第23話 王子の必殺〝鳩尾砕き〟
週末を挟んで、ふたりきりの勉強会が始まってから数日が経っていた。
期末テストは、刻一刻と近づいてくる。数学の二次関数も化学基礎のmol計算も、汐織のおかげで大分わかるようになってきた。あれだけ意味不明だった場合分けのパターンが頭に入っているし、molの単位変換も手が勝手に動くようになりつつある。毎晩九時頃まで一緒に過ごし、駅まで送るのが新たなルーティンになっていた。
ただ──あの夜に感じた違和感は、消えるどころかじわじわと大きくなっている。
毎晩九時まで一緒にいても、汐織のスマホが親からの連絡で鳴ることは一度もなかった。放任主義という言葉の裏にあるものが、日を追うごとに気にかかってくる。
そして、昼休み。今日も今日とて、麻貴は別棟の空き教室に向かっていた。汐織がうちにくることと同じく、いつしか四人過ごす昼休みが当たり前になっている。本当に不思議なものだ。
ちなみに、隼太は「購買に新作パンが出たらしい」と目を輝かせて寄り道するとのことで、少し遅れるらしい。あいつはこういうしょうもないことに関してだけは異常な情熱を見せる。その情熱を少しでも勉強に向けられたなら、赤点も回避できるだろうに。
そんなことを考えながら別棟の階段を上がろうとした時──足が止まった。
踊り場に、見覚えのある背の高いシルエットが立っていたのだ。
(ん? あれは……)
沙子だった。そして、その正面には女子生徒。リボンの色的に、一年生だろう。両手で小さな紙袋を差し出している。
「あ、あの! 相沢沙子様!! こ、これ、受け取ってください!」
声が裏返るほど緊張していた。頬は真っ赤で、紙袋を持つ手が微かに震えている。
麻貴は咄嗟に壁の影に身を引いた。これは明らかに、割って入っていい空気ではない。
「あ、ああ……ええっと。ありがとう」
沙子は若干の苦笑いを浮かべつつも、紙袋を丁寧に受け取っていた。ちょっと困った顔をしているのが、壁の影からでもわかる。
「受け取ってくれて、ありがとうございます!」
推しと初めてハイタッチできた時みたいな、全身から喜びが溢れているその瞳。男性アイドルとのファンミーティングを眺めているような気分だ。
一礼してから踵を返し、立ち去りかけた後輩女子がふと不安そうに振り返る。すると沙子は小さく手を振ってみせた。
「きゃーっ!」
黄色い歓声をあげながら、後輩女子は階段を駆け下りていった。足音がだんだん遠くなって、やがて消える。
静かになった踊り場で、沙子が紙袋を片手にふう、と小さく息を吐いた。
そこへ、麻貴が壁の影からのそりと姿を現す。
「さーすが〝王子〟。かっけぇ」
拍手でもしてやりたい気分だった。断り方も送り出し方も、相手を傷つけない配慮が行き届いている。まさしく〝王子〟の異名に恥じない振る舞いだ。
「羨ましいなら、変わろうか? あたしは別に嬉しくとも何ともないんだけど」
紙袋を鞄にしまいながら、沙子が肩を竦めた。本心から面倒そうだった。
「残念ながら、俺には務まる気がしないな」
「確かに。〝王子〟なら、誰もが憧れる美少女に汚部屋の掃除はさせないか」
沙子の口角がにやりと上がる。
思わぬ反撃に、言葉が詰まった。完全に不意打ちだ。
「……やかまし。汚部屋ゆーな」
そこまでは酷くないはずだ。そこまでは。たぶん。きっと。
そのまま何となくふたり並んで、空き教室に向かっていく。
汐織抜き・隼太抜きで沙子と並ぶのは初めてだった。歩幅が大きくて、麻貴と歩調がほぼ同じだ。背が高いからだろう。変に気を遣って合わせなくていいのが、地味にありがたかった。
「ああいうの、よくあんの?」
さっきのことが気になって、軽い調子で訊いてみた。
「まあ……たまに?」
沙子は居心地悪そうに答えた。涼しげな表情の奥に、本気で困っている気配がある。
「ふぅん。なんかああいうのって女子校ではよくあるイメージだけど、共学でもあるんだな」
「女子はなんだかんだ言って女子が好きだからね。少女漫画みたいな恋に憧れてる子は、あたしみたいなのが好きなんだと思うよ」
「少女漫画みたいな恋?」
意味がわからず、麻貴は首を傾げた。
「ほら、少女漫画のヒーローって、男子なのに性欲とか感じさせないように描かれてるじゃない? 実際の男子はイケメンでもちゃんと性欲はあるしね。そういう少女漫画のヒーローとあたしを重ねてるみたい」
「あー、なるほど」
言われてみると、確かにそうだ。少女漫画のヒーローは、ヒロインをお姫様扱いしつつも、そこに生々しい欲は描かれない。沙子の佇まいは、確かにそのイメージにぴたりと当てはまっていた。
