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第31話 お風呂上りの彼女

 テレビ画面では、『天空要塞ラピュタス』のエンドロールが静かに流れていた。

 主題歌のメロディが、狭いワンルームの空気にゆっくりと馴染んでいく。作品の余韻を引き連れた、優しい旋律。普段ならこのまま浸っていたい音楽のはずなのに、今夜ばかりは、その優しさが逆に背筋をすっと通り抜けていく。

 ついに、映画が終わってしまった。

 映画がやっている間は、なんとか間が持っていた。画面の中でキャラクターたちが動いてくれるから、ふたりの間に沈黙が落ちても気まずくはならなかった。CM中には「どのジブリが一番好き?」「私は耳をすませばかも」みたいな、当たり障りのない雑談もぽつぽつと生まれていた。あの時間は、平和そのものだったと言っていい。

 でも、物語には必ず終わりがある。映画が終わってしまったその時、この部屋の展開も、変わらざるを得なかった。

 時刻は、既に二十三時を過ぎている。

 そこで、テーブルに置いてあったスマホが光っているのに気付いた。ポップアップでメッセージが表示されている。

 何気なく手に取って、画面に視線を落としてみた。


【相沢沙子:汐織を傷つけたらコロス】


 沙子から、とんでもなく不穏なメッセージが届いていた。


(あ、アホか! 何もしねーっての!!)


 麻貴は既読さえつけずに、ポップアップをスワイプして消した。

 その削除の速度は、自分史上最速だったかもしれない。あんなものを汐織に見られでもしたら、それこそ終わりだ。ただでさえ気まずい空気が、さらに十割増しになる。

 しかも「コロス」の表記がカタカナなのが、余計に怖かった。ひらがなでもなく漢字でもなく、あえてのカタカナ。そのチョイスに、沙子の本気度が滲んでいる気がしてならなかった。月曜日、無事に学校に辿り着けるだろうか。


「映画、終わっちゃったね」


 汐織がこちらに、少し緊張の混じった笑みを向けた。


「あ、ああ」


 そう。映画は終わってしまった。

 終わってしまえば、やることはもうほとんど残されていない。お風呂と、就寝のみだ。

 汐織もそれを察しているのだろう。どことなく、そわそわしているのが伝わってくる。Tシャツの裾を指先で軽く摘まんだり、離したりを繰り返していた。


「汐織は普段、どれくらいに寝てるの?」

「日付変わるくらいにはもう寝てるかな」

「だよな」


 それならば、そろそろ風呂に入らなければならない。試験前にあまり夜更かしをさせるわけにもいかないし、今はもうだいぶ乾いているが、さっきまでしっとりと髪に雨気を含んでいた。どのみち風呂には入った方がいいだろう。


「えっと、風呂なんだけど。先、入って」

「え!? でも私、髪長いし……乾かすの時間掛かるよ?」

「い、いいからいいから! 客なんだから、先に入れって。バスタオルは、あそこのカゴの中な」

「……うん」


 汐織は迷った様子で頷いて、コンビニで買った袋とバスタオルを手に取り、ユニットバスへ向かった。

 小さな扉が閉まり、かちゃりと鍵のかかる音が室内に響いた。

 それを聞いて、麻貴はようやく、ふうっと息を漏らす。

 やっとひとりの時間だ。なんだか妙に気が休まる。ずっと肩に力が入っていたのだと、今になって自覚できた。

 ぼんやりとテレビに顔を向けると、エンドロールはもう終わり、次の番組の予告が流れ始めていた。


(あ、そうだ。ドライヤー、出しておいてやんなきゃな)


 思い出して、ローテーブルの下のカゴからドライヤーを引っ張り出す。

 汐織の長い黒髪を乾かすにはそれなりに時間がかかるだろう。すぐに使えるようにしておいたほうがいいと思い、ソファの上に置いておいた。

 そして──意識をもう一度テレビに戻そうとした時だった。

 ユニットバスの扉の向こうから、シャワーの音が聞こえてきた。


(──ッ!?)


 当たり前の話だ。シャワーを浴びているのだから、シャワーの音が聞こえるのは当たり前。物理的に、当然のこと。

 しかし、この音がこれほど強烈に響くものだとは、思ってもみなかった。

 この音が意味すること。それは即ち……今、汐織は一糸纏わず、この壁一枚を隔てた先にいるということ。

 想像してしまいそうになって、くらりときた。映画のお陰で頭の隅に追いやっていたはずの、コンビニの棚の0.03ミリの幻影まで、ぶり返してくる。


(ま、まずいまずい!)


