第33話 彼女の独白
「見損なったでしょ」
汐織は唇を小さく緩めて、唐突に言った。
「は? 何で?」
「だって……高校生にもなって雷が怖いだなんて。子供みたいで、ちょっと恥ずかしいし」
どこか自嘲の混じった笑い方だった。
でも、手は繋がれたままだ。彼女の指先は、さっきよりほんの少しだけ温まっている。
横向けから仰向けに変えて視線を逸らし、麻貴は思ったままを口にした。
「別に、怖いものはいくつになっても怖いんじゃねーの? 高いとこが平気なガキもいれば、高所恐怖症で腰抜かす大人もいるわけでさ」
「それは、そうなんだけど」
「少なくとも、授業中とかでさ。わざとらしい悲鳴上げて雷怖いアピールしてる女よか全然いいんじゃん?」
「あ、ひどいこと言った」
汐織がくすっと笑った。雷の話をしているのに、その笑い声は先ほどと違ってどこか不思議とあたたかい。
彼女は続けた。
「でも、そういうことができる子、ちょっと羨ましいかも。私、固まっちゃって全然余裕なくなっちゃうから」
「ガチっぽくていいと思うよ」
「そのガチっぽいとこが嫌なんだってば」
そう言いつつも、全然怒ってはいなさそうな、穏やかな声音だった。
言葉のキャッチボールが、いつもの台所の温度に近づいていく。今、ふたりがベッドに並んで寝ているという事実が、嘘みたいに思えた。
汐織は小さく息を吐いて、それから改まったように言った。
「……麻貴くんって、ほんとに相手のこと否定しないよね」
「そうか?」
「そうだよ。だって……今まで、私の言ったこととか、否定したことないし」
「あー。まあ、そうかも」
思い返してみれば、そうだったかもしれない。そもそもあまり人の言うことを否定したくないだけだと思うけれど、たぶん汐織に関してはもっと特別だ。
否定すると壊れてしまいそうな危うさが、汐織にはある。坂道で初めて会った時から、ずっとそうだった。だから、彼女が口にする言葉を、できるだけそのまま受け止めることにしていたのだと思う。
もちろん、自分が違うと思ったところはしっかり否定するつもりだ。けれど、汐織と話している中で、そう思った場面はほとんどなかった気がする。
「麻貴くんのそういうところ……きだな」
「ん? なんだって?」
途中が小さくて、よく聞こえなかった。
「な、なんでもない。なんでもないから」
慌てたように、汐織が否定する。
何を言ったのだろうか? 訊き返したかったが、彼女の慌てぶりからして、あえて拾わない方がよさそうな気もした。彼女のためにも、自分のためにも。
それから、しばらく沈黙が続いた。
窓の外では雨と雷が相変わらず続いていて、その音だけが部屋を満たしている。さっきまでより少し遠ざかっている気もするが、それでも時々、思い出したように低く鳴いた。
握っている手は、もう冷たくなかった。
ふと、彼女がぽつりと漏らす。
「私ね……小さい頃にお母さんを亡くしてて」
「え?」
唐突に出てきた重いワードに、ぎょっとする。
知っていたとはいえ、いや、知っていたからこそ、どうしてこのタイミングで切り出すのかわからなかった。
「そのお葬式の日もね、こんな感じでずっと雷が鳴ってたの。小さい頃は、その雷にお母さんを奪われたって……そんな風に思ってたのかも。それからかな。雷が嫌いになったのって」
「…………」
自己紹介でもするかのような何でもない調子で話しているが、きっと今、自分はとても大事な場面に立ち会っている。それは、本能的に悟った。
汐織が自分のことをこうして話したのは、これが初めてだ。家族のことともなれば、尚更。あの台所で交わした『詮索しない』のルールを、彼女のほうから踏み越えているのだから。
軽い相槌を返してはいけない。かといって、深く頷くのも気が引けた。黙ったまま、ただ聞く。それが今、麻貴にできる精一杯の応答だった。
彼女は意外そうに、瞬きをした。
「驚かないんだ?」
「え? 何で」
「だって私、この前『お母さんが家で〜』って言ったのに」
「あっ」
しまった。もしかすると、反応をミスったのかもしれない。
そう思ったが、汐織はどこか察したように、息を吐いた。
