていた。

 麻貴は手すりにもたれかかって、その景色をぼんやりと眺めていた。

 今日から、期末テストが始まる。

 二週間前の自分だったら、この朝をどんな気持ちで迎えていただろう。きっと、絶望に近い憂鬱だったに違いない。数学の二次関数も、化学基礎のmol計算もよくわかっておらず、もっと危機感を覚えていたはずだ。

 だが、今回は違う。過去一の自信があった。

 汐織に教わった数学は、場合分けのパターンが頭に入っている。化学の単位変換も、問題を見れば手が勝手に動くようになった。暗記科目も、出し合いっこのおかげで記憶の定着率が格段に上がっている。

 金曜の夜から土曜の夜にかけて、汐織とはほとんどずっと一緒だった。あの嵐の夜のことも、翌朝のことも、昼下がりにまた来てくれたことも、全部がまだ鮮明に残っている。日曜日はさすがにそれぞれの家で過ごしたが、LIMEで問題を出し合ったり、わからないところを写真で送り合ったりと、結局ずっと繋がっていた。

 電車が八ヶ浜の駅に滑り込む。ホームに降りると、同じ制服を着た生徒たちがぞろぞろと改札に向かっていた。テスト初日の朝特有の、どこか張り詰めた空気が漂っている。

 校門をくぐって、生徒玄関へ。靴箱でローファーから上履きに履き替えて、鞄を肩にかけ直す。教室に向かおうと廊下に足を踏み出した──その瞬間。


「うおッ!?」


 いきなり、首根っこを掴まれた。

 何が起きたのか理解する前に、身体が横に引っ張られる。廊下の隅っこ──階段脇の物陰に、ずるずると引きずり込まれた。

 そのまま振り向かされ、どん、と背中を壁に押し付けられる。

 目の前にいたのは、怖い顔をした〝王子〟こと沙子だった。

 ショートカットの前髪の下から覗く切れ長の目が、こちらを射抜いている。いつもの涼しげな雰囲気はどこにもなく、完全に据わった目をしていた。


「な、なになに!? 何でそんな怖い顔してんの!?」


 朝っぱらから何事だ。心臓が口から飛び出るかと思った。

 ただ、何を言われるのかは何となく察しがついていた。金曜の夜、汐織は沙子に連絡して口裏を合わせてもらっている。当然、彼女は汐織がうちに泊まったことも知っているのだ。

 とはいえ、生徒玄関で首根っこを掴まれるとは思わなかったけれど。


「しらばっくれないで」


 何もしらばっくれてないのに、なんだというのだ。

 沙子が拳をぎゅっと握った。


「あんた、まさか汐織に手を出して──」

「出してない! 断じて出してないから!!」


 食い気味に否定した。これだけは紛れもない事実だ。何を言われようと、手は出していない。出していないのだから、怒られる筋合いもなかった。

 いや、思い返せば、色々と怒られそうなことはあったかもしれないけれど。同じベッドで寝たとか、着替えの音を聞いてしまったとか、風呂上がりの姿を至近距離で見てしまったとか。だが、あれは全部不可抗力だ。自分から望んでそうなったわけではない。結果的にそうなっただけで、断じて故意ではなかった。

 沙子が目を細めた。


「ほんとに?」

「ほんとに! 疑うなら汐織に訊いてくれよ」

「……訊いたよ」


 沙子の声が、少しだけ落ち着いたトーンになった。


「そしたら、『麻貴くんはそんな人じゃない』って言ってた」

「じゃあ、問題ないだろ」


 そう返しながらも、内心では微妙な気持ちだった。

『そんな人じゃない』と言い切られるのは、信頼の証ではある。ではあるのだが──裏を返せば、そういう対象として見られていないということでもないだろうか。いや、今はそんなことを気にしている場合ではない。

