第30話 ぶかぶかのTシャツ
最初に、セーラー服のチャックが下ろされる微かな音。それから布の擦れる気配がして、足元で何かがことりと床に触れた。続いてTシャツをかぶるのだろう、ふわっと布の動く音が届く。
豪雨の音なんて、もう気にもならない。雷鳴も遠かった。ただひたすら、背後の気配に全神経が吸い寄せられている。普段なら気にも留めない生活音が、今は全部、特別な意味を持って耳に届いてしまうのだから、人間の耳というのは罪深い器官だ。
(そ、想像するな……! 想像するなよ俺!!)
目を瞑って、必死に言い聞かせる。自分の息遣いが、妙に大きかった。鼓動も耳の奥でどくどくと鳴っていて、いつもの数倍の音量で響いていた。
何の絵を浮かべたらいいんだ。綺麗な景色。そう、綺麗な景色を浮かべよう。富士山。海。雄大な山脈。北海道の大自然でもいい。
しかし……何を考えても最終的に汐織の顔に戻ってきてしまっていた。脳みそが全然、言うことを聞いてくれない。今までずっと普通に過ごしてきたのに、今日のこの数分だけ、ここまで制御不能になるとは思わなかった。
振り向きたい衝動と戦う。絶対に、絶対に振り向いてはならなかった。ここで振り向いたら、これまで築き上げてきた信頼が全部ゼロになる。それどころかマイナスだ。汐織は二度とこの部屋に来なくなるだろうし、沙子からの膝蹴りはもはや確定演出。下手をすれば警察沙汰にすらなりかねない。それだけは、何としても避けなければならなかった。
テレビからは、また観客の笑い声。何がそんなに面白いんだ、お前ら。こちらの状況も知らずに、のんきに笑いやがって。八つ当たりだとわかっていながら、心の中で芸人に悪態を吐いてしまう。
三十秒か、一分か、五分か。体感では、永遠に近かった。
そして、音が止んだ。
「あの……着替え、終わりました」
どこか敬語混じりで、汐織が言った。
「あ、ああ」
おそるおそる振り返る。
そこには──麻貴の部屋着を纏った汐織がソファにちょこんと座っていた。
思わず、くらりとくる。
いつものセーラー服でもなく、あの大掃除の日の私服でもない。麻貴の無地のTシャツとハーフパンツ。それを着ているだけなのに、どうしてこんなに破壊力があるのか。脳がうまく処理できずに、一拍だけ回線がショートしたみたいになった。
Tシャツは彼女には大きすぎて、首元がわずかにずれて鎖骨が覗いている。少し前屈みになったら、きっと下着までくっきりと見えてしまうだろう。裾はハーフパンツを隠してしまうくらい長く、太ももの半分あたりまで覆っていた。袖も、肘の近くまである。いつもは自分が着ている服のはずなのに、彼女が着ると全然別の服のように見えた。
ハーフパンツはさらに悲惨で、ウェストの紐を目一杯絞っているのに、それでも余裕があってずり落ちそうだ。華奢な腰回りには、明らかに大きすぎる。身長差というよりは、骨格の違いを突き付けられた気がした。
長い黒髪はまだしっとりと濡れていて、無地のTシャツの肩口に垂れ、薄く色を変えている。濡れた毛先から、雨とは違う何か甘い匂いがしそうで──いや、考えるな。考えるなってば。
「やっぱりちょっと大きいね」
照れたようにはにかんで、汐織は自分の着ている服を見下ろした。ハーフパンツの紐の結び目を、くいくいと引っ張ってみせる。
そんな彼女を見ていて、ついぽろりと言葉が零れた。
「可愛い……」
「え!?」
汐織が目を丸くして、吃驚の声を漏らす。
自分の失言に気付いたのは、その直後だ。
「……え? あっ! なんでもない、なんでも!!」
慌てて誤魔化したが、誤魔化しきれていないのは自分が一番よくわかっている。
汐織にも聞こえてしまっていたようで、耳まで真っ赤にして俯いてしまった。さっきと同じか、それ以上だ。Tシャツの裾を、両手でぎゅっと握りしめている。
(俺の馬鹿野郎〜〜〜〜ッ!)
自分で気まずい空気を作り出して、自分で被害を受けている。完全な自爆だった。せっかく着替えという修羅場を乗り越えたのに、最後の最後で台無しにしてしまった。
麻貴は慌てて話題を探した。
(何か、何か誤魔化せるものはないか!?)
あちこちに泳いだ意識が、部屋の壁のカレンダーで止まる。
金曜日。そこで、今が金曜日の夜であることを改めて思い出した。普段の金曜の夜なら、ご飯を食べながらダラダラとテレビを眺めている時間帯だ。その時間にやっているものといえば──。
(そ、そうだ! 金ロー!)
毎週金曜日、地上波の映画番組。始まってからいくらか時間は経っているはずだが、確か今日は『天空要塞ラピュタス』の放映日だったはず。定番中の定番。公開から何十年も経っているのに、金曜ロードショーで流れるたびに視聴率を叩き出す怪物作品だ。
これなら、会話の代わりになる。ふたりで並んで見るだけで、気まずさを誤魔化せるのではないだろうか。話題がなくても、映画が勝手に話題を提供してくれるのだから、これ以上の救世主はいない。
麻貴はリモコンを手に取って、急いでチャンネルを合わせた。案の定、映画が流れている。まだ序盤で、主人公が飛行船に襲われているあたりだった。
「汐織はジブリとか見る?」
「え? たまに見る、くらいかな?」
「ちょうど天空要塞ラピュタスやってるけど……見る?」
「……うん」
汐織は小さく頷いて、姿勢を正した。麻貴も少し距離を空けて、座り直す。
画面の中では、主人公たちが空の上で追いかけっこをしていた。名作のBGMが部屋に流れて、さっきまでの重い空気を少しだけ洗い流してくれる。
なんだかんだで、名作は名作だ。世代を問わず誰もが知っている作品というのは、こういう時の共通言語として、最高の役目を果たしてくれる。言葉を交わさなくても、同じ画面を追っているというだけで、同じ空気を共有できている気になった。それだけで、ふたりの間にあった気まずさが、ほんの少しだけ和らいだように思う。
画面に向かう汐織の横顔を、麻貴はこっそり盗み見た。
部屋着姿のクラスメイトの美少女。髪はだいぶ乾いてきているが、まだしっとりと雨気を残している。頬には映画の光が映って、暖かい色合いで浮かび上がっていた。普段の教室で見る汐織とも、うちの台所に立つ汐織とも違う。今日だけしか見られない顔のような気がした。
(やれやれ、だな……)
なんとか場を繋いではいるけれど、麻貴の頭の中には、まだはっきりとした問題がふたつ残っていた。どちらも避けては通れないハードルで、どちらもこの夜のうちにどうにかしなければならない。
ひとつめは、お風呂問題だ。
雨に濡れているというのもあるし、さっき旅行用のシャンプーセットを買っていたのも目に入った。ということはつまり、風呂には入るつもりだろう。それはもちろんおかしくはないし、当然だ。とても自然なこと。それは理屈としてはわかるのだが──。
汐織に風呂を貸すとなると、その間の自分はどうすればいいのだろう? 音を聞かないようにテレビの音量を上げればいいのか、イヤホンでもして、さらに音楽を流しておくべきか。そもそも、女子に自分の家の風呂を使わせることの破壊力に、自分の理性は耐えられるのだろうか?
否、絶対に耐えられる自信がない。風呂場に彼女のシャンプーの匂いが残っているだけで、精神的ダメージは計り知れなかった。
しかも、着替えはさっき渡した無地のTシャツとハーフパンツだ。風呂上がりにそれだけを着た汐織が出てくるところを想像しただけで、もう限界だった。下着問題もある。さっきコンビニで買っていたはずだが、あれを意識してしまうのも、まずい。
そして、ふたつめは、寝床問題だ。
この部屋には、ベッドがひとつしかない。
当然、ベッドは汐織に使ってもらうつもりだ。麻貴はソファか床で寝る。そこまでは決まっていた。決まっているのだが──同じ部屋で眠るという事実だけで、落ち着ける気がしなかった。明かりを消した後の暗闇の中で、彼女の寝息を聞きながら眠りに落ちる。想像するだけで、理性のダムが決壊しそうになった。
しかも、このソファは短い。普通に寝るには少し足りない長さで、寝返りを打つのも難しい。床で寝るとなると、布団は一組しかないから、毛布か何かで代用するしかなかった。どちらにしても、眠れるかどうか怪しい。
(俺、朝まで生きていられんのかな?)
麻貴は汐織に気付かれないよう、もう一度こっそり息を吐いた。想定していなかったのだから、対応策もあるはずがない。すべてがぶっつけ本番だった。
テレビ画面に意識を戻すと、主人公とヒロインが出会ったばかりの場面が流れていた。ヒロインが空から降ってきて、主人公がそれを抱き止める──誰もが知っている、名作の始まりのシーンだ。
空から降ってくる女の子を受け止める少年を見て、どこかで聞いた構図だな、と思った。
そこで隣を見て、思わずふっと笑みが零れる。なんてことはない。自分も同じようなことをしてしまっていた。
窓の外では、豪雨と雷鳴が相変わらず続いている。遠くで光って、少し遅れて音がやってきた。それが絶え間なく繰り返されている。
テレビの中で、主人公が空に手を伸ばしていた。
部屋の中では、汐織が麻貴のTシャツを着て、静かに画面を追っている。無防備な、でもどこか緊張を残したままの横顔。
気付けば麻貴はもう画面など見ていなくて。
その横顔を、じっと見つめていた。