「沙子だな〜? もう。沙子のお喋り」
あっさりと情報源までバレてしまった。それでも、怒っている様子は一切ない。むしろ、どこかほっとしたような、肩の力の抜けた声だった。
「どこまで聞いてる?」
「……親が再婚した、ってとこだけ」
「そっか」
暗闇の中に浮かぶ彼女の表情は、穏やかだ。そこに、不快の色は見当たらない。
むしろ、この状況をきっかけに話そうと思ってくれたのだろうか。沙子が事前に下地を作ってくれていたのが、結果的にここで効いたようだ。
「まあ、別に隠すことでもないんだけどね。去年、お父さんが再婚して。それが今の私の〝お母さん〟」
本人をそう呼んだことはないんだけど、と彼女はぽつりと付け足した。
その言葉には、『私にとってのお母さんはひとりだけ』という意図も込められているのだろう。家の外で『お母さん』と呼んでいたのは、やはり外向けの取り繕いだったのだ。
「……仲、あんま良くないの?」
気になっていたところを、訊いてみた。
深入りしすぎないように。嫌がらせされてる? でも、虐待されてる? でもなく、あくまで話の流れで気になって訊いた、という程度に聞こえるように、浅く。
汐織は首を横に振った。
「ううん。仲はいいと思うよ? お買い物とか、私がお母さんとできなかったこととかもしてくれるし。今まで私がしてた家事とか、そういうのも全部やってくれてて、私のことだって凄く気遣ってくれてる。お父さんの相手がこの人でよかったって思うくらいには、素敵な人、かな」
聞く分には、表面的には不満はなさそうだ。それは沙子の証言とも一致していた。
でも、それなら余計に、家を忌避する理由がわからない。
そんな麻貴の思考を見透かしたように、彼女のほうが先回りした。
「じゃあ、何で家に帰りたがらないんだって、思った?」
「まあ……」
「だよね」
汐織は眉を八の字にして、僅かに肩を竦めた。
「ほんとに、吉奈さんに不満はないんだよ。ただ、私がちょっと我が儘なだけで……あっ、吉奈さんっていうのが、今の〝お母さん〟ね?」
「わかってるよ。さっき、電話の時も聞こえてたし」
「あ、そっか。それで、えっと……」
そこで、言葉を詰まらせた。
それからこちらを上目遣いで見たかと思うと、おそるおそるといった様子で……こう訊いてきた。
「私の話、聞いてくれる?」
返事など、わざわざするまでもなかった。代わりにその華奢な手をぎゅっと握ってやり、小さく頷いてみせる。
「……ありがとう」
安堵したようにそう呟くと、汐織は自分のことを少しずつ話してくれた。
小学生の頃に実母を亡くし、長らく父子家庭だったこと。父親が大変そうだったので、自然と家事を手伝うようになったこと。そのうち、料理や片付けなど、家庭内で〝作る役割〟〝整える役割〟を担うようになったこと。それは別に嫌いではなく、むしろ父親に褒められるし、楽をさせてあげられているのだから、誇らしくさえ思っていたこと──。
話を聞きながら、ぼんやりと思った。
(何だか……今の俺みたいだな)
今、この部屋で〝作る役割〟〝整える役割〟を担ってくれているのは、汐織だ。コンビニ飯ばかりだった麻貴の食卓を整え、汚部屋を綺麗にしてくれている。その役割を、彼女は楽しそうに、誇らしそうにこなしてくれていた。
おそらく〝作る役割〟〝整える役割〟こそが、汐織にとっては自分の存在意義そのものなのではないだろうか。今の話を聞いていて、何となくそう思った。
しかし、高校に入って、汐織のその生活は一変する。
父の再婚相手──吉奈さんが、彼女のその役割を奪ってしまったのだ。
いや、奪った、という言い方も適切ではないかもしれない。継母は、高校生の汐織を気遣って家事全般を担ってくれているだけだ。普通に考えれば、それはとても優しい行為だろう。だが、汐織にとっては、自分の役割を全部取り上げられたようなものだった。
汐織は、自分の役割が家庭の中から静かに失われていくのを、感じていったらしい。
これで継母が嫌な人ならまだしも、そうではない。継母のほうも、上手くやろうとしてくれているのだ。だからこそ、却って遠慮が募り、家の中で心を休められなくなったのだという。