「なら、いっそ女子を性的な目で見てやればいいんじゃね? 『げへへ、お前もひん剥いてやるぞ』的な」
「それでことが収まるならいいんだけどね。案外、それはそれで冗談になってないんだよ」
沙子が額に手を当てて、大きく溜め息を吐いた。
「どういうこと?」
「あたし、汐織と仲がいいでしょ? だから、あたしと汐織がそういう仲だって勝手に妄想を膨らましてる子も結構いるってわけ」
ショートボブで凛々しい〝王子〟な沙子と、長い黒髪の清楚可憐な〝お姫様〟な汐織。このふたりが並んでいると、絵になるのは確かだ。周りが勝手に物語を付けるというのも実に〝王子〟っぽいが、本人からすれば堪ったものではないだろうり
「まさかの百合展開に発展させられるわけか」
「そういうこと」
「ん? 待てよ? ということはまさか……俺は今、百合の間に挟まる男に──ぐぼぁッ」
冗談を言っている最中に、沙子の正拳突きが麻貴の鳩尾に深く突き刺さった。
身体が〝く〟の字に折れる。呼吸が止まりかけた。軽く打ったように見えて、衝撃が内臓まで響いている。
「ぐええええ……死ぬぅ」
「あたし、こう見えて空手黒帯だからね。次しょーもないこと言ったら、この後に膝も入れるよ」
言って、膝蹴りの構えをする。スカートの裾から覗いた綺麗な膝が、今はとてつもない凶器に見えた。
「は、はい……もう言いません。勘弁してください」
昼休みに予想外のダメージを負ってしまった。
ちゃんと強いところも踏まえて、しっかりと〝王子〟だ。
鳩尾の痛みが引かないまま、空き教室に到着した。
いつもの教室に入ると、やっぱり誰もいない。窓から午後の光が差し込んで、埃っぽい空気の中に細い筋を作っていた。
いつもの席に座ると、沙子が鞄から何かを取り出した。薄い水色の布に包まれた、見覚えのある四角い箱。
「はい、これ」
いつも汐織が麻貴に渡してくれる弁当箱だった。
「あれ? 何で相沢さんが持ってんの?」
「ほら。だって今日、あの子図書委員だから」
「あー、なるほど」
そういえば、今日は汐織の図書委員当番の日だ。当番の日は図書室の控え室で昼食を取り、交代で受付をするそうだ。
そこで、ふと気付いた。
「あれ? じゃあ、今日のこの集まり、あんま意味なくない?」
「……あっ」
沙子も同じことを思い至ったらしい。一瞬きょとんとして、それから小さく吹き出した。
そもそもこの四人の昼食会は、汐織が麻貴に弁当を渡す際に不自然に見えないようにするための場だった。汐織がいないなら、集まる意味が薄い。
「でもいいんじゃない? 今更教室に戻るのも面倒でしょ。ここ静かだから、あたしも嫌いじゃないし」
「まあ、それもそうか」
納得して、弁当箱を受け取った。
いつもは正面に汐織、隣に隼太がいるのだが、今日はふたりともいない。自然と対角線上の位置に座ることになった。正面で向かい合うのは何となく気恥ずかしいし、沙子もそう感じたのか、この配置に異論はなさそうだ。
弁当箱の包みをほどいて、蓋を開ける。
二段弁当の上段には、豚肉の生姜焼きがどんと主役の位置を占めていた。薄切りの豚ロースにたれがしっかり絡んで、蓋を開けた瞬間に生姜の香りがふわりと広がる。脇に千切りキャベツとミニトマト。反対側にはだし巻き卵が二切れと、ブロッコリーの胡麻和え、きんぴらごぼうが隙間を埋めていた。
下段はいつも通り、つやつやの白いご飯に梅干しがひとつ。
「うぉー! 今日も豪華だ。ありがてぇ……」
両手を合わせて、神様に拝むみたいに弁当箱を崇めた。神様仏様汐織様、である。
その様子を見て、沙子がふっと笑った。そこには、呆れと微笑ましさが半々くらいが混じっている。
「不思議な組み合わせだとは思ってたけど、結構相性良さそうだよね」
「そうか? 俺が一方的に世話になってるだけな気もするんだけど」
「いただきます」と手を合わせてから、早速箸を伸ばす。
まず生姜焼きをひと切れ。口に入れた瞬間、生姜の風味とたれの甘辛さが広がった。豚肉がやわらかくて、冷めているのに脂がしつこくない。千切りキャベツと一緒に頬張ると、しゃきしゃきした食感が濃い味を中和してくれて、ご飯が止まらなくなった。
だし巻き卵は、いつもの白だし味だ。冷めると出汁の風味がより際立つ。もうこの味が、麻貴にとっての『卵焼きの味』になりつつあった。
「それは否定できないけどね。でも、汐織が男子とここまで親しくなってるのを、あたしは初めて見たよ」
さらっと言われた一言に、少し嬉しくなってしまう。
初めて見た──そういうことを言われてしまうと、つい期待してしまうというのが男の性だ。
(あんまり変な期待させないでほしいんだけどな)
だし巻き卵と一緒に、その感情をぐっと飲み込んだ。




