第26話 運行中止
食後はふたりでいつもの分担で食器を洗って、勉強会。
汐織のお陰もあって、理系科目はもう問題なさそうだ。暗記科目もひとりで自習を重ねていたので、今日はお互いに問題を出し合う形にした。
汐織は英単語帳を見ながら、早速問題を出してきた。
「じゃあ、英単語からいくね? distinguishの意味は?」
「えーっと……区別する?」
「正解。じゃあ次、be accustomed toは?」
「慣れている、だろ」
「わあ、ちゃんと覚えてる。凄いね」
汐織が嬉しそうに頷く。教えた側が喜んでくれるのは、何度見ても不思議だった。
さて、今度はこちらの番だ。世界史の問題集を取り出し、反撃に出る。
「じゃあ、こっちは世界史な。アヘン戦争が起きた年は?」
「1840年だったかな」
「はっや。即答かよ」
「合ってた? 年号覚えるの苦手だから、ちょっと自信なかったんだけど」
少し照れたように、汐織がはにかんだ。
自信がないのに即答できる理由がよくわからなかったが、彼女ほど優等生だとそういうことも起こり得るのだろう。もう少し見習ったほうがよさそうだ。
そうしてお互いに問題を出し合いながら、時間が過ぎていく。こうやって一問一答を繰り返していると、勉強というより遊びに近くて、お互い楽しみながらやれていた。
クイズ形式だと汐織の緊張も紛れたのか、さっきより表情が柔らかい。汐織が出してきた問題に対して、麻樹が「楽勝だろ」と大仰にどや顔をしてやって、空気を軽くするのに一役買っているだろう。
ただ……その間も、天気は確実に悪化していた。
カーテンの向こうで雨の音がさらに強まっていく。風がアパートの壁を叩く音が混じり、古い建物がかすかに軋んだ。スピーカーの音量を上げても、もう誤魔化しきれない。
八時半を過ぎた頃には、雨がもはや豪雨と呼べるレベルになっていた。風も唸りを上げていて、窓ガラスを叩く音が途切れない。
そして──ぴかっ、とカーテン越しでもはっきりわかる閃光が走った直後。
ドォン……!
腹の底に響くような雷が鳴った。近い。さっきまでの遠雷とは比べものにならなかった。部屋全体がびりびりと震えた気がする。
汐織の身体も、びくっと大きく跳ねていた。手に持っていたシャーペンが、ことん、とテーブルに落ちる。
彼女の顔から、血の気が引いていた。唇をきゅっと結んで、両手でスカートの裾を掴んでいる。指先が白くなるくらい、布を握りしめていた。
「汐織」
名前を呼ぶと、彼女がはっとしたように顔を上げた。
「あっ……ご、ごめん。大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
いつもの「大丈夫」だった。取り繕おうとしているが、今日は全然隠せていない。目元が強張ったままで、口角だけが無理に上がっていた。
何だか、この奇妙な生活の初日を思い出してしまった。あの日も近くの坂道で蹲りつつ、彼女はこんな感じで「大丈夫」と言っていた気がする。
ふと、時計を見た。八時四十分。いつもなら九時まではいるが──。
「……今日はもう終わりにしよっか」
「え?」
「この天気だと電車が止まるかもしれないしな。動いてるうちに帰ったほうが安全だろ」
本音を言えば、こんな天気の中で帰したくはなかった。雷が苦手なら、尚更だ。
しかし、このまま様子を見ているうちに電車が止まってしまったら、それこそ困るのは汐織だ。親に連絡しなければならなくなるだろうし、迎えに来てもらうにしても、まさか独り暮らしの男子の部屋まで親を来させるわけにもいかない。──いや、その放任主義の家なら、もしかしたら迎えに来てくれさえしないのかもしれないけれど。
その考えが頭を過ぎった瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
「……うん。そう、だよね」
汐織はゆっくりと躊躇いながら、頷いた。渋々という様子が隠せていなかった。雷が苦手のに雷雨の中外に出なければならないのは、結構つらいものがあるだろう。教科書とノートを鞄にしまう手が、いつもより遅かった。
帰り支度を終えて、汐織は玄関で靴を履いた。ドアの向こうから、凄まじい雨音が聞こえている。
汐織は困ったように笑って言った。
「雨凄いし、今日は送らなくても大丈夫だよ。駅までならすぐだし」
「この天気でひとりで行かせるわけないだろ」
「でも──」
「いいから。濡れたって着替えれば済む話だし」
麻貴は殆ど遮らん勢いで答えた。もはや議論の余地はない。
「じゃあ……お願いします」
汐織も反論を諦めたのか、或いは本音では来てほしかったのかはわからないが、結局承諾してくれた。
