第28話 泊めてもらえたりとか、しますか?
無言のままアパートに到着し、ふたりで部屋に入る。
ドアを閉めた途端、外の音が一気に遠くなった。代わりに、部屋の静けさが妙に大きく感じられる。
「とりあえず、適当に座ってて」
「うん……ありがとう」
これまでの親しみが嘘のように、どこか他人行儀な会話だった。何度も訪れているはずの部屋なのに、今回に限って汐織の動きはどこか硬い。初めてここに入った時以上に緊張しているように見えた。
気まずさを打ち消すために、麻貴はテレビをつけた。
流れてきたのは、お笑い芸人が大袈裟にリアクションを取っているバラエティ番組。スタジオの笑い声と、芸人の陽気な掛け合い。明るい音声と室内の重い空気のギャップが、なかなかに凄かった。
むしろ余計に気まずくなった気もするが、無音よりはマシだろう。
「あの、タオル借りていい?」
「あ、ああ。もちろん。どうぞ」
洗面所に置いてあった洗いたてのタオルを一枚、汐織に渡した。
あの大掃除以来、洗濯のリズムだけは何とか保っていた。部屋の状態と同じく、汐織から『洗濯物もあまり溜めないように』と言われているお陰だ。
汐織は「ありがとう」と頭を下げて、コンビニの袋を持ったままトイレへ向かった。
ドアが閉まり、麻貴は大きく溜め息を吐いた。
なんだ、この緊張具合と空気の重さは。さっきまで楽しく一緒に勉強していたとは思えない。
(とりあえず……着替えよ)
びしょ濡れの制服を脱いで壁にかけ、今のうちにと部屋着に着替える。
どうしてか、部屋着の中でも何となく外行きに近いものを選んでしまった。
(落ち着け。頼むから落ち着けよ俺。汐織がこの部屋に来るの、何回目だと思ってるんだよ)
そう。彼女がここに来るようになって、もう二週間近い。
これまでこんな風に緊張しなかったのに、今日ばっかりは全然落ち着いてくれなかった。
しばらくして、汐織がトイレから戻ってきた。
髪をタオルで丁寧に押さえていて、足元は新しい靴下に履き替えている。びしょびしょだったから替えたのだろう。別に、特におかしな行動ではない。それなのに、麻貴の視線は彼女の足元に一瞬だけ吸い寄せられて、慌てて逸らした。
使ったタオルは、彼女の手で綺麗に畳まれている。
濡れた制服のスカートを、汐織は手のひらでぱたぱたと押さえていた。完全に乾くにはまだ時間がかかりそうだ。
「えーっと……親御さんに、お迎え頼むとかは」
とりあえず訊いてみた。これが普通の高校生の家庭の対応だろう。
「さすがに、男の子の部屋まで迎えに来てとは言えないよ」
汐織は気まずそうに笑った。
確かに、そう言われればそうだ。同級生の男子の部屋──しかも独り暮らしの──まで親に迎えに来てもらうというのは、なかなか想定しがたい。
だが、麻貴の中では別の引っかかりもあった。
(そういうことは気にする親なのか……)
曰く放任主義の親で、何時に帰っても気にしない家とのことだったが……さすがに男子が関わっているともなれば、話が変わってくるのだろうか。それとも、ただ単に迎えに来てもらうのが恥ずかしいだけ、とか? このちぐはぐさが、また引っかかる。
汐織はそのまま、スマホを取り出してぽちぽちと操作し始めた。LIMEで誰かにメッセージを送っているらしい。
麻貴は邪魔をしないように、自分のスマホで運行情報を確認してみた。SNSも開いてみたが、榎ノ電の沿線の倒木はかなりの規模のようだ。復旧作業は明朝以降になるとの情報が流れていた。少なくとも今日中の運転再開は、絶望的だろう。
(やっぱ、無理か……)
スマホを置いた。
頭の中で、ひとつの言葉が浮かぶ。
(泊まってく? って……俺から言うのはまずいよなぁ)
何度も喉まで出かかった言葉。でも、これを麻貴から言うのは確実にまずい。下心があると思われてしまうに違いなかった。これまで築いた信頼関係を壊しかねない提案だ。
というか、実際に下心が完全にゼロかと言われると、自分でも自信がなかった。あのコンビニの棚を見てしまった今となっては、尚更である。実際に泊まるとなったら、否応なしにもそういう展開を期待してしまうのもまた男子なのだ。
ただ、放っておいたところでこの状況は変わらない。ただ無言の時間だけが流れていった。
室内には、相変わらずテレビの陽気な音だけが響いている。スタジオの観客が、何かの拍子にどっと笑っていた。その笑い声が今の空気にあまりにそぐわなくて、なんだか可笑しくなってしまう。そもそも、何でこんなに気まずくなっているんだっけ? その原因も、わからなかった。
どれくらい無言の時間が続いただろう。たぶん、数分。でも体感では十分くらいに感じた。
そこで、汐織が意を決したように顔を上げた。
「あ、あの……」
彼女の声は、少し震えていた。さっき雷に身を縮めていた時とは、別の震え方だ。
「今、沙子に色々、口裏合わせるの手伝ってもらってて」
「ん? 相沢さん?」
なぜいきなり沙子の名前が出てくるのかが繋がらず、麻貴は首を傾げた。
が、考えてみれば、『口裏を合わせる』という言葉と、汐織がさっきからスマホを操作していたこと。それから『男の子の部屋まで迎えに来てとは言えない』という先ほどの話を繋げると、ある可能性が浮かぶ。
親に、嘘の理由を伝えるための準備をしている、ということではないだろうか。
「麻貴くんにとっては、凄く迷惑だと思うんだけど……その……」
そこまで言って、汐織は言い淀んだ。
一度、麻貴と目が合って──すぐに逸らした。
頬が、はっきりとわかるくらいに赤い。指先がスカートの裾をぎゅっと握っていた。
覚悟を決めるための、数秒の沈黙。
そして、小さな声で、しかしはっきりと──。
「今日って……泊めてもらえたりとか、しますか?」
顔を赤くして、おそるおそる、こちらを見上げるようにして。
汐織は、そう言った。
(へ……?)
事態を呑み込めていない麻貴を他所に、テレビの中で芸人が何かを叫んで、観客がまたどっと笑っている。その笑い声だけが、やけに遠かった。対照的に、自分の心臓が脈打つ音だけが嫌になるくらい聞こえてくる。
ローテーブルの脇には、コンビニの小さなビニール袋がちょこんと置かれていた。袋口から垣間見えた中身は、下着っぽいものとシャンプートリートメント、それから歯ブラシなどのお泊りセット。
それを見て、ようやくくわかった。汐織はコンビニに寄った時点で、こうなる可能性を考えていたのだ。いや、もしかすると、駅で頷いたあの時点で、その覚悟を決めていたのかもしれない。
喉がからからに渇いて、言葉が出てこなかった。
(ま、マジですか……?)
脳内では、あらゆる思考が一斉に走り出していた。
ベッドはひとつしかない。風呂はどうする? 着替えは? 寝る時、どこに寝かせればいい? 明日の朝、顔を合わせて何を喋る? そこまで考えて、さっきの棚の0.03mmが頭をよぎった。
どれもこれも、一秒前の自分には想定外だったことばかりだ。
榎ノ電の運行中止なんて、もうどうでもいいくらい小さな問題で。
今、このアパートの一室で巻き起ころうとしているのは──豪雨や雷雨なんかよりも、ずっととんでもない事件だった。