 変な欲に呑まれそうになって、慌てて首をぶんぶんと振る。

 座っていても、そわそわするだけだ。何かしら手を動かしていないと、理性がどこかへ飛んでいってしまいそうだった。

 とりあえず、ベッドのシーツを替えてやることにする。今のシーツでも洗濯はしているから汚れてはいないはずだが、どうせなら綺麗なやつで寝てほしい。押し入れから新しいシーツを引っ張り出した。

 ついでに枕カバーも換えよう。一応洗ってはいたが、別のものに変えておいたほうが気分の問題で違う。そのほうが絶対にいいはずだ。

 シーツを剥がして、新しいやつに張り替える。その作業の合間に、シャワーが止まり、今度は身体を洗っているらしき音が聞こえてきた。スポンジか何かが肌の上を滑る音。その連想で、また彼女の白い背中やら何やらが浮かびそうになって、手が止まった。

 首をぶんぶんと振って、手元を動かす。それを、何度繰り返しただろうか。


(だ、駄目だ。何も考えないようにしよう)


 シーツの張り替えを終えてから、手持ち無沙汰でスマホを手に取る。SNSのタイムラインをぼうっと眺めてみるが、もちろん内容は頭に入ってこなかった。スクロールしているだけで、何を見ているのかもよくわからない。

 そして──ついに、シャワーの音が完全に止まった。

 続いて、シャワーカーテンが開く音。布の擦れる気配。

 麻貴は咄嗟に、スマホ画面に顔を埋めるようにして俯いた。

 もう出てくる。出てきてしまう。出てきた時、どうすればいい?

 その答えが出る前に、ユニットバスの扉がかちゃりと開いてしまった。

 むわっと、湯気が室内に溢れてくる。


「あっ……」


 反射的に顔を上げかけてしまい、また心臓が高鳴った。

 これも当たり前だが──お風呂上がりの彼女が、そこにいた。


「あの……お風呂、お先頂きました。麻貴くんも、どうぞ……」


 髪を濡らした汐織が、頭からバスタオルを被った状態で出てきた。

 顔を隠したいのだろう。タオルと髪の隙間から、ちらりとこちらを窺っては、すぐに引っ込めてしまう。

 その敬語からも、彼女の緊張が痛いほど滲んでいた。


「あ、ああ。ドライヤー、ここに置いてあるから」

「その、私……髪乾かすのに、十分以上かかるから」

「わかってる。ゆっくり風呂入るよ」


 それだけ言って、麻貴は顔を逸らした。

 汐織が麻貴の部屋着を着ていることには、もう慣れたつもりだった。しかし、風呂上がりはまた破壊力が違う。

 どうして女ってやつは、風呂から上がっただけでこうも色気が増すんだ。母親以外の風呂上りの女を直視したのは初めてだが、全然違っていた。


(えっと。今日はここで着替えられないから、着替えを持って入らないといけないんだよな)


 自分の着替えとバスタオルを手に彼女の横を通った、その時だった。

 どうして色気を感じてしまったのか、その理由を悟る。

 シャンプーと、トリートメントの匂いだ。さっきまではうっすらとしか届かなかった甘い匂いが、風呂上がりの彼女の全身から、ぐっと濃い密度で鼻腔を貫いてきた。

 また、くらりときた。


(いや、やばすぎだから。これ、絶対にやばすぎだから)


 もし隼太に話そうものなら、確実に殺されても仕方ない案件だ。何なら、さっきのLIMEの件もあるし、実際に沙子から殺されそうな気もしなくない。

 麻貴は汐織の横を通り過ぎて、逃げ込むようにユニットバスに入った。

 中に入ると、その匂いが一層濃くなる。あたたかな湯気がまだ満ちていて、鏡は真っ白に曇っていた。床や壁には、水滴があちこちに残っている。

 さっきまで彼女が、一糸纏わずここにいた証が、そこかしこにあった。

 ちょうど扉の外から、ドライヤーの音が聞こえてきたところだ。ごう、という低い音が、狭いアパートの壁越しに小さく伝わってくる。


「はあ……俺の心臓、ほんとに朝まで持つのかな」


 大きく息を吐いて、自らも服を脱ぎ始めたのだった。

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