第24話 ちょっとだけ垣間見えた汐織の事情
汐織が男子とここまで親しくなってるのを、初めて見た──そんな〝王子〟からの予想外の褒め言葉に、思わず口元が緩みそうになる。
嬉しさを誤魔化すように、麻貴は話題を変えた。
「なあ、相沢さん。ちょっとだけ、訊いていいか?」
「なに? 汐織のこと?」
即座に見抜かれた。さすがの察しの良さだ。
「まあ……」
「汐織の元カレ遍歴とか?」
いきなり出てきた衝撃的な言葉に、思わず口の中のご飯を噴き出しそうになって、激しく咳き込んだ。生姜焼きが気管に入りかけた。
それは確かにめちゃくちゃ気になることだが、今訊きたいのはそれではない。
「あははっ。焦ってる焦ってる」
沙子は可笑しそうに笑っていた。絶対わざと言っただろ、こいつ。
「大丈夫。さっきも言ったけど、あたしの知る限り、彼氏どころか仲の良かった男子もいたことないよ。モテてたっていうのもあっただろうけど、基本、男子とは少し距離を置いてたしね」
その言葉に、安堵と嬉しさが同時に来たが、顔には出さない。出さないようにする。沙子のにやついた顔が気になるが、ここは完全に無視だ。
「そ、それは置いといて」
このままいくと一生玩具にされ兼ねない。一旦、仕切り直した。
「相沢さんは、いつから汐織と仲良いの?」
「んー。中三の時かな? 委員会が同じでね」
「へぇ。じゃあ、結構長いんだな」
「そうなるかな。三年くらいの付き合いだし」
三年。それだけの時間を共有していれば、家庭のことだってある程度は見えているのではないだろうか。
数日前から引っかかっていたことが、喉元までせり上がってくる。
数秒、迷った。これを沙子に訊くのはルール違反に当たるのではないか、と。でも、沙子とふたりきりになるチャンスなんて、そうそうない。ここで訊かなければ、いつ訊けるのかもわからなかった。勇気を出して、問を口にしてみる。
「じゃあ……汐織の家庭事情とかも、結構知ってたりする?」
「家庭事情って?」
沙子の表情が、わずかに変わった。目が細くなり、こちらを見る視線に警戒の色が混じる。声は平坦だが、一拍の間があった。軽い話題ではないと、彼女もわかっているのだろう。
「いや。あいつさ、ほぼ毎日うち来てるし、今週は勉強会もあって家帰るのが結構遅くなってるだろ? 大丈夫なのかなってちょっと心配してるところもあって」
麻貴は慌てて不自然でない理由を並べた。詮索だとは思われたくなかった。実際、好奇心で知りたいではなく、心配しているというのも事実だ。
ただ、ぼかしすぎるのも誠実ではない気がした。これまでのやり取りからして、沙子が鋭いのは何となくわかっている。中途半端な訊き方をすれば、かえって信用を失うかもしれない。
そこで、ひとつ核心に寄せてみた。
「もともとは、うちの近くで体調崩してるところを見てからの付き合いだからさ。なあ、同じ中学ならわかるだろ? あいつ、藤澤に住んでるのに、羽瀬ヶ崎にいたんだぜ?」
そう。帰り道とは、逆方向なのである。同じ中学に通っていた沙子ならば、その意味がわかるだろう。
これを問うてみた時の沙子の反応を見てから、引くか続けるか決めるつもりだった。彼女がこの問いを詮索と受け取るなら、そこで引くべきだ。心配と受け取るなら、もう少し踏み込んでみる。
沙子は数秒、黙っていた。
弁当の箸を止めて、麻貴をじっと見ている。何かを量っているような間だった。
「箕島くんは、どの程度知ってるの?」
沙子は訊いた。そこにある問いは、拒絶ではない 。条件付きで、扉を開けようとしているのだ。
麻貴は自分が知っていることを率直に話した。
家族が結構放任主義であるらしいこと。何時に帰っても親はあまり気にしていない様子であること。それを汐織が笑いながら言っていたこと。ただ、その笑い方が受け入れているのではなく、受け入れるしかないと決めたような、諦めたような笑い方だったこと。
知っていることは、それだけだった。
「そっか」
沙子が小さく息を吐いた。弁当箱の蓋を見つめたまま、少し考え込んでいる。
「正直に言うと……あたしも、家の事情のことは深くは知らないんだ。汐織もあんまり話さないしね」
意外なことに、沙子ですらも深くは知らないようだ。三年の付き合いがあっても、汐織はそこに踏み込ませなかったのだろう。
