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第25話 豪雨と稲光

 金曜日の天気は、すこぶる悪かった。朝から降り続いていた雨が午後に入ってさらに勢いを増していき、いつもは綺麗な海も淀んで荒れ狂っていた。

 六月も終わりに差し掛かると、梅雨は本番を迎える。教室の窓を叩く雨粒の音が授業中もずっと鳴り止まなくて、六限目の英語は半分くらい雨音に食われていた。天気予報は『夜にかけて大荒れ』を告げている。

 期末テストは週明けの月曜日からだ。この一週間みっちり勉強した甲斐あって、全体的にかなり仕上がってきている。数学も化学基礎も、もう問題を見れば手が動くレベルになった。少し前に二次関数の平行移動で躓いていた自分が嘘のようだ。全ては汐織のおかげだった。

 放課後、いつも通り麻貴と汐織はまっすぐスーパーに寄った。雨が本降りになる前に食材を買い込んでしまおうという判断だ。ふたりでそれぞれ傘を差しながら坂道を上り、アパートに辿り着いた頃には既に雨脚はかなり強くなっていた。

 靴を脱いで部屋に入る。窓の外では雨が叩きつけるように降っていて、いつもなら聞こえる海の音がかき消されていた。

 金曜ということもあり、明日は休みだ。少しだけ気持ちに余裕がある。とはいえ、テスト前最後の勉強会。今日も夕飯を食べてから、いつものルーティンだ。

 汐織はいつも通りエプロンをつけて台所に立っていた。

 今日のメニューは、鶏もも肉の照り焼き、かきたま汁、ほうれん草のごま和え、白いご飯。テスト前最後ということもあってか、スタミナ重視の献立だ。

 麻貴は米を研いで炊飯器にセットした。水加減も、もう目分量でわかる。

 汐織が鶏もも肉に塩を振って下味をつけ、皮目を下にしてフライパンに置いた。じゅう、と脂が弾けて、香ばしい匂いが台所に広がっていく。汐織はそれを菜箸で軽く押さえつけながら、小さく鼻歌を口ずさんでいた。

 その時だった。窓の外が、一瞬白く光った。

 遠い稲光だ。音はまだ聞こえない。


(おー、光ったな)


 何気なくそう思った、その刹那。汐織の手が、止まった。

 菜箸を持ったまま、びくっと肩を震わせて窓のほうを見ている。

 それはほんの一瞬で、すぐに何事もなかったように菜箸を動かし直していた。でも、さっきまで自然に口ずさんでいた鼻歌は、もうなかった。

 数分後、また稲光。音はなかったのだが、汐織はまた一瞬だけ動きを止め、窓のほうをちらりと見た。それから、気を取り直すようにフライパンに向き直る。

 さっきまで普通だったのに、稲光が見え始めてから、どこか動きや表情がどこか固くなっている。

 麻貴は何も訊かず、代わりにさりげなく窓のカーテンをしっかり目に閉めてやった。リビングの大きな窓のほうも、端まできっちり引く。それから台所の小窓のブラインドも下ろした。


「あっ……」


 汐織が小さく声を漏らした。

 麻貴の行動の意図に、気づいたのだろう。汐織はこちらを振り返り、眉を八の字にして、困ったように笑った。それからまたフライパンに向き直り、調理に打ち込む。ただ、ほんの少しだけ肩の力を抜けていて、その横顔も柔らかくなっていた。

 鼻歌は戻らなかったけれど、菜箸の動きは安定していた。

 料理が完成して、ローテーブルに皿が並ぶ。照り焼きの甘辛い匂いと、かきたま汁の出汁の香りが部屋に満ちていた。炊きたてのご飯から湯気がゆるく立ち上っている。


「「いただきます」」


 ふたりの声が揃った。何度繰り返しても、この瞬間だけはほんの少し特別だ。

 照り焼きにかぶりつく。皮のぱりっとした食感の後に、鶏肉の旨味とたれの甘辛さが口いっぱいに広がった。白いご飯との相性が完璧で、箸が止まらない。


「いやぁ。まーじで美味い。皮がぱりぱりなのがいい。なんかコツとかあんの?」

「フライパンに押し付けるようにして焼くと、ぱりってなるよ」

「へぇ。今度やってみようかな」


 照り焼きを口に放り込みながら、何となしに言った。

 本気で思ってはいないけれど、できたらやってみたいなという気持ち程度の発言。

 汐織はどこか呆れたように言った。


「麻貴くんがやったら、押し付けすぎて潰しちゃいそう」

「……汐織が俺をどれだけ信用してないかは、よくわかったよ」

「えー? そんなことないよ?」

「嘘吐けッ」


 そんな軽口を交わしながら、食事が進む。

 かきたま汁を一口すすると、出汁の旨味が身体に染み渡った。卵がふわふわで、雨の日の冷えた身体をじんわり温めてくれる。

 汐織も自分の分を食べていた。ただ、いつもよりほんの少しだけペースが遅い。箸を動かしている間にも、ちらちらとカーテンのほうに目をやっていた。

 外では雨の音が一段と強くなっている。風も出てきたのか、窓ガラスが時折びりびりと振動した。

 台風は来ていなかったはずなのだけれど、海沿いは天気の影響を受けやすい。海風が強さを増すと、すぐに嵐っぽくなってしまうのだ。

 カーテン越しに、また白い光がちらりと透けた。数秒後、ごろごろ、という低い音が遠くから聞こえてきた。まだ遠いが、確実に近づいている。

 そこで、汐織の箸がまた止まった。


「雷、苦手なん?」


 さすがに無視し続けるのもどうかと思い、麻貴はさらりと訊いた。茶化すでもなく、心配しすぎるのでもなく、ただ確認するように軽く。


「……うん。昔、ちょっと嫌なことがあって」


 汐織は俯き加減に、小さく頷いた。その理由には触れないようだ。ならば、こちらも深追いしないほうがいいだろう。


「雷に打たれたとか?」

「それだと、今こうしていられないよ」


 麻貴の冗談に、汐織がぷっと吹き出した。固まっていた表情が、ほんの少しだけ解ける。


「まあ、カーテン閉めてあるし、音も気になるなら音楽の音量上げとくよ。何ならテレビにしてもいいし」


 音楽を切って、テレビのバラエティー番組を流した。芸人たちのつまらないギャグが、雨音と雷鳴をほんの少しだけ和らげてくれる。完全にはかき消せないが、ないよりはよかった。

 汐織が「ありがとう」と小さく呟いた。その声は、いつもの取り繕ったものではなかった。

 そんな汐織を横目で見つつ、ふと思う。


(ん~……今日はあんま遅くまで勉強に付き合わせるのはよくないかもな)


 榎ノ電は単線部分もあるローカル線だ。上下線のどこかに問題が生じれば、運行中止になる可能性もあった。

 万が一のことも考え、早めに切り上げた方がいいだろう。


(まあ、でも大丈夫だよな。さすがに雨程度で止まったことはないし)


 この時の麻貴は、楽観的にそう考えていた。

 まさかあんな事態が起きるとは、露とも知らずに。

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