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第37話 無理がある理屈

 結局、眠れたのか眠れなかったのか、自分でもよくわからなかった。

 意識が曖昧なまま、うとうとと浅い眠りを繰り返して──気付けば、スマホの通知音で目が覚めた。

 画面を確認すると、LIMEの通知がひとつ。


【今榎ノ電乗ったよ】


 汐織からだった。送信時刻は二時十分。現在時刻は、二時二十分。

 麻貴はベッドから跳ね起きた。

 寝癖を直して、顔を洗って、歯を磨いて。散らかっているわけではないが、何となくテーブルの上を整えた。ソファの上に転がっていたクッションの位置も直す。

 何をそわそわしているんだ、と自分でも思う。昨日まで毎日のように顔を合わせていた相手だ。今さら身だしなみを気にしたところで、しょうがないだろうに。

 でも、今日は何だか違う気がした。

 何が違うのかと訊かれたら、上手く答えられない。ただ、泊まって朝にこの部屋を出て行った彼女が、昼下がりにまた戻ってくる──それは、これまで放課後に来ていたこととも、以前掃除のために来てくれたこととも違うと思うのだ。それを考えると、妙に落ち着かなかった。

 二時半ちょうど。インターフォンが鳴った。

 ドアを開けると、そこには少し恥ずかしそうな汐織が立っていた。


「えへへ。また来ちゃった」


 肩にトートバッグを提げて、もう片方の手には大きめの紙袋。そして──そこに立っていたのは、朝とは別人の彼女だった。

 白を基調にした、膝下まである長めのワンピース。袖にゆるやかなギャザーが寄っていて、薄手の生地が六月の風にわずかに揺れている。髪は下ろしたままで、いつもの黒髪が肩の上でさらりと流れていた。

 いかにも汐織らしい装いだと思いつつも──不意打ちだった。学校で見る制服姿とも、この部屋で見るエプロン姿とも違う。私服の汐織を見るのは、よく考えたらこれが初めてだ。


「……朝ぶり、だな」


 何とか声を絞り出した。平静を装っているつもりだが、心臓のほうはとっくに平静ではなかった。


「うん。お邪魔します」

「どうぞ」


 汐織を中に迎え入れながら、ドアを閉じる。

 朝は制服姿の汐織がここから出て行って、昼下がりに私服姿の汐織がやってくる。フィクションなら「はいはい」で流せる展開だが、これは紛れもない現実だ。

 汐織はローテーブルにトートバッグを下ろしながら、こちらを見て言った。


「お昼寝した?」

「まあ、ちょっとだけ」

「やっぱり」


 呆れたように、汐織がくすくすと笑う。二度寝禁止を釘を刺されたばかりなのに寝ていたことに呆れているのだろう。

 実際のところ、あの後しばらくは枕の匂いのせいで悶々としていたのだが、昨夜の睡眠不足が祟って、いつの間にかうとうとしてしまっていた。起きたのは、汐織からのLIMEだ。あのメッセージがなかったら、多分まだ寝ていただろう。


「お昼、食べてないでしょ? お腹空いてるなら何か作ろっか?」


 汐織がエプロンに手を伸ばしかけながら訊いてくる。


「いや、朝しっかり食べさせてもらったから、お腹空いてないよ。昼夜兼用でいいかなって思ってた」

「そっか」


 汐織は納得したように頷いてから、冷蔵庫を開けた。中を覗き込んで、少し考える仕草をする。


「あ、じゃあ夜一緒にスーパー行こ? あんまり食材残ってないし」

「……おう。だな」


 何ともないように返事をした。

 したのだが──今の会話を客観的に振り返ると、完全にカップルのそれではないだろうか。


『お昼食べた?』

『夜は一緒に買い物行こう』


 これを第三者が聞いたら、百人中百人が交際中だと思うだろう。隼太あたりが聞いていたら、にやにやしながら「で、いつから付き合ってんの?」と言ってくるに違いない。


(い、いやいや。契約。契約だから)