ドアを開けた瞬間、雨の音が壁のように押し寄せてくる。横殴りの雨で、階段の手すりが叩かれている。傘を開くと、ばらばらと打ちつける雨粒が頭上で激しく弾けた。
アパートの階段を降りて、坂道へ。路面が川のようになっていて、靴が一歩目から濡れた。
(レインシューズとか買っといた方がよかったな)
そんなことを考えながら傘を差して先に歩き始めると、汐織が少し遅れてついてくる。彼女が持っているのは、小さな折りたたみ傘だ。風が強くて安定せず、華奢な腕で必死に柄を握っていた。
数歩進んだところで──再度、閃光が走った。
カーテン越しではない、剥き出しの雷光。空が一瞬、昼間のように白くなった。
汐織が足を止めた。
「ッ……」
声にならない声を小さく漏らし、立ち止まる。
傘の柄をぎゅっと握りしめていて、その手は小刻みに震えていた。
「ほら」
麻貴は立ち止まって振り返ると、自分の傘を差し出した。
「俺が傘持つから。そしたら、万が一落ちてきても黒焦げになるのは俺だけで済むだろ?」
汐織は一瞬きょとんとして──それから、少しだけ可笑しそうに笑った。雨に濡れた顔に、その長い髪がぺたりと貼り付いていた。
「……でも、結局それだと私も一緒に感電しちゃわない?」
「確かに。てか、周りに電柱とか木とか高いもんたくさんあるから平気だって」
汐織はまだ不安そうだったが、麻貴が傘を広げて待っているのを見て、折りたたみ傘をたたんだ。鞄にしまって、麻貴の傘の下に入る。
「ありがとう」
小さく、囁くように。雨音にかき消されそうな声だった。
麻貴は聞こえないふりをして、歩き出した。
学校一の美少女との相合傘。本来ならば心躍るシチュエーションなのに、この豪雨のせいで風情の欠片もない。髪は額に張り付いているし、靴の中はもはやぐちゃぐちゃ。風で傘が煽られるたびに体勢を立て直さなければならなかった。
普通の傘ひとつにふたりで入っているので、当然収まりが悪い。麻貴は汐織が濡れないように傘を彼女のほうに傾けているから、自分の左半身はびしょ濡れだった。もはや傘の意味を成していない。
肩が触れ合う距離。普段なら心臓が暴れるところだが、今はそれどころではなかった。雨と風と雷の中、とにかく駅に辿り着くことだけを考える。
汐織は麻貴の腕に少しだけ身を寄せていた。怖いからなのか、傘に入るためなのか。たぶん、両方だろう。たまに触れる体温がほんのり温かくて、それだけが豪雨の中の救いだった。
途中、また閃光と雷鳴。光ってから音が鳴るまで、三秒もない。
汐織がびくっと身を縮めた。反射的に、麻貴の袖を掴む。
「あっ……ご、ごめん」
掴んだことに気づいて、慌てて手を離そうとする。
「いいから。掴んでていいよ」
麻貴は振り返らずにぶっきらぼうに言った。振り返ったら、顔に出てしまいそうだったから。
汐織は小さく頷いた。
結局、袖はちょこんと摘まれたままだった。
雨に打たれながら、ふたりで坂を下りていく。びしょ濡れで、風に煽られて、雷に怯えながら。それなのに──袖を掴む小さな手の力だけが、やけにはっきりと伝わってくる。豪雨からも、雷からも守ってやれるわけではないのだけれど、どうしてか彼女を守らねばという強い使命感に襲われた。
そんなこんなで、何とか駅に辿り着いた。
羽瀬ヶ崎駅の小さな屋根の下に入ると、雨音がほんの少しだけ和らぐ。ただ、殆どスクラップ寸前の駅。横殴りの雨には弱く、雨宿りの場としては心許ない。
実際、もうあまり屋根は意味を成さないほど、ふたりとも濡れていた。麻貴の左半身はほぼずぶ濡れで、シャツが肌に張り付いている。汐織も足元や鞄が濡れていて、黒髪の毛先から雫が落ちていた。
息を整えながら、麻貴が電光掲示板に目をやった。
表示が、赤い。
「えっ? 嘘だろ?」
「運行中止……?」
汐織も気づいて、声を漏らす。
電光掲示板に表示されていたのは、『落雷による倒木のため、運転見合わせ。復旧見込み未定』の文字だった。
榎ノ電が、完全に止まっていた。
「おおう。マジか」
「えっと……困ったね」
顔を見合わせ、苦笑いを交わす。見合わせたままなのに、お互いの視線は少しだけずれていた。
雨は一向に弱まる気配がない。駅のホームには誰もいなかった。
汐織はスマホの画面を見つめていた。運行情報を確認しているのか、家に連絡すべきかどうかを迷っているのか。
雷がまた鳴った。ごろごろ、と低く長い音が夜の空を這っていく。汐織の肩が小さく震えた。
麻貴は口を開きかけて、閉じた。
そして意を決してから……もう一度、開く。
「……一旦、うち帰ろっか」