沙子は「ただ」と、言葉を紡いだ。
「高校に入ってからかな。親が再婚したっていう話は聞いたよ」
「再婚?」
初めて出てきた単語に、麻貴の箸が止まった。
「うん。昔にお母さんを亡くして、ずっと父子家庭だったんだけどね。そのお父さんが去年、再婚したんだって。あの子が作り笑いをすることが多くなったのって、それくらいからの時期じゃないかな」
沙子はそこで一度言葉を切り、窓の外に目をやった。校庭の向こうに海が見えている。
(作り笑い、か)
その言葉で、いくつもの場面が頭を過った。坂道の「大丈夫」も、部屋での「迷惑じゃない?」も、ああいった時に浮かべていた時の笑みは全て、作り笑いだったのかもしれない
あの取り繕った笑顔の起点が、父親の再婚にあったとしたら。
そしてもうひとつ、繋がったことがある。以前汐織が、うちに夕飯を作りに来れなくて、声を小さくして言った『お母さんが、今日は家で食べろって』という言葉。ここでいう『お母さん』とは、実母ではなく継母のことだったのだ。
「まさか、その継母から凄いいじめられてるとかっていうのは……」
最悪のケースが頭を過った。だが、沙子は首を横に振る。
「さすがにそれはないと思うけどね。前に一度ふたりを見掛けたことがあるけど、凄く優しそうな人だったし」
「……そっか。まあ、それならいいんだけど」
虐待やいじめを受けているのではない。継母は優しそうな人。
だとしたら、汐織は一体何から逃げているのだろう? 優しい人がいる家に、帰りたくないの理由とは?
答えは、未だ出ない。断片は増えたけれど、全体像は全く見えてこなかった。
(やっぱり、わからないことだらけだな)
生姜焼きの味が、一瞬遠くなった。箸を動かす手は止めなかったが、頭の中は別のところを向いていた。
沙子が弁当のおかずに箸を伸ばしながら、少し間を置いてから言った。
「汐織と箕島くんの関係についてはよくわからないけど」
一拍。窓の外に目を向けてから、麻貴のほうに視線を戻す。
「多分、汐織は箕島くんにはかなり心を開いてると思うからさ。あの子の力になってあげて。あたしも協力できることはするし」
言って、沙子は微笑んだ。優しくて、でも少し寂しそうな笑みだった。
三年そばにいた沙子が、それを麻貴に言う。その意味は、考えるまでもなかった。
「ああ。頼りにしてる」
短く、でもちゃんと目を見て答えた。
沙子はふっと笑って、小さく頷いただけだった。
空き教室の窓から、校庭のざわめきが遠くに聞こえている。ふたりの間の沈黙は、決して重くなかった。ただ静かで、少しだけあたたかい。
教室に戻らなくてよかった。こういう場だったからこそ、沙子と思わぬ話しができたに違いない。
すると、その空気を破るように、引き戸がばんと開いた。
「すまん、遅れた! 新作のパンが出たせいで購買が激混みで──あれ? 篠宮は?」
「図書委員だよ」
沙子がいつもの調子で軽く返した。
「あれ……? じゃあ、今日集まる意味なかったんじゃね?」
隼人も同じ結論に至ったらしい。
麻貴と沙子が顔を見合わせて、同時にぷっと吹き出した。さっきまでの空気が一気に弛む。隼太が「何? 何がおかしいの?」と首を傾げているのが、余計に可笑しかった。
結局、三人で昼食を食べた。
隼太が新作パンの味を熱く語り、沙子がそれを冷静にいなし、麻貴は適当に聞き流しつつ弁当の生姜焼きを噛みしめる。
いつもより静かで、いつもより広い空き教室。汐織の席だけが空いていた。
でも不思議と寂しくはなかった。沙子と交わした会話が、胸の中でじんわりと温かい。断片しか手に入らなかったけれど、何もわからなかった昨日までとは違い、少しだけ前身した。汐織の輪郭が、ほんの少しだけ見えた気がする。
ふと、弁当箱に下に目がいった。弁当箱の包みに、小さなメモ用紙が挟まっていたのだ。
『テストがんばろうね しおり』
丸っこいひらがなの字。冷蔵庫に貼ってある「にくじゃが」のメモと同じ筆跡だった。
それを見つけるや否や、さっきまでの重い考えが溶けて頬が緩んだ。
ふたりに見られる前に、さっとポケットにしまう。
(……ほんと、ずるいよな)
弁当箱の蓋を閉じながら、窓の外に目をやった。
六月の空は高くて、海の上には白い雲が流れていた。期末テストまで、もう間もなくだ。




