第27話 0.03mmの距離
「……一旦、うち帰ろっか」
意を決して口にした麻貴の言葉が、雨音に落ちる。なぜ『一旦』を強調したのか、自分でもよくわかっていなかった。
いや、嘘だ。何となくはわかる。これは緊急避難ですよ、仕方ないんですよ、と汐織にも自分にも言い聞かせるためだ。それ以上の意味はない。確実に雨と風と雷を凌げる場所に戻る、ただそれだけ。そう思っていなければ、この提案は自分でも下心の塊にしか聞こえない。
もちろん最悪のケース──電車が復旧せず、本当に泊まる流れになる可能性──も、頭の片隅には浮かんではいた。浮かんでいるからこそ、汐織がどう答えるのかが怖かった。
無人駅のホームの下、屋根を叩く雨音だけが激しい。海のほうでは、水平線の上を稲妻が幾度も走っていた。雲の中で光っているせいで、空全体が断続的に白む。雷鳴は遠くなったり近くなったりしながら、絶え間なく響いていた。
汐織は俯いたまま、何も言わなかった。長い黒髪が雨に濡れて頬に貼り付いていて。鞄を胸の前に抱え、その指先がほんの少しだけ迷ったように動いていた。
麻貴の心臓が、雨音と競うように打つ。長い数秒だった。すると──。
「……うん」
小さな声で、汐織が頷いた。
雨音にかき消されてしまいそうなほど、か細い声だった。俯いたままだから、どういった表情をしているのかまでは、見て取れない。
とりあえず、受け入れられた。安堵すべきはずなのに、麻貴の鼓動は却って速くなる。
「じゃあ、一旦帰るか。一旦な」
また『一旦』を繰り返してしまった。しかも二回。まるで、自分自身に唱える言い訳の呪文みたいだ。意味があるのかないのかわからないこの言葉だけが、麻貴の理性をかろうじて繋ぎ止めてくれていた。
無人改札を出ようとした、その時だった。
「あっ……」
汐織が小さく声を上げた。
「ん? どうした?」
「その……ちょっと、コンビニ寄りたいかも」
視線を逸らして、ぽそりと言う。頬がほんのり赤くなっていた。それは寒さからなのか、別の何かなのか、もはや判別がつかない。
飲み物でも買うのだろうか。雨に濡れたから、温かいものが欲しいだけかもしれない。麻貴は深く考えずに頷いた。
「了解。すぐそこにあるからな」
駅前から少し歩いた場所のコンビニへ、ふたりで向かう。相変わらずの相合傘だが、駅へ来る道中に比べると、麻貴は少しだけ歩調を緩めていた。
早く屋根の下に駆け込むよりも、汐織の歩幅に合わせるほうが大事だと、なんとなくそう思えたからだ。
コンビニの自動ドアをくぐると、明るい蛍光灯と乾いた空気がふたりを包む。雨と雷から切り離された別世界のようだ。BGMの軽快なジングルが、外の豪雨を一瞬だけ忘れさせてくれる。
店内に客はいなかった。レジに店員がひとりいるだけで、奥の棚にも人影はない。
「えっと。私、ちょっとあっち見てくるね」
「お、おう」
汐織は鞄を胸に抱えたまま、雑誌コーナーの裏の棚へと向かった。
麻貴はとりあえず飲み物の棚の前で足を止める。何を買うつもりかは知らないが、じろじろ見るのも野暮だ。そう思っているのに、視界の端でなんとなく彼女の動きを追ってしまう自分が憎い。
麻貴の予想に反して、彼女は飲み物コーナーには向かわなかった。日用品の棚の前で身を屈め、迷うように何かをいくつか手に取って……ぴゅーっと早足でレジへ向かった。
動きが、おかしい。明らかに、何かを恥ずかしがっているように見えた。
(なんだ……?)
好奇心と嫌な予感が同時に湧いて、そっと汐織が立っていた棚の横を通り過ぎる。
棚に並んでいたのは──下着、靴下、歯磨きセット、簡易の洗顔、お出かけシャンプーセット。
いわゆる『女性のお泊りグッズ』コーナーだった。
(えっ!?)
