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第29話 悪い子

「うん。……うん、大丈夫。着替えは沙子のを借りるから」


 隣では、汐織が親と電話をしていた。

『泊めてもらえたりとか、しますか?』──これへの返答は、もはや言うまでもない。というより、断る理由がどこにもなかった。

 父親に電話する、と言っていたので、テレビの音量をだいぶ絞ってある。リモコンを操作する手が、我ながらどこかわざとらしかった。音を小さくすれば、逆に耳をそばだてているのがバレバレな気もするが、背に腹は代えられない。頭の中は、すっかり電話の中身に持っていかれていた。

 ワンルームの狭さでは、汐織のスマホから漏れてくる相手の声ざうっすらと届いてしまう。少し低めの、落ち着いた男性の声だ。それが、汐織の父親なのだろう。言葉まではっきりとは聞き取れないが、トーンだけはなんとなく伝わってくる。穏やかで、柔らかい声だった。怒鳴ったり責めたりしている気配はまるでない。

 麻貴はテレビへ顔を戻し、音のないバラエティ番組のテロップを追うふりをした。芸人が何かで大笑いしているらしいが、テロップだけでは何が面白いのか全然伝わってこない。

 汐織の口調は、実に自然な感じだ。嘘を吐いているようには聞こえなかった。強いて言えば、緊張からか、普段より少しだけ声が高いぐらいだろうか。


「え? だ、だからいいってば! テスト勉強ちょっとだけしたら、すぐ寝るつもりだし。明日の午前中には帰るようにするから」


 少しだけ焦った声。父親が何かを心配しているのを、押し返すような調子だった。

 やっぱり、引っかかる。『放任主義だから気にしない』と言っていた親のはずなのに、娘の外泊にちゃんと心配しているようき思えた。これは普通の、娘を気にかけている父親の態度ではないだろうか。

 少なくとも『何時に帰ってきても気にしない』家庭の父親とは、声の温度が違う気がした。


「はい。はーい」


 返事を繰り返す汐織。相槌の間隔が短くなってきている。電話を切る流れだ。

 そして、最後に──。


「……あんまり吉奈さんに頼り過ぎないようにね。じゃあ……おやすみなさい」


 気になる一言を添えて、彼女は通話を切った。

 今出た『吉奈さん』というのは、おそらく、継母にあたる人物なのだろう。

 学校の非常階段で「お母さんが、今日は家で食べろって」と声を小さくした、汐織の横顔を思い出した。

 あの時彼女は継母のことを『お母さん』と言っていたが、おそらくそれは外向けだ。ああした名前呼びが、家での本来の呼び方なのだろう。

 沙子の言っていた『継母は凄く優しそうな人』という言葉と、汐織が家で継母を名前呼びしている事実。それらがひとつに繋がりかけて、でもまだ線になりきらない。優しい人を、名前で呼ぶことそれ自体は悪いことではない。むしろ、友好的な関係でそう呼ぶ家庭だって世の中にはたくさんあるはずだ。

 ただ、汐織の口からそれが出た時の空気は、友好的というよりは、距離を取っているような響きがあった。気のせいかもしれないが、少なくとも麻貴にはそう聞こえた。

 汐織が安堵したように小さく息を吐いて、スマホをテーブルに置く。その吐息には、嘘を吐き切った安堵だけではない、もっと別の疲れも混じっている気がした。

 テレビの音量を少し戻して、麻貴は何気ない調子を装って訊いた。


「バレなかった?」

「うん。明日迎えに行こうかって言われちゃって、ちょっと焦ったけど」


 汐織が困ったように笑う。

 さっきまでの緊張が、ほんの少しだけ解れていた。いつもの汐織の笑い方に、近かった。麻貴も内心で胸を撫で下ろす。


「相沢さんの家に確認されたりとかは」

「大丈夫だと思うよ? というかお父さん、沙子の家の連絡先知らないだろうし。それに……もしもの時のためにも、ちゃんと沙子にも頼んであるから」


 何やら、入念に打ち合わせをしてあるらしい。もしかすると、沙子だけでなく沙子の親まで動いてくれているのだろうか。王子ファミリーを巻き込む形になっているなら、もはや申し訳ないというレベルではない。後日、ちゃんと菓子折りでも持って謝罪に行くべきか。いや、それはそれで、何の言い訳でそんなことをするのか説明が難しくなってしまう。

 月曜日、沙子から何を言われるかわかったものではなかった。いきなり尾に拳が飛んできて、そこから膝蹴りまでがコンボで繋がる可能性さえある。五体満足でテストを受けられるのだろうか。


「……私、悪い子だなぁ。嘘吐いて外泊するなんて、初めて」


 汐織はテーブルの上のスマホをぼんやりと眺めながら、力なく笑ってぽそりと呟いた。

 その言葉にはどこか自嘲的な響きがあった。普段なら口にしないようなセリフを、疲れと緊張でぽろりと零してしまったのだろう。麻貴は言った。


「いや、今日のはそういうンじゃねーだろ。電車動いてたら普通に帰れたわけで」

「それは、そうなんだけど」


 汐織は眉を八の字にして、肩を竦めた。

 実際、彼女が悪いわけではない。むしろ、どちらが悪いかと言われたら、勉強に付き合わせている麻貴のほうだ。いつも通り夕飯だけで帰っていれば、彼女は親に嘘を吐く必要もなかったのだから。いや、天気予報がここまで荒れると言っていたのだし、もっと早い段階で切り上げさせるべきだった。

 そこで、ふと引っ掛かる。


(悪い子、か)


 普通、高校二年生なら一度くらい、親に嘘を吐いて遊びに行ったり、外泊したりすることはあるだろう。それを「初めて」と言う汐織は、これまで親にすら逆らったことがない、ということになる。『いい子』でいることを、ずっと自分に課してきたのだ。

 そしてそれは、家の中で『悪い子』になれなかった、ということでもあるのかもしれない。甘えたり、わがままを言ったり、親に反抗したりという、ごく普通の高校生が通るはずの過程を、彼女は通らずに来た。若しくは、通れなかった、と言うほうが正しいのかもしれないが。

 こうして断片的にわかったことを並べてみても、やっぱり汐織の家庭の実態は掴めない。

 電話の雰囲気からして、父親はしっかりと父親らしい振る舞いをしていた。娘を過度に縛るわけでもなく、かといって心配していないわけでもない。迎えに来てと言えば普通に来てくれるような、優しそうな人だ。親子仲が悪いようには、どう聞いても感じなかった。

 では、継母との関係に問題があるのだろうかと思うが、沙子曰く、優しそうな人だという。

 優しい父親と、優しいとされる継母。それなのに、帰りたくない家。断片が増えるほど、全体像はむしろぼやけていく。麻貴の中に、解きたいのに解けないパズルが、またひとつ増えた。


(あ、そうだった。着替え、渡さなきゃな)


 沈黙がまた戻りかけて、汐織がまだ濡れた制服を着たままだったことを思い出した。スカートの裾が、乾ききらずにしっとりとしている。タオルドライはしていたものの、長い黒髪の毛先もまだ雨気を含んでいた。このままでは、本当に風邪を引いてしまいそうだ。


「着替えなんだけどさ。これ、よかったら使って」


 麻貴は着替えをぽんとソファに置いた。汐織が電話をしている間にこっそり用意しておいたものだ。

 選んだのは、あまり着ていなかった無地のTシャツと、ハーフパンツ。もちろんどちらも洗い立てで、無難なものを選んだつもりだ。Cannibal CorpseのバンドTとか、ラウパのTシャツを出してしまえば、この空気では致命傷になりかねない。

 華奢な彼女からすればきっとぶかぶかになるだろうが、濡れた制服のまま一晩過ごすよりはマシだろう。


「ありがとう。あっ、でも……」


 汐織は受け取ったものの、きょろきょろと部屋を見渡した。

 そうだった。よくよく考えれば、この部屋には仕切りがなく、隠れて着替えられるスペースがない。ワンルームの難しいところだ。


「き、気が利かなかった! じゃあ俺、ちょっと外出るから、その間に──」

「それだと、麻貴くんが濡れちゃうってば!」


 部屋を出ていこうとする麻貴を、汐織が慌てて引き留めた。

 そりゃそうだ。外はまだ豪雨の真っ最中。というか、着替え直したばかりなのに、また濡れたら本末転倒だった。普段ならもう少しマシな判断ができたはずなのに、今日の麻貴の思考回路は、完全に平常運転を外れている。

 そして汐織は、おずおずと、どこか恥ずかしそうに付け足した。


「その……少しの間、後ろ向いててくれたら……」


 顔を赤くして、ちらりと上目遣いにこちらを窺ってくる。


「──ッ!? わ、わかった」


 麻貴はぎこちなく頷き、すぐさま後ろを向いた。壁のほうを向いて、腕を組む。

 いや、腕を組むのも変か。両手を膝に置いた。それも不自然な気がしてきて、結局、どうにも落ち着かないままただじっとしていた。

 すると──背中越しに、服を脱ぐ音が聞こえてきた。

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