 そう自分に言い聞かせる。

 台所を自由に使う代わりに詮索はしない。それが、ふたりの間の取り決めだった。

 ただ──もはやどこまでが契約の範囲内なのか、麻貴自身よくわかっていない。少なくとも、『詮索しない』というルールは、汐織のほうからとっくに外していると思うのだ。

 昨夜、彼女は自分から泣いて、自分から話してくれた。麻貴もまた、踏み込まないと決めていたはずの領域に、もう両足を突っ込んでいる。

 契約という名の境界線は、とっくに曖昧になっていた。

 汐織がソファに腰掛けて、トートバッグから教科書やノートをローテーブルの上に並べ始めた。

 そこで、はっと思い出す。

 そうだった。別に彼女はただ遊びにきたわけではない。一緒に勉強するためだ。そこで、ふと彼女の手が止まった。


「あ、えっと……着替えなんだけど、あそこに入れさせてもらっていい?」


 汐織がクローゼットの方をちらりと見て訊いてくる。手には紙袋。その中に着替えが入っているのだろう。


「どうぞ。右の方、空いてるから」

「ありがとう」


 汐織は紙袋を持ってクローゼットの前まで行き、引き戸を開けた。

 そこで──おずおずといった様子で、こちらを振り返る。


「……中、見ちゃやだよ?」

「え!?」

「だって……色々、入ってるから」


 そう言って、汐織の耳まで赤くなった。


「み、見ないって! 見ないから」


 麻貴は慌てて首をぶんぶん振った。

 しかし──そういうことを言われると、余計に気になってしまうのが男というものだった。色々ってなんだ。部屋着以外に何を持ってきたんだ。下着とか、そういう──。

 いや、考えるな。考えたら負けだ。

 訝しむ目で、汐織がこちらを見ていた。


「畳み方とかで、わかるからね?」

「……俺、そんなに信用ない?」

「どうだろう?」


 汐織がくすっと笑った。どうやら、半分は冗談らしい。

 ただ、こういうことを言う汐織は、教室で見せる大人しい彼女とは随分と違っていた。ツボを押さえた切り返しで、こちらの動揺をわかった上でいじってくる。沙子の『汐織は箕島くんには心を開いている』という言葉が、ふと脳裏を掠めた。

 ただ、からかわれっぱなしも少し癪だ。ここは反撃に出るべきだろう。


「そんなこと言うなら、もうじっくり見てるからな」

「な、何を!?」


 汐織がぎょっとした顔でこちらを向いた。


「泣き顔と寝顔。昨日の夜、めっちゃ見た」

「──ッ!?」


 汐織の動きが止まった。一拍遅れて、顔が耳まで真っ赤に染まっていく。


「……それは、できれば忘れてほしいんだけど」


 恥ずかしそうに、もじもじと言う。紙袋を胸の前に抱えて、視線を泳がせていた。

 残念ながら、一生忘れないと思う。暗闇の中で涙を流していた横顔も、泣き疲れて眠った寝顔も、全部ちゃんと覚えていた。覚えていたい、とも思っている。

 汐織はまだ頬を赤くしたまま、クローゼットに着替えをしまい終えると、何事もなかったようにソファに戻ってきた。引き戸をきっちり閉めてから、明るく言う。


「……べ、勉強! 勉強、しよっか!」


 切り替えが早い。というより、赤い顔を誤魔化すために無理やり切り替えたのだろう。

 そこから、三時間ほどみっちりと勉強に励んだ。

 汐織の教え方は相変わらず丁寧で、昨夜までに大体の範囲は網羅していたこともあり、今日は復習が中心だ。問題を出し合って、間違えたところを確認して、もう一度解き直す。地味だが、確実に力がついている実感があった。

 途中、汐織がお茶を入れてくれて、少し休憩を挟んだりもした。勉強の合間の何気ない雑談──好きな科目のこと、苦手な単元のこと、来週のテストの時間割のこと。どれも取り立てて特別な話題ではない。でも、そういう何でもないやり取りが、やけに心地よかった。

 窓の外では、いつの間にか日が傾き始めていた。カーテン越しの光が橙色を帯びて、フローリングに長い影を落としている。

 汐織がぐっと背筋を伸ばして、小さく息をついた。


「そろそろ夕飯買いに行こっか」

「おー、もうこんな時間か。だな」


 壁の時計を見ると、五時半を回っていた。集中している時の時間は、やっぱり早い。

 ふたりで勉強道具を片付けて、玄関へ向かう。靴を履いて外に出ると、六月の夕方の空気が肌に触れた。嵐が空気を洗ったのか、風が澄んでいて、海の匂いがいつもよりはっきり届いてくる。

 坂道を並んで下りながら、汐織が隣で訊いてきた。


「何か食べたいものとかある?」

「汐織が作るものなら、なんでも」

「えー? そういうのが一番困るんだけどなぁ」


 汐織は困ったように眉を下げたが、その口元は笑っていた。食材を選ぶ時の彼女は、いつもこうだ。何を作ろうかと考えている時間そのものが、好きなのだろう。

 坂の途中で、遠くの海が見えた。夕日を映した水面がきらきらと光っている。榎ノ電の踏切が鳴って、二両編成の電車が坂の下をゆっくりと通り過ぎていった。

 隣を歩く汐織の横顔を、こっそり盗み見る。夕日に照らされたワンピース姿、風になびく黒髪、指先が買い物鞄の持ち手をきゅっと握っていて、歩幅がいつもより少しだけ小さい。

 そういうのを見ていると、やっぱり思ってしまうのだ。


(いや……これ、カップルじゃね?)


 一緒に買い物に行って、夕飯のメニューを相談して、帰ってきたら隣で勉強して。着替えがクローゼットに入っていて。

 どこからどう見ても、半同棲のカップルだった。

 いや、カップルではない。断じて。これは契約であり、台所の共有であり──。


(……もう、無理があるような気がするんだけどな。その理屈)


 自分で自分にツッコミを入れてしまう。否定しようにも、否定する材料がどこを探しても見つからない。

 汐織が「あっじゃあ今日はハンバーグにしようかな?」と楽しそうに提案してくる。それに「お、マジ? やったぜ!」と返している自分がいた。

 何でもない土曜日だ。テスト前の、ただの土曜日。

 なのに──麻貴の心臓は、さっきからずっとうるさかった。

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