第34話 抱擁と本音と、それから新しい居場所
「麻貴、くん……?」
汐織は少し困惑した様子で、声を漏らした。
身体が少し強張っているが、そこに拒絶の色はない。押し返される気配もなければ、引っ叩かれる気配もなかった。ただ、戸惑ったまま、麻貴の腕の中に収まっている。
彼女の身体は、見掛け以上に細くて、そして柔らかくて。どこを触っても壊れてしまいそうで、怖かった。
そんな彼女を壊してしまわないように、優しく、でも、そっと強く抱き締める。触れ合った胸から、彼女の鼓動がほんの少しだけ早くなっているのが伝わってきた。
麻貴は彼女を抱き締めたまま、言った。
「いつでも、来ていいから」
「え?」
「放課後だけじゃなくていいよ。一回家帰ってからでも、夜でも。家が嫌になったら、ここに来いよ」
「でも……」
そこで、彼女の身体から強張りが抜けた。
力が抜けて、抱き止めている重みだけが、麻貴の腕に残る。両手をどうしていいかわからないようで、宙でぎこちなく彷徨わせていた。
「平日だけじゃなくてさ。休日でも、夏休みでも……お前が来たいって思ったら、いつでも来ていいから」
「そ、んなの……迷惑、だよ」
汐織の綺麗な笑顔がくしゃっと歪み、ぐずっと鼻を鳴らしてそのまま俯いてしまった。それから、両手で顔を覆って、嗚咽を堪える。肩が小さく上下しているのが、暗闇の中でもはっきりとわかった。
「迷惑なもんかよ」
麻貴は言い切ると、彼女の頭をそっと抱き寄せて、自分の頭にこつんとくっつけた。
毛先がまだほんのり湿っていて、シャンプーの匂いが鼻先で揺れる。さっきまでならこれだけでドキドキしてしまっていたが、もうそんな下心は吹き飛んでいた。
「考えてみろよ。お前がここに来るまで、ここどんなだった? それがさ、汐織が来てくれたお陰で、こうやって部屋も綺麗に保てて、飯だってちゃんとしたもの食えてさ。もう、俺からすれば、恩人みたいなもんだ」
汐織はイヤイヤするように、首を横に小さく振った。
その反応すら、痛々しい。「恩人」だなんて言葉を、彼女は自分の中で受け取れないのだ。誰かの役に立つことが当たり前で、その上にいる自分を、誰かの恩人だなんて、たぶん想像もしたことがなかったのだろう。
それを否定するように、麻貴は続けた。
「それに……別に、ここに来たからって言って、毎回料理作ったりとかしなくていいから。ただ家にいたくないとか、落ち着きたいとか、ダラダラしたいとか、話相手がほしいとか……そんな、何でもない理由で来て、好きなように過ごしてもらっていいよ」
「そんなの、ダメ、だよッ」
「何で」
「だって、そんなの……私、何の役にも──」
汐織がそう言いかけたところで、麻貴は彼女の頬にそっと手を添えて、こちらを向かせた。
いつもの綺麗な顔が嘘みたいに、涙でぐずぐずになっている。長いまつ毛が涙で重く濡れていて、頬の上にも幾筋かの跡が走っていた。普段教室で『学校一の美少女』なんて呼ばれている彼女からは、想像もつかない顔。
でも──このほうが、ずっと汐織らしいと思えた。
「俺は別に……そんな〝役割〟でなんて、お前を見てないよ。無理して誰かの役に立たなくていい」
そう言ってから、「いや、違うか」とすぐに自分の言葉を否定した。
今のは、ちょっと違う。違うというか、言葉が足りなかった。彼女に届けるべき言葉は、これじゃない。
「俺、お前がここにいてくれると嬉しいんだ」
改めて、ちゃんと自分の本心で言い直す。
胸の中で言葉を組み直して、できるだけ正確に。できるだけ嘘のないように伝えた。
「話相手もいないし、誰かの目がないとどんどん自堕落になるようなダメ人間だからさ。汐織がいてくれたら、そんな俺がちょっとはしっかりしなきゃってなる。別にそこにいてくれるだけで、俺みたいなロクデナシがちょっとはマシになるんだ。な? 無理なんかしなくても、居場所なんかあるんだって」
