第35話 ふたりだけの朝
ゆっくりと、意識が戻ってくる。
瞼の裏に届く、淡い明るさ。雨音はもうしない。代わりに、どこか遠くで雀が鳴いている声が、薄く聞こえてきた。
思ったよりもよく眠れたらしい。明け方近くまで悶々としていたはずなのに、身体の重みが妙に取れていた。あれだけ理性をすり減らしながらも、結局は寝落ちしてしまったようだ。
薄目を開けると、見慣れた天井があった。
ぼんやりと、昨夜のことを思い出す。雷、相合傘、運行中止、お風呂、ベッド、それから──彼女の慟哭。
全部、夢のような気がする。あんまりにも色んなことが起こりすぎた。一日でこれだけのイベントが詰め込まれたのは、人生で初めてだったかもしれない。
ふと、隣へ顔を向けた。
ベッドの上には、自分ひとりだった。腕の中も、空っぽ。汐織の体温が残っていたはずの場所が、もうすっかり冷えている。シーツに残った僅かな窪みだけが、昨夜そこに誰かがいたことの名残だった。
(やっぱ……夢だったか?)
そう思いかけた、その時。
味噌汁の優しい匂いが、鼻先を擽った。
出汁の香りが部屋の中にゆるやかに広がっている。続いて、まな板を叩く包丁の小気味よい音。それから、コトコトと小鍋が小さく揺れる音も聞こえてくる。
寝転がったまま、台所のほうへ顔を向けた。
(あっ……)
そこには──制服姿でエプロンを纏い、料理をしている汐織の後ろ姿があった。
長い黒髪を片手で軽く押さえながら、菜箸でフライパンの中身を返している。窓から差し込む朝の光が、その横顔をやわらかく照らしていた。
泊まっていたとは思えないくらい、いつもの汐織だ。
(ああ、なんだ。まだ夢の途中か)
そんなことを思っていると、汐織がこちらに気付いたのか、振り向いた。
「あっ。起きた? おはよう、麻貴くん」
にっこりと微笑んで、彼女が言う。
その笑顔があんまりにも自然で、あんまりにも穏やかで。麻貴はしばらく言葉が出てこなかった。
どうやら、夢ではなかったらしい。
「……おはよう」
ようやく声を絞り出して、むくりと起き上がる。寝癖のついた頭を、片手で掻いた。
昨夜のことは、全部覚えている。覚えているからこそ、今、どんな顔をしていいのかがわからなかった。
それは、汐織も同じだったらしい。一度向けてくれた笑顔の後に、ほんの少しだけ顔を逸らして、頬が薄く色づいていた。
汐織はフライパンの火を一旦止めて、エプロンの裾を軽く整えてから、ベッドの近くまでやってくる。
もじもじと、彼女のほうから切り出した。
「あの……昨日はごめんね? 何だか、たくさん恥ずかしいとこ見せちゃって」
「ぜ、全然。俺の方こそ、なんか色々調子乗って言ってた気がする」
「そんなことない!」
そこで自分の声が少し大きく出たことに気付いて、汐織が「あっ」と自分の口を抑えた。
その仕草がいつもの汐織らしくて、何だか少しほっとする。昨夜の慟哭の彼女と、今のはにかむ彼女が、ちゃんと地続きで繋がっている。それが、今はとても大事なことに思えた。
慌てて声のトーンを落として、目線を伏せながら、ぽつりと続ける。
「その……嬉しかったから。麻貴くんの胸、すごく泣きやすかったし」
「そ、そうなのか? それならまあ、よかった。俺の胸ならいつでも貸す、ぜ?」
なんとかこの空気を壊したくて、ちょっとキザっぽいことを冗談半分に言ってみる。けれど、口にしている途中から自分のセリフがあまりに恥ずかしくて、語尾が頼りなく萎んでしまった。
余計に変な空気になってしまったかもしれない。
少しの沈黙。その後──。
「……また泣きたくなったら、お願いするかも」
照れたようにはにかんで、汐織は言った。
その表情があんまりにも可愛くて、麻貴の胸を朝から貫いていく。寝起きの心臓には、これは効きすぎた。
「そ、それでなんだけど」
汐織は話題を変えるように、エプロンの裾を指先で軽く弄りながら切り出した。
「今日、一回家に帰って着替えとかしたら、また来ようと思うんだけど……予定とか、ある?」
「え!? いいけど、何で?」
「お勉強。テスト前だし、一緒にしたいなって。それに……いつでも来ていいって、言ってくれたし」
汐織は恥ずかしそうに、少し遠慮がちに、おずおずと言った。
昨夜の言葉を、ちゃんと覚えていてくれたらしい。そして、それを早速使ってくれている。それだけで、麻貴の胸の中で何かがじんわりと温かくなった。
ただ、その提案はきっと自分のためだけではないのだろう。麻貴の勉強や生活のためでもあるような気がした。
ここで麻貴が成績を落として転校することにでもなれば、汐織はようやく手に入れた安心できる場所を手放すことになってしまう。それをさせないために、麻貴の勉強をよりしっかり見なければと思ってくれたのかもしれない。
まったく、相変わらず、誰かのために動こうとする子だ。
でも──そういう動き方も、もう責めるつもりはなかった。それが汐織なのだから。少しずつ、無理のない範囲で、変わっていけばいい。
「まあ、俺の方はいつでも……暇してるし」
「じゃあ、また来ちゃう」
照れを誤魔化すためか、少しおどけたように言った。
そこで、お互いに恥ずかしくなって、また沈黙が落ちる。でも、嫌な沈黙ではなかった。むしろ、こうして黙っていられることが、今のふたりにはちょうどよかったのかもしれない。
窓の外からは、雀の声が相変わらず届いている。カーテンの隙間から差し込む光が、フローリングに細い筋を作っていた。昨夜の嵐が嘘のように、空はもう晴れているらしい。
その沈黙を切り替えるように、汐織がふと手を打った。
「えっと。朝ごはん、食べちゃおっか」
「お、おう。ちょっと顔洗ってくる」
「うん」
麻貴はベッドから立ち上がり、ユニットバスへ向かった。
すれ違いざま、エプロン姿の汐織が、ふっと柔らかく口元を緩めてくれる。それだけで、寝起きのぼんやりした頭が、すうっとクリアになった気がした。
そんな、ふたりだけの朝。
きっと、この朝のことは今後絶対に忘れないだろう。
何となくだが、そんな気がした。