そして、家庭の中で自分の役割を失っていくうちに、つい数か月前。決定的な出来事が起こった。
「お父さんと吉奈さんの間に、子どもができたの」
淡々と、彼女は言った。
その淡々さが、逆に苦しい。
「嬉しくないわけじゃないよ? 私だって、お父さんには幸せになってほしいし。でも……そうなっちゃうとさ。私だけが、あそこで他人になっちゃうじゃない?」
少しだけ、声が涙で滲んだ。
汐織は両親の幸せを喜びたい気持ちを持ちつつも、その輪の中に自分がいることに、強い居心地の悪さを覚えていたのだ。ふたりの子供ができれば、自分だけが他人になってしまうから。邪魔者のように感じてしまうから。
そう考えるようになってからは、次第に家そのものが安らげる場所ではなくなり……早く帰る理由を失っていった。これが、汐織がこのあたりをうろついて時間を潰していた理由なのだという。
(誰も……悪くないじゃないか)
麻貴はその話を、胸の奥が締めつけられるような心地で聞いていた。
誰も悪くなかった。父親も、継母も、そして汐織も、誰も悪くない。いや、むしろ全員が思い遣っているようにさえ見えた。
それなのに、汐織だけがただ自らの居場所を失い、存在意義を失おうとしていた。
そして、その影響は食卓にも自然と及んでいく。
家での食卓もくつろぎの場ではなくなり、〝三人〟の食卓に自分が混ざることに遠慮や罪悪感を抱くようになっていったのだという。『自分はここにいていいのか』と考えるうちに、食事が味わうものではなく、ただ飲み込むものになっていったらしい。そして──。
「……味が、全然しなくなっちゃって」
できるだけ静然を装った様子で、何でもないという風に、汐織は言った。
「え?」
「何を食べても、何を作っても……味がしなくなって。もさもさとした何かを食べてるってだけになってて。そしたら、食べること自体が嫌になっちゃった。それで具合が悪くなって、クラスメイトに心配をかける羽目になったんだけど」
そこで汐織が少し悪戯っぽく口の端を上げて、こちらを見やった。
そのクラスメイトは、言うまでもない。あの坂道で蹲っていた彼女に、コンビニの総菜パンを差し出した麻貴のことだ。
「でも、なんでだろうね? あの時麻貴くんが買ってくれたパンは……味がしたんだよ」
汐織は、繋いでいた麻貴の手をぎゅっと握った。
離さないで、と言うように。そこにいてほしい、と言うように。
そこで──色々なことが、一本の線で繋がった。
たかが百何十円かの総菜パンを食べて、感慨深そうに『……おいし』と呟いたこと。そして、どこか泣きそうになっていたこと。それから、『ごめんね……気持ち悪いよね、私』と言ったところまで、全部。
あの『気持ち悪いよね』というのは、決して総菜パンを美味しく食べる自分を蔑むものではなくて──家でずっと味がしなかった自分が、初対面に近い男子から貰ったパンで味を感じてしまったことに対して、自分自身に向けた言葉だったのだ。
味がしない自分が気持ち悪い。
誰の役にも立てない自分が気持ち悪い。
居場所のない自分が気持ち悪い。
そういう全部を、彼女は丸ごとひと言に詰め込んでいた。
そして、それを誰にも言えないまま、ずっとひとりで抱えていたのだ。あの坂道までの何ヶ月、いや、もしかすると、もっと前から。
それに思い至って、胸が張り裂けそうになった。
汐織は何も悪くない。誰のことも傷つけていない。それなのに、誰よりも自分自身を許せずにいた。『いい子』を演じ続けて、家族の幸せを邪魔しないように、ずっとひとりで遠慮をしている。
なのに。こんな優しい子が。こんなあったかい子が、自分を『気持ち悪い』だなんて。
そんなことを、絶対に言わせてはいけなかったのだ。
気付けば、麻貴は握っていた彼女の手を、ぐいとこちらに引き寄せていた。
「あっ……」
汐織から、か細い声が漏れた。小さくバランスを崩した身体が、こちらに傾いてくる。
そのまま、麻貴は──彼女をそっと、抱き締めてしまっていた。




