第36話 もはや通い妻では?
朝食は、鮭の塩焼きと味噌汁と白いご飯だった。
品数こそ普段より少ないが、ありあわせで仕上げたにしては味は申し分ない。というか、もはやこの台所から出てくるものに外れがあった試しがなかった。
ふたりで並んで食べる朝食は、昨夜あれだけのことがあったとは思えないくらい穏やかだった。会話は少ない。でも、それが気まずいわけではなく、言葉がなくても成立してしまう空気に、麻貴は安心すら覚えていた。
食べ終えると、汐織はすぐに立ち上がった。
「ごちそうさま。……片付けちゃうね」
彼女は食器をシンクに持っていき、手早く洗い始める。もはや見慣れた光景のはずなのに、今朝はその後ろ姿をいつもより長く目で追ってしまっていた。
原因はわかっている。昨夜のことが、まだ頭の中にべったりと残っているからだ。
抱きしめた時の体温と、震える肩。泣き止んだあとの、ちょっとだけ照れたような寝顔。それら全部が鮮明に残っていて、普段通りを装うのに精一杯だ。
何となくそれを誤魔化すように、彼女が着ているものを見て訊いた。
「そういや、制服もう乾いてる?」
「うん。少し湿ってるけど、平気」
「そ、そっか」
短い会話。それだけなのに、照れくさいような空気がふたりの間に漂う。昨夜は同じベッドで寝ていたのだ。今さら制服がどうのなど、なんてことのない会話のはずなのに、それでも意識してしまう。
ふと、ソファの隅っこに目がいった。
昨夜、汐織に貸していた自分のTシャツとスウェットが、綺麗に畳んで置かれていた。端と端がぴったり揃えられた丁寧な畳み方は、いかにも彼女らしい。ここに来た初日に、脱ぎっぱなしの靴の横にきっちりローファーを揃えていた光景が、頭の片隅をよぎった。
畳まれた服を見て、ぼんやり思う。
汐織はいつもここに制服のまま来て、制服のまま帰っている。エプロンは買ったが、中に着ているのは学校と同じセーラー服だ。ここで過ごす時間が長くなっているのに、リラックスできる格好ではないだろう。
麻貴は言った。
「着替え、持ってきて置いとけば?」
「え?」
汐織の声に、少し驚きが混じった。
「ほら。いつも制服だからさ。部屋着とかあった方が楽だろ」
別に深い意味はなかった。汐織がここで過ごす時間をもう少し快適にしてやりたい。ただそれだけの、何となくの思いつきだった。
「いいの……?」
おずおずといった様子で、彼女が尋ねてきた。何故そんなことを遠慮なくするのだろう?
「別に、ちょっと服が増えたくらい何でもないって。クローゼットの隅っこの方、空いてるし」
麻貴は後ろのクローゼットを親指で指差した。普段から大して服を持っていないので、スペースだけは無駄にある。
汐織はしばらく口元を引き結んで──それから、こくりと小さく頷いた。
「……うん。じゃあ、着替えも持ってくるね」
どこか嬉しそうな声だった。
そして、彼女は小さく独り言のように呟いた。そして──。
「えへへ。やった」
その声と、にやけた横顔が、視界に飛び込んできて。心臓が、ひとつ大きく跳ねた。
駄目だ。こういう無防備な汐織に、麻貴はとことん弱い。自覚しているのに、耐性がまるでつかなかった。
というか──何となくの思いつきで口にしたけれど。
冷静に考えると、汐織の私服がこの部屋に常備されるということは、つまり。
(もうそれって、通い妻じゃ──)
一瞬、そんな単語が脳裏を過ぎった。
通い妻。つま。嫁。配偶者。何だそれは。いや待て、飛躍しすぎだ。落ち着け。着替えを置いておくだけだろうが。それ以上でもそれ以下でもない。
「……? どうしたの?」
汐織がきょとんと小首を傾げて、こちらを覗き込んできた。
「な、なんでもない! なんでも!」
考えていたことを見透かされてたまるかと、麻貴は首をぶんぶんと横に振った。振りすぎて首が痛い。
汐織は怪訝そうに眉を寄せていたが、それ以上は追及してこなかった。深追いしないのも彼女の優しさだ。今はそれに全力で甘えさせてもらう。
準備を整えた汐織が、鞄を持って玄関へ向かった。
「じゃあ、またお昼過ぎくらいにくるね」
「おう」
ローファーを履いたところで、汐織の顔がふっと歪んだ。
「どうした?」
「靴の中、気持ち悪くて」
「ああ……なるほど」
制服は室内で干していたので何とか乾いたようだが、靴の中までは手が回っていなかったらしい。玄関に置きっぱなしだったのだから、当然と言えば当然だ。
麻貴は自然と靴箱に手を伸ばした。駅までは送っていこうと、自分のスニーカーを引っ張り出す。
すると、汐織がそっと手を上げた。
「あ、今日はいいよ。朝だし……それに」
「それに?」
「誰かに見られたら、大変なことになりそうだし」
恥ずかしそうに、汐織は言った。頬がほんのりと赤い。
そうだった。今日は土曜日。しかも朝だ。
万が一、駅まで送っていって構内で誰かに見られでもしたら、一大事だ。すぐさま『篠宮汐織が男子の部屋に泊まった』と、来週には学校中に広まっているだろう。そうなれば、この穏やかな日常もすべて壊れかねない。
「そ、そっか。迷惑だよな。悪い。気が利かなかった」
「う、ううん! 全然、そんなことないよ。そう思われることは、別に嫌じゃないし……」
「へ?」
「な、なんでもないよ! なんでも!」
なんだか、さっきの自分とまったく同じ反応をしている。
あまりの既視感に、思わず口元が緩みそうになった。慌てて引き締める。
汐織は顔を赤くしたまま、玄関のドアに手をかけた。
「じゃ、じゃあまた後で! 二度寝、しちゃダメだよ?」
そう早口で言い残すと、そそくさと部屋から出て行ってしまった。
「あっ──」
何か言おうと思ったのに、タイミングを完全に見失った。
ドアが閉まって、彼女の足音が階段を降りていく。それもすぐに聞こえなくなった。
ふと振り返って、部屋を見回す。
六畳一間のワンルームが、やけに広く感じた。
ついさっきまで汐織がいた台所。綺麗に畳まれた服が置いてあるソファ。冷蔵庫には丸い字のメモ。どこもかしこに彼女の気配が残っているのに、本人はもういない。
それが──少しだけ、寂しかった。
(……二度寝でもするか)
二度寝禁止を言い渡されたばかりだが、テスト勉強は午後からでいいだろう。寝不足であることには変わりないし、午後になれば汐織が来てくれる。それだけで、胸のあたりがぽかぽかしていた。
寂しさと、午後への小さな期待。その両方を抱えたまま、ベッドに仰向けで倒れ込む。すると──。
ふわり、と汐織の匂いが、枕から立ち上ってきた。
甘くて、柔らかい。トリートメントの匂いに混じって、彼女の体温の名残みたいなものが、まだ微かに残っていた。
いや、枕だけではない。シーツからも、掛け布団からも。ベッド全体が、汐織の匂いに染まっていた。
そこで、昨夜のことが一気にフラッシュバックする。
隣で眠る彼女の寝息。抱きしめた時の、あの柔らかさと体温。一気に、脳が沸騰した。
(ね、寝れるわけがねー!)
麻貴は枕に顔を埋めてから、勢いよく跳ね起きた。
顔が熱いし、心臓がうるさい。二度寝どころか、この匂いの中にいたらまともな精神を保てる自信がなかった。
枕を裏返す。でも、布団やシーツから同じ匂いがするので、意味はなかった。
それに──替える気にも、なれなかった。
(はぁ……何やってんだろ)
枕を抱えたまま天井を仰いで、深く、長い溜め息をひとつ。
窓の外からは、嵐の去った朝の光が、カーテン越しにやわらかく差し込んでいる。遠くで榎ノ電の踏切が、のんびりとした音で鳴っていた。
午後まであと数時間。この匂いの中で、どうやって正気を保てばいいのか。
麻貴には見当もつかなかった。