 ともかく、汐織自身が麻貴の無実を証明してくれたのだ。これ以上の弁護人はいない。

 しかし、沙子の目はまだ緩んでいなかった。


「でも、『スッキリした』とも言ってたんだけど?」

「ブッ──」


 思わず噴き出しそうになった。

 それは、汐織の言い方にだいぶ語弊がある。


「い、いや。汐織のスッキリはそういうンじゃなくて……その、気持ち的な」

「気持ち的な?」

「色々溜まってたものを吐き出して、気持ちがスッキリしたってこと! 物理的なスッキリじゃないから!」


 必死に弁明する。何でテスト初日の朝にこんな弁護をしなければならないのか。

 沙子はしばらく疑いの目でこちらを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……そうだとは思ってたけどね。あたしとしては心配なわけ。お泊りの嘘の口裏合わせてるんだからさ。あんたが獣みたいになって襲いかかったらどうしようかと──」

「言い方」


 酷い言い草だ。

 しかし、完全には否定できない部分もあった。獣にならなかったとは言い切れるが、獣を抑え込むのに必死だったのも事実だ。理性と本能の攻防戦が一晩中続いていたことは、墓場まで持っていく。もちろん、そんなことを口にしたら、テスト前に腕の一本くらい折られるだろうけど。

 麻貴は少し間を置いてから、声のトーンを落とした。


「まあ、その……色々、話は聞いたよ。家のこととか」


 沙子の表情が、わずかに変わった。


「汐織のほうから、そういうことを吐き出してくれて……だから、その。家が嫌なら、いつでも来ていいって言っただけだよ」


 それ以上のことは言わなかった。汐織が何を話してくれたのか、その中身を沙子に伝えるつもりはない。あの話は、汐織が麻貴に預けてくれたものだ。麻貴が勝手に開示していいものではない。

 沙子はしばらく黙っていた。それから──どこか寂しそうな、けれど安堵したような、複雑な顔で微笑んだ。


「……そっか」


 声が、さっきまでとは違っていた。怒気が抜けて、ただ柔らかい。


「まあ、あんたが今さら手を出すとも思ってなかったけどね。ほぼ毎日家に来てるなら、いつでもチャンスなんてあっただろうし」

「だったら、朝っぱらからこんな暴力的なことしなくてもよくない?」


 麻貴は首元のシャツを少し緩めて、溜め息をついた。

 脳裏にコンビニの棚で見0.03ミリの箱が一瞬よぎったが、それを口に出した日には足も折られるだろう。

 それにしてもこの〝王子〟、ちょっとキャラ崩壊してきていないか。クールで涼しげな立ち姿が売りだったはずなのに、いつの間にか暴力キャラが板についてきている。まあ、それだけ汐織のことが大切なのだろうけれど。

 すると、沙子は少し言いにくそうに、目を逸らした。前髪をかき上げる仕草に、ほんの僅かだが照れが混じっている。


「まあ……あたしはLIMEで送った通りさ」

「ん?」


 金曜の夜、沙子から届いたメッセージのことだ。あの時は短い一文が添えられていた。


「汐織が嫌がってないなら、いいと思うよ」


 沙子はそうとだけ言って、ポケットに手を突っ込んだ。

 それから、何事もなかったかのように踵を返し、教室のほうへ歩いていく。ショートカットが廊下の蛍光灯に照らされて、すぐに生徒の流れに紛れていった。

 麻貴はしばらくその場で、去っていく背中を見送っていた。

 朝の廊下には、テスト前の慌ただしさが溢れている。誰かがノートを広げて最後の確認をしていて、誰かが「やばいやばい」と友達と騒いでいる。その喧騒の中で、麻貴はぽつりと呟いた。


「……いや。だからお前、どっちだよ」


 怒りに来たのか、認めに来たのか。脅しに来たのか、背中を押しに来たのか。

 結局、最後まで読めなかった。

 ただ──沙子が最後に見せた表情は、少なくとも怒ってはいなかった。

 一限目のチャイムまで、あと十分。溜め息を吐いてから、教室へと歩き出した。

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