第32話 ふたりで同じベッドに……
風呂から上がると、汐織はもう髪を乾かし終えていた。
麻貴がゆっくり入ったせいもあるだろう。身体や髪をこれでもかというくらい念入りに洗い、意味もなくシャワーを浴び続け、湯気の中で必死に精神統一を図っていたのだ。お陰で指先がふやけている。普段の二倍は時間をかけたはずだから、当然と言えば当然だった。
扉を開けると、汐織はソファの隅っこにちょこんと座っていた。スマホを膝の上で握ったまま、画面を追っているような、追っていないような、どこか心ここにあらずといった様子。麻貴に気付いて顔を上げかけたが、すぐにまた俯いてしまった。長い黒髪は綺麗に乾かされていて、夜の蛍光灯の下でつやつやと光っていた。
麻貴も無言でソファの逆側に腰を下ろし、ドライヤーで自分の髪を乾かした。狭いソファだから、距離を取っているつもりでもそんなに離れられない。ドライヤーの低い唸りが、ふたりの間の沈黙の代わりになってくれた。お互いに何を喋っていいのかわからないままだから、この機械音にずいぶん救われていたところがある。
その間、汐織は時折、ちらちらとこちらを窺っているような気がした。気のせいかもしれない。気のせいだと思い込みたかった。
乾かし終える頃には、いつの間にか日付が変わっていた。
ドライヤーのスイッチを切ると、部屋の中に静寂が戻ってくる。窓の外の雨音と、遠くの雷鳴。そして、テレビから流れる深夜番組の控えめな音声が室内に響いていた。
いよいよだ。
いよいよ、今夜最大のハードルを越えなければならない。
「えーっと。そんで、寝る場所なんだけど」
麻貴は気まずそうに切り出した。
「俺はこっちで寝るからさ。ベッドは、汐織が使って」
一応、これが当たり前だと思っていた。これが一番、変な間違いも起きないだろうし、宿主としての筋でもある。
しかし、汐織は反論してきた。
「それは悪いよ。だって、私が無理言って泊めてもらってるのに」
「ぜ、全然悪くねーって。それよか、客にソファで寝させる方がよっぽど悪いから」
「でも……毛布とかお布団、もうないよね?」
汐織の指摘は実に目敏かった。大掃除を手伝ったこともあるからか、この部屋の備品については一通り把握しているらしい。
確かに、この部屋にはベッド以外に寝具らしい寝具はなかった。毛布だって一組きりだ。麻貴は文字通り、何もないところで一晩を明かすことになる。
「ひ、一晩くらい大丈夫だって」
「大丈夫じゃないよ。それで風邪引いたらどうするの? テスト前なのに」
痛いところを突かれた。
麻貴にとって、来週の期末テストはただの試験ではない。この部屋での──いや、この学校での生活そのものが懸かっていた。風邪なんて引いてしまえば、それだけで色々なリスクが跳ね上がる。
「でも、じゃあ他にどうしろっていうんだよ」
「それは……」
そこで、お互いが無言になった。
不意のお泊り。恋人同士でもない男女が、一晩、同じ部屋で過ごす。その時点で、もう既にいろいろと問題のある状態だった。何かを犠牲にしなければ、一晩は乗り越えられない。それは麻貴の健康か、汐織の安眠か、或いは自分の理性か。どれも代償としては大きすぎる。
そう思っていると──。
「じゃあ……一緒に、寝る?」
汐織がおずおずと、顔を真っ赤にして、消え入りそうな声でそう提案した。
聞き間違いかと思った。空耳に違いない。窓の外の雨音と雷鳴に紛れて、別の言葉を勝手に脳が変換したのだ。そうに決まっている。でも、それが空耳ではないことは一番自分がわかっていて。彼女の表情を見ていても、明らかだった。
「ば、バカ、お前、何言ってんだよ。俺だって一応──」
男なんだぞ、と言いかけたその刹那。
窓の外がカーテン越しにぴかっと白く光って、ほぼ同時に、どぉん、と腹に響くような音が轟いた。かなり近い。さっきまでよりも、明らかに近い場所に落ちたようだ。アパートの壁が、一拍だけびりっと震えた気がした。
汐織が小さく息を呑んで、肩を震わせる。両手が、無意識に膝の上のスマホを握りしめていた。
(そっか……怖いっていうのも、あるのかもな)
自分のことで頭がいっぱいだったが、そもそもの事情を思い出した。
汐織は、雷が苦手なのだ。ひとりで真っ暗なベッドに入って、この豪雨と雷鳴の中で寝ろと言われたら、それは確かに厳しいのかもしれない。
麻貴は諦めたように、大きく息を吐いた。
「わかったよ。一旦は……それでもいい。でも、その。やっぱり嫌だったとか、そういうの感じたらすぐに言ってくれ。ソファで寝るから」
「……うん」
汐織は俯いたまま、ほんの僅かに首を縦に振った。
マジかよ、と心の中で息を呑む。半分くらいヤケクソで提案してしまったのだが、まさかそのまま通るとは。
嵐以上にとんでもないことが、起こってしまった。天罰でこのアパートに落雷が直撃するんじゃないかと、本気で不安になってくる。いや、むしろ落ちてくれた方が話が早いんじゃないかと、妙な思考まで浮かんできた。
「じゃあ、先入ってて」
彼女は無言のままこくりと頷いて、先にベッドへ入った。
布団がそっと盛り上がる。長い黒髪が、枕の上にゆるく広がっていた。麻貴はそれを直視しないようにしながら、電気のスイッチへ手を伸ばす。
「電気、消しても平気? 豆電とかはいる派?」
「ううん。大丈夫」
布団の中から、汐織が答える。
麻貴はスイッチを押し下げた。一拍で部屋が暗くなる。テレビも消した後だから、本当に真っ暗だ。窓の外で稲妻が走るたびに、カーテンの輪郭がほんの一拍、白く浮かび上がる。
ベッドの前に、立った。
(えっと……本気で、ここに俺も入るの?)
信じられなかった。
自分のベッドの中に汐織が入っているだけでも凄いことなのに、そこに自分も入ることになるとは。いや、今でこそ当たり前になっているけれど、そもそも篠宮汐織がこの部屋にいることそのものが冗談みたいな話なのに、一緒に寝るって、どういうことだよ。
「し、失礼します」
なぜか、そんな一言を言ってから、ええい、ままよ、と思い切って布団を捲って中に入った。
汐織の体温が布団の中にこもっていて、暖かい部分とひんやりしている部分がまだら模様にある。シャンプーの甘い匂いが、いつもの自分の枕からほのかに香ってきた。普段は嗅いだこともないような、優しい匂い。これはもう自分の部屋とは思えなかった。完全に、別空間だった。
シングルベッドだから、当然狭い。お互いに端に寄っているつもりでも、肩のあたりがほんの少し触れそうなくらいの距離になる。背中を向けて寝ようとしても、ベッドの端から落ちかけて、結局は仰向けに近い体勢に戻る羽目になった。
「あの、おやすみ」
「う、うん。おやすみなさい」
ぎこちない言葉を交わしてから、目をぎゅっとつぶる。
背中は半分くらい布団から出ているが、このまま寝てしまえば問題ない。朝になれば、今ここにある不安や気まずさなんて、全部消えるはずだ。そう自分に言い聞かせて、必死に意識を遠くへ飛ばそうとした。
しかし、眠気というのはこういう時に限って訪れてくれない。むしろ、目を閉じれば閉じるほど、隣の気配ばかりが鮮明になっていった。布団越しに、微かな体温が伝わってくる。呼吸の音、たまに衣擦れ。普段なら気にも留めない物音のはずが、今夜に限ってひとつひとつ拾ってしまう。
そこへ、また雷が落ちた。
ぴかっと閃光が走り、少し遅れて、どんと音が轟く。汐織が小さく息を呑んで震えたのが、毛布越しにはっきりと伝わってきた。
つい瞼を開いてしまって──その拍子に、目の前のものが視界に入ってきた。
(あっ……)
そこには、ぎゅっと目を閉じたまま、こちらに身体を向けて丸まっている汐織がいた。
よく見ると、その肩が小刻みに震えている。両手を胸の前で組んで、何かに耐えるように身を縮めていた。
(そんなに怖いのか……)
自分が泊めることで頭がいっぱいになっていたが、彼女は彼女で、ずっと雷への恐怖を我慢していたのだ。さっきまでは気付けていたはずなのに、彼女が泊まることになってからの自分は、そんなことすら頭から抜け落ちてしまっていた。
夕飯を作ってもらっていた時の自分は、もう少しまともだったはずだ。汐織が雷に怯えていることを察して、何も言わずに行動できた。それなのに、自分の動揺に呑まれて、肝心の彼女の様子が見えなくなっていたなんて。
自分の愚かさと幼さが浮き彫りになった途端、これまでの混乱や焦り、緊張が、ふっと和らいだ。
いや、守らなければ、と思ったからかもしれない。下心がどうとか、雰囲気がどうとか、そんなことよりも先に──まず彼女を、安心させてやらないといけない。そんな思いに駆られた。
「汐織」
名を呼ぶと、彼女が「え?」と瞼を開けた。
暗闇の中で、青みがかった瞳がほんの少しだけ揺れている。
麻貴はやや緊張しつつも、布団の中から手を伸ばして──そっと、彼女の手を取った。
お風呂上がりのはずなのに、彼女の手は冷たい。指先まで力なく、震えていた。一度、自分の手のひらの中で、その小さな指がぴくりと反応した。
「あっ……」
汐織が小さく声を漏らす。そこに、拒絶の意は感じなかった。
暗闇の中、汐織をじっと見据えて。麻貴は言った。
「大丈夫だからさ。俺が傍にいるし……って、俺なんかじゃ、頼りないかもしれないけど」
言いながら、自分でも不甲斐なくて顔を逸らしてしまった。柄にもないことを言っているのは自覚している。でも、今は、どうしてもそれを言葉にしておきたかった。すると──彼女の手が、そっと、麻貴の手を握り返してきた。
「ううん……そんなことないよ。ありがとう」
そう言って、さっきまで力なく冷たかった指先に、わずかに力が籠もる。
「やっぱり、麻貴くんは……優しいよ」
汐織はほっとしたようにそう言うと、柔らかく微笑んだ。
その声音は穏やかで、優しくて。こちらを信頼してくれているのが、伝わってくる。
窓の外の雷鳴は、まだ続いていた。豪雨も止む気配はない。
それなのに──ふたりの間にあった空気が、何だか少し変わった気がした。