「ダメ、だよぉ……」
「だから何で」
「そんなこと、言われ、ちゃっ、たら……」
汐織は声をひっくひっくと震わせて、涙を堪えようと必死だった。
けれど、それも叶いそうになく──。
「……我慢、できなく、なっちゃう」
言っている傍から声が震えて、嗚咽を堪えるようにして、言葉は途切れ途切れ。もう、ほとんど泣いてしまっている状態だった。
「別に、我慢なんてしなくていいよ。つか散々我慢してたんだろ? じゃあ、そろそろいいんじゃないの」
そう言って、そっと汐織の肩を抱きかかえる。
彼女の肩は、やっぱり壊れてしまいそうなほど細かった。長く堪えてきた寂しさが、今にも溢れ出しそうなほどに震えていて。ほんの少し腕に力を込めると、確かな重みが身体に掛かってきて──それと同時に、彼女は堰を切ったように泣いた。
大泣き、という程ではない。けれど、嗚咽を堪えて苦しそうに涙で喘ぎ、しがみつくようにして麻貴の胸に顔を埋めていた。
その泣き声から、彼女が今まで味わってきた孤独や喪失、そして言葉にできない慟哭が、心に流れ込んできた。迷子になった子供が母親を探し求める──そんな泣き方で、聞いているこちらの胸まで痛くなってくる。
きっと、汐織はずっとこうして思いっきり泣きたかったのだと思う。
母親を亡くした直後も、お葬式の日も。でも、彼女には、こうして自らを曝け出せる場所がなかった。父親を困らせないために、新しい家族の幸せを邪魔しないために、ずっと『いい子』でいようと頑張る。それが、篠宮汐織という女の子なのだ。
少し躊躇った後、麻貴は汐織の背中に両腕を回し、思いっきり抱き締めた。
汐織は麻貴の首たまにかじりつくようにして、慟哭を漏らす。どうしていいかわからず、泣きじゃくる彼女の髪や背中、肩を、馬鹿のひとつ覚えみたいに撫でまわすことしかできない自分が憎らしかった。
その拍子に、彼女の甘い匂いが鼻腔を擽る。
こうして抱き合っていると、やっぱり色んなものが麻貴の中からも溢れてきてしまって。このまま彼女をもっと抱き締めて、長く綺麗な髪にも、涙で濡れる頬にも、震える唇にもキスをして、これまで抱いていた気持ちを全部打ち明けたくなってしまう。でも──そんなことを、できるはずがなかった、
今はダメだ。今だけはダメだ。そう言い聞かせて、抑えつける。
汐織は、やっと縋れる人と、心を解放できる場所を見つけたところなのだ。自宅以外で、心を安らげる場所を。そんな〝居場所〟の主から告白なんてされたら、きっと彼女は断れない。
ここで麻貴が「好きだ」と言ってしまったら、汐織は頷くしかなくなってしまうから。頷かなければ、自分の唯一の居場所を失うかもしれないという不安が、彼女の選択を縛ってしまう。それは、「好きだから頷いた」のと、外側からは区別がつかないだろう。でも、内側はまるで違う。それはあまりに卑怯で、あまりにフェアではないと思うのだ。
だから今は、この想いだけは、ぐっと飲み込まなければならなかった。
彼女が自分の足で立てるようになって、自分の意思で「居場所」を選べるようになるまで──そのときまでは、自分はただの「居場所」のままでいなければならない。
そんな想いを抑えつけて、ただ彼女を抱き締め、頭を撫で続けた。
それから、どれだけ経っただろうか。
いつしか外の豪雨は収まり、遠くでたまに稲妻が光る程度。雷の音も、もう聞こえなくなっていた。あれだけ激しかった嵐が嘘のように、夜の静けさが少しずつ戻ってくる。
それと呼応するように、彼女の慟哭は次第に静かなすすり泣きへと変わっていき、やがて周囲の静寂に溶け込むように穏やかになっていった。
息の間隔がゆるやかになっていく。胸に押し付けられた頬から、震えが少しずつ引いていって──。
「すー……すー……」