止まりかけた足を慌てて動かして、棚から離れた。
なんでもない顔を作ってはいるものの、心臓がバクバクとうるさい。レジでバーコードを通されている汐織の背中を、こっそり盗み見た。
相変わらず、華奢で守りたくなる背中。長い黒髪が雨に濡れたまま、重く垂れていた。
(ま、マジっすか……?)
つまりこれは──と考えかけて、いやいや待て、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
最悪のケースを見据えれば、確かに買っておかないとダメなものではあった。ただ、それは同時に『今夜うちに泊まる可能性を彼女自身が想定している』ということでもある。そうでなければ、こんなものをこのタイミングで買う理由がないからだ。
ただ、もしかしたら今びしょ濡れで気持ち悪いから、靴下だけ替えたいとか、その程度の話かもしれない。実際、麻貴自身も靴下も服も雨でぐちゃぐちゃだ。気持ち悪いから着替えたいというのも、普通の感覚だろう。
(か、考えないように……考えないように)
そう言い聞かせて、お菓子のコーナーに向かおうとした、その時。
視界の端に、長方形の小さな箱が入った。表に大きく『0.03mm』の数字。普段はあまり意識せずに通り過ぎるそれが、今日はやけに存在を主張していた。
(──ッ!?)
思わず二度見する。二度見して、即座に目を逸らした。
心臓が跳ねるどころの騒ぎではない。
(ば、バカかっての! 何を考えてんだよ、俺は!! 今買えるわけねーし買うわきゃねーだろッ)
自分にツッコミを入れて、ほぼ逃げるようにお菓子コーナーへ移動した。たぶん、麻貴も汐織みたいにぴゅーっと移動していたに違いない。
適当に手に取ったのは、ポテトチップスとチョコレートと、つまみになりそうなナッツの小袋。何を選んだかも、半分くらい記憶になかった。
ただ、頭の片隅で、ふと考えてしまう。
高校生男児というのは、こういう時のためにああいうものを常備しておくべきものなのだろうか。世の中の同世代の男子は、引き出しの奥にひっそりとしまっていたりするのだろうか、と。
そこまで考えて、はっと我に返った。
あの大掃除の日、汐織が部屋を隅から隅まで掃除してくれた。もしあの時、あんなものが引き出しの奥から出てきていたら。汐織がそれを見つけてしまっていたら。
想像しただけで、背筋に冷たいものが走った。
首をぶんぶんと振って妄想を払う。常備していなくて本当によかった。
(あ、危な過ぎる……てか、こんな非常事態に何考えてんだ)
もはや自分でも、何を考えているのかわからなかった。
気を取り直して、麻貴もレジで精算を済ませる。隣のレジに汐織はもういなくて、入り口付近で待ってくれていた。
提げているのは、小さなビニール袋。中身は見えないが、どう見てもさっきのコーナー由来のものだ。
合流すると、汐織がこちらを見上げた。
「何買ったの?」
「あー……なんかつまめそうなお菓子」
袋の中を見せて、なるべく自然な声を出した。出したつもりだったが、自分でもわかるくらい少しだけ上ずっている。
そっちは何を買ったの、と聞き返したかったが、聞けるわけがない。聞けばこの空気がさらに気まずくなるのは明らかだ。
汐織のほうも、何も言わなかった。ビニール袋を鞄の中に押し込んで、隠すように抱え直していた。
コンビニを出て、再び豪雨の中へ。
ふたりで一本の傘に入って、坂道を上がる。さっきまでとは違って、汐織は袖を摘まんでこなかった。
距離は変わらず同じくらい近いはずなのに、その「掴まれていない」という事実だけで、空気がまるで違う。お互いに、変に意識し合っているのが丸わかりだ。
雷はまだ鳴り続けていたが、汐織の反応は前ほどではなかった。怖さよりも、別の緊張のほうが勝っているのかもしれない。
坂道を上がる足音と、雨が傘を叩く音だけがふたりを包んでいた。
途中で麻貴は何か言おうとして、結局口を閉じる。何を言っても気まずくなる、詰みの状態だった。




