第22話 訊けない理由、訊きたい理由
鮭の塩焼きが、ちょうどいい色になっていた。
フライパンの上で皮目がぱりっと焼けて、脂がじゅうと弾ける。その音を聞きながら、麻貴は炊飯器のスイッチを確認した。あと十分もすれば炊き上がるだろう。
台所にはもうひとつの鍋からも湯気が立っていた。豆腐とわかめの味噌汁だ。
隣では汐織がまな板の前に立って、小松菜のおひたしを仕上げている。茹で上がった小松菜を冷水にさらしてから絞り、食べやすい長さに切って器に盛った。仕上げにかつおぶしをふわりとかける。
いつもと比べると品数は控えめだが、一品一品の手つきに抜かりがなかった。
「今日はこの後勉強しなきゃだから、ちょっと簡単なものにしちゃったんだけど」
汐織がフライパンの鮭を器に移しながら言った。エプロン姿で菜箸を持つ横顔は、もうすっかりこの台所に馴染んでいる。
「いや、全然。鮭の塩焼きって立派だろ」
「そうかな。焼いただけだよ?」
「焼いただけでこの見た目になるのは才能だな」
少し大袈裟に言うと、汐織は「誰が焼いても同じだよ」と小さく笑った。
そう言ってはいるものの、皮の焼き色が、びっくりするくらい均一だ。自分が焼いたら間違いなく半分が黒焦げで半分が生になる。
食器を棚から出して、テーブルに並べた。箸を揃えて、湯呑みにお茶を注ぐ。この分担にはもう迷いがなかった。
炊飯器が電子音を鳴らして蓋を開けると、つやつやの白い湯気が顔を包む。ご飯をよそってテーブルに運んで、準備完了。
ソファに横並びで座った。できあがった料理がローテーブルに並んでいる。湯気がふたり分、ゆるく立ち上っていた。
「「いただきます」」
いつものように、ふたりの声が揃った。もう何度目かもわからないのに、この瞬間だけは毎回ほんの少し特別で、ほんの少しくすぐったい。
鮭をほぐして、ご飯の上に乗せた。ぱりっとした皮と一緒に頬張ると、塩気と脂の甘みが白い米に絡んで、口の中で溶けていく。
「……うん。美味い。やっぱ焼き加減が完璧なんだよな」
独り言のように呟くと、汐織がふふっと笑って自分の味噌汁に口をつけた。一口飲んでから、ぽつりと零す。
「ん〜……おいしっ」
もう怯えも遠慮もない、『自然なおいしい』だった。
あの坂道で総菜パンをおそるおそる齧っていた頃とは、まるで違う。味を確かめるのではなくて、ただ素直に感じたことを口にしていた。
麻貴はそれを横目で見て、内心少しだけ安堵した。彼女が素直に美味しいと言えるようになったことが、多分何より嬉しい。
それだけでも、この場を提供した甲斐があったといものだ。
*
食器洗いも、いつも通りの分担だった。
汐織が洗って、麻貴が拭く。水の音とBGMだけで、どちらも何も喋らない。それが気まずくないのだから、不思議なものだった。
洗い物を終え、手を拭いた汐織がローテーブルに戻ると、鞄から教科書とノートを取り出して並べ始めた。範囲表をテーブルの端に立て掛け、シャーペンとマーカーを用意していく。料理の下準備と同じテキパキ加減だった。
「じゃあ、早速始めよっか」
「ぐええ。もうやんの? もうちょい休もうぜ」
「もう……そんなこと言ってたら、ほんとに赤点取るよ?」
「……はい」
ソファに寝転がりたい気持ちを全力で抑え、麻貴も参考書を引っ張り出す。
食事の時と同様、横並びで座る形になった。教科書を共有するにはそのほうが都合がいいからだが、肩が近い。汐織のシャンプーの匂いがふわりと届くたびに集中力が削がれそうになるのを、何とか堪えた。
まずは数学からだ。範囲表に並んだ二次関数の文字列を眺めるだけで、頭が痛くなりそうだった。
「麻貴くんは、どこからわかんなくなった?」
「……y=a(x−p)²+q のあたりから、もう」
「グラフの平行移動だね。じゃあ、そこからやろっか」
汐織がノートに、さらさらと放物線を描いた。軸と頂点に印を付けて、ぽんと差し出す。
「ここのpとqが、頂点の座標ね。pが横にずれる分で、qが縦にずれる分だから……y=(x−2)²+3だったら、頂点は(2, 3)になるの」
「……あ。そういうことか。何でマイナスなのに右に動くのかがずっとわかんなかったんだけど」
「xに2を入れた時にカッコの中がゼロになるって考えると、わかりやすいかも」
汐織の教え方は、教科書をなぞるのではなかった。麻貴がどこで詰まっているのかを見抜いて、ピンポイントで説明してくれる。公式の丸暗記ではなく、「なぜそうなるか」を一緒に考えてくれるのだ。