麻貴の胸に顔を擦り寄せたまま、寝息を立て始めた。
(寝ちゃったよ……)
少し身体に隙間を空けて身を起こし、彼女の顔を覗き込む。
涙の跡はまだ頬に残っているけれど、暗闇越しに見える限りでは、とても安らかな寝顔だった。長いまつ毛が、ほんの少しだけ濡れたまま静かに伏せられている。
あれだけ泣いて、それでもこんなに穏やかな顔ができるのか。何だか、こちらまで肩の力が抜けてしまった。
そっと、もう少し離れようとしてみる。しかし──背中に回された汐織の腕がぎゅっと引き寄せて、阻まれた。
(おいおい……このままでいろってのかよ)
眠っているはずなのに、無意識にしがみついていた。それだけ、不安だったのだろう。それぐらい、彼女は孤独を感じていたのかもしれない。
その抱擁に応えるように、麻貴は優しく彼女の背中を抱き締め直した。
さっきまではそれどころではなかったからあまり気にならなかったが、こうなってしまうと、嫌でも彼女の柔らかさや匂いが押し寄せてくる。理性がはち切れそうになるのを、どうにか押さえつけて、ぎゅっと目を閉じた。
あの篠宮汐織と一晩一緒で、しかも同じベッドで抱き合っているのに、それ以上のことは決して起こらない。汐織を知る男全員にこの状況が知られれば、さぞもったいないことをしていると思われそうだ。
というか、信じてもらえないだろう。自分がもしこの状況を他人から聞かされたとしたら、絶対に「何もないわけがない!」と否定するはずだ。でも、実際に何もないのだから仕方がない。麻貴からすれば、完全に生殺しだった。
(……はあ。人生でこんなチャンス、何回あるかわからないのに)
女の子──しかもあの篠宮汐織──と一晩ふたりきりで過ごして、同じベッドで眠るなんて、自分の人生でこれから起こり得るのだろうか。今日を逃せば、二度と起こらないかもしれない。
でも、麻貴と汐織はそういった関係ではなかった。そして、もし汐織が嫌がることを少しでもすれば、きっと沙子にミンチにされてニラと混ぜて餃子の具にされてしまうに違いない。月曜日に空き教室で出される料理の正体が自分だなんて、絶対に嫌だ。
「んっ……」
汐織が何やら、もごもごと寝言を言い始めた。
「ん? 何だって?」
どうせ夢の中だと思って、話しかけてみる。
「あさ、きくん……ご飯は、まだ食べちゃ、ダメ……だよ」
「どんだけ食いしん坊設定なんだよ、俺は」
思わず苦笑いが零れた。一体どんな夢を見ていやがるんだ。
でも、そうやって寝言を言う彼女の寝顔は、とても幸せそうだった。たぶん、夢の中でも料理を作ってくれているのだろう。そういうところまで、汐織らしいと言えば汐織らしかった。眺めているだけで、こちらも口元が綻んでしまう。
(これはこれで、十分いいものを見せてもらってるのかな)
一般的に男子が思うような状態にはならないし、もちろん、コンビニの棚で見たあの0.03ミリのあれが必要になる事態にもなり得ない。そういう意味では、この状況はあまりに健全だった。
でも、もし彼女が今日、肩の荷を下ろすことができたのなら。休める場所を見つけられたのなら。
きっと、それはかけがえのないことなのではないだろうか。0.03ミリの幻影なんかよりも、ずっと、何倍も。
そう思って、麻貴も目を閉じた。
このまま寝てしまうのが、一番いい。
しかし──。
(寝れるわけねーよなぁ)
汐織の寝言や、身じろぎ。触れる肌と、柔らかいもの。それからトリートメントの香り。そんなものに包まれていて、眠れるはずがない。理性はいつでも暴走の一歩手前で踏み留まっていて、油断すれば一気に持っていかれそうだった。腰を引いて、彼女に当たらないようにするのに必死だ。
結局、睡魔が本能を通り越したのは、カーテンの向こうがうっすらと明るくなり始めてからのことだった。




