第20話 夕飯と、お弁当と
放課後のアパート──。
そこには、いつもの風景があった。汐織がエプロンをつけてまな板の前に立ち、麻貴はシンクで米を研ぐ。スピーカーからはカフェミュージックが流れていて、小さな窓から夕陽が差し込んでいた。
何もかもがいつも通りのはずなのに、空気がどこか、ぎこちない。
原因は、明白。名前で呼び合うようになったからである。隼太と沙子にしてやられたことではあるが、結果としてふたりは互いに名前で呼び合う関係になってしまった。学校では昼休み以降に話すことはなかったが、放課後はふたりきりだ。名前を呼ぶ機会が、否応なしに増える。
内心、放課後になったら恥ずかしくなって苗字に戻るかもしれない、とどこかで予想していた。しかし──。
「あっ、箕……麻貴くん」
汐織はどこか慣れていない様子で、麻貴の名を呼んだ。
こうして苗字が出かかって途中で名前に切り替わるのは、もう三度目だ。彼女がこうして頑張って呼ぼうとしてくれるからには、麻貴だって呼び方を戻すわけにはいかない。
結果的に、ふたりはもう苗字では呼び合わなくなっていた。
「ん? ど、どうした?」
「えっと……お醤油、取ってくれると嬉しいな」
「……おう」
シンク横の棚から醤油を取って、手渡した。
指先は触れなかったが、距離がやけに近い。エプロン越しの汐織の肩が、すぐそこにあった。
「ありがとう」
汐織が柔らかく微笑み、受け取った。何でもない動作のはずなのに、心臓が一拍余計に打つ。
ワンルームアパートの台所は、あってないようなものだ。米を研ぐ麻貴と料理をする汐織が並ぶと、自然と肩が触れ合う距離になってしまう。以前なら「おっと」程度で済んでいた接触が、今日は妙に意識してしまっていた。ふたりとも少し身体が硬くなっていて、でもどちらも離れられない。
(よし。できた)
米を研ぎ終えて炊飯器にセットし、スイッチを入れた。ぴ、という電子音とともに、炊飯ランプが点灯する。
もうこの作業にも慣れたものだ。数週間前まで炊飯器のボタンの場所