授業で右から左に流れていた内容が、彼女の言葉だとするすると入ってくる。さすがは学年トップクラスの優等生。教えるのも上手かった。
麻貴が問題を解いている間、汐織は自分の勉強を進めていた。ただし、ちらちらと麻貴の手元を見ていて、シャーペンが止まるとすぐ「どこ?」と声をかけてくれた。
最大値・最小値の問題で手が止まる。定義域と頂点の位置関係が絡む問題だ。唸っていると、汐織がノートの端にもうひとつグラフを描いた。
「ここを場合分けするの。定義域の中に頂点があるかないかで変わるでしょ?」
「あー……なるほど。頂点が外にあるときは端が最小になるのか」
「そうそう。ここさえ押さえれば、パターンはそんなに多くないから」
わからないと放棄していた範囲が、少しずつ埋まっていく。家庭教師代も払った方がいいのではないだろうか。思わずそんな懸念が浮かんでしまうほどだ。
数学を一通りやったあとは、化学基礎に移った。
「molって要するに『個数の単位』なんだよね。ダースが12個の束なのと同じで、molは6.02×10²³個の束。それだけ」
「いや、その6.02×10²³ってのがもうピンとこないんだけど」
「ふふっ。そこは気にしなくていいよ。大事なのは、グラム÷モル質量=molっていう計算のほう」
汐織がノートに「水は18g/mol」と書いて、「じゃあ36gの水は?」と訊いてくる。数字の羅列が急に意味を持ち始めた。
「……2mol?」
「正解」
汐織が嬉しそうに頷く。こっちが解けると教えている側のほうが嬉しそうにしているのが、何だか可笑しいかった。
そうして勉強していると、時間は瞬く間に過ぎていく。
問題集のページをめくった拍子にちらりと時計を見てみると、もう八時になっていた。
いつもなら七時から七時半には帰るのが汐織のルーティンだったのだが、今日はとっくにそれを過ぎている。
(時間、大丈夫なのかな)
シャーペンを止めて、ふと考える。
汐織は先週の金曜日と日曜日を除いて、ほぼ毎日この部屋に来ていた。放課後に来て、夕飯を作って食べて、今日は勉強までして。
彼女の家は藤澤だと言っていた。羽瀬ヶ崎から榎ノ電で藤澤まで、ざっと二十分弱。仮に七時半の電車に乗っても、藤澤の駅に着くのは八時頃。自宅がどこにあるのか知らないが、帰宅するのは八時半くらいにはなっているのではないだろうか?
(それを……ほぼ毎日?)
何か、引っかかった。
最初は、家が厳しいんだろうと勝手に思っていた。清楚で控えめな振る舞い、それから育ちの良さそうな佇まい。それらから鑑みると、食事のルールやしつけが厳格で、それがストレスになっているのでは、と。
でも、今の状況はその仮説と噛み合わない。
本当に厳しい家庭なら、娘が毎晩八時過ぎまで外にいることを許すだろうか。高校二年の女子が毎日のように遅い時間に帰宅していたら、普通は親が何か言うはずだ。
だが、汐織のスマホが親からの着信や催促で鳴っているのを、麻貴は一度も見たことがなかった。
先週金曜に来られなかった日、汐織は「お母さんが、今日は家で食べろって」と声を小さくしていた。あの時の翳った顔と、今の自由さとの間に、妙な落差がある。
断片が増えるほど、像はむしろぼやけていく感じだ。『家でご飯が食べられない』理由が、自分の想像していたものとは違うのかもしれない。
(まあ……でも、訊けないよな)
詮索しないこと──それがふたりの間にある最初のルールだった。ルールを守ると決めたのは自分で、彼女が話したくなるまで待つと言ったのも自分だ。
もやもやを飲み込んで、目の前の問題集に視線を戻した。
そして、時計の針が九時を回った頃。ひと区切りがついた。
麻貴がシャーペンを机に置いて大きく伸びをすると、汐織も教科書を閉じた。
「そろそろ帰ろっかな」
教科書やノートを丁寧に鞄にしまいながら、汐織が言う。
「ありがとう。めちゃくちゃ助かったよ」
「どういたしまして。って言っても、こんな教え方でいいのか凄く不安なんだけど」
「いや、全然。マジでわかりやすかった」
本心だった。授業で聞き流していた範囲が、汐織の説明で初めて腑に落ちた。
「ほんと? じゃあ、明日も頑張ろうね」
汐織は当たり前のように笑顔で言った。明日もこのくらいの時間まではいるつもりらしい。嬉しさと、さっきの違和感が、胸の中で混ざった。
「……おう」
結局、それだけ返して、立ち上がった。深入りはしない。彼女がそのつもりなら、きっと大丈夫なのだと言い聞かせて。
「送ってくよ」
「うん。ありがとう」
彼女も、もう遠慮しなくなっていた。
九時を過ぎると、当たり前だが外はもう完全に暗い。街灯がぽつぽつと点いているだけで、昼間とは別の町みたいだ。
潮風が吹いて、汐織の長い髪を揺らした。
ふたり並んで歩く。肩が近いけれど、もうそれを気にする段階はとっくに過ぎていた。
坂を下り、駅の灯りが見えてきたあたりで、麻貴がぽそりと口を開く。
「なあ」
「ん?」
「今更だけど、こんな時間まで大丈夫なのか? 親御さんとか、心配しない?」
訊いたのは、純粋な心配からだった。詮索ではない。ルールの範囲内の、当たり前の気遣い。──そう自分に言い聞かせる。
汐織は一瞬だけ間を置いて、頷いた。
「……あー、うん。まあ」
曖昧な返事。声のトーンが少しだけ落ちた。
「私の家、結構放任主義だから。私が何時に帰って来ようと、あんまり気にしてないんじゃないかな」
目元は笑っている。口角も上がっている。
でも──その笑みのどこかに、諦めに似たものが混じっていた。教室で見るいつもの取り繕った微笑みとも違う。もっと奥にあるもの。もう仕方ないと決めてしまった人間の笑みだった。
胸がきゅっと締まった。
「だから、私のことなら気にしなくていいよ。……あっ、でもひとりの時間が欲しかったりしたら言ってね? 全然、すぐ帰るし」
「違うって! そういう意味で言ったんじゃねーから。純粋に、こんな遅くまで大丈夫なのかなって心配になってさ」
苛立ちと焦りから、少し声が大きくなってしまった。夜の住宅街に、自分の声が響く。
自分のことより先に、相手の迷惑を心配する態度が、気に入らなかった。まるで「いらない存在」になることを恐れて、先回りして退路を用意しているようだ。何度見ても慣れないし、慣れたくもなかった。すると──彼女は予想外なことを言った。
「うん……知ってる」
汐織の声が、柔らかく変わっていた。さっきの諦めた笑みとは違って、嬉しさが滲んでいる。
「麻貴くんが心配してくれてるのは、ちゃんと伝わってるから」
その言葉の裏側に、別のものが透けていた。
麻貴は心配してくれる。じゃあ、それ以外の誰かは?
踏み込みたかった。でも、踏み込めない。それが、ふたりのルールだから。
「するに決まってんだろ」
ぶっきらぼうに、でもはっきりと言った。
いや、それしか言えなかったというのが正しい。
汐織がふっと頬を綻ばせた。さっき『放任主義』と一緒に見せた諦めの笑みとは全然違う表情で──それが余計に、胸の奥を掻き乱す。
そこで、踏切が鳴った。藤澤方面行きの榎ノ電が来たようだ。
「あっ。あれに乗っちゃうね? 送ってくれて、ありがとう」
汐織がぱっと表情を切り替えて、明るい声で言った。
「ああ。気をつけてな」
「うん」
弾むように頷いて、小走りで無人改札を抜けていく。
電車に乗る手前で振り返り、もう一度こちらに手を振った。夜の暗さの中で、ホームの灯りに照らされた笑顔だけがよく見える。
麻貴も手を振り返した。
二両編成の電車が滑り込んできて、汐織が乗り込んだ。窓越しにもう一度小さく手を振って、ドアが閉まる。電車が動き出し、テールランプが夜の線路に吸い込まれていった。
電車が去ると、ホームは嘘みたいに静かになった。聞こえるのは虫の声と、遠くの波音だけだ。
(やっぱ……なんかあるんだよな)
改めて、汐織が抱えている何かに触れた気がした。
放任主義と、彼女は言って笑った。でもあの笑い方は、受け入れているのではない。受け入れるしかないと決めた人間の笑い方だった。
家でご飯が食べられないこと。帰りたくないこと。帰りが遅くても誰も気にしないこと。それらがひとつの線で繋がりかけているのに、最後のピースが見えない。
でも、それを解決するどころか、問うことさえも麻貴にはできなかった。
あの台所で交わした、詮索しないというルール。彼女を守るために作ったはずの約束が、今は彼女を守ることの邪魔をしていた。
(どうもできねーじゃんか……)
溜め息を吐いて見上げると、踏切の遮断機が上がった。カンカンという音が止んで、夜が静かに戻る。
ポケットに手を突っ込んで、坂道を上り始めた。
部屋に戻れば、彼女が作った夕飯の匂いがまだ残っている。テーブルの上には、さっきまで一緒に使っていたノートと消しゴムのカスが散らばっているだろう。
誰もいない部屋に帰る。それはいつものことだ。
でも今日は……その静けさが、少しだけ重かった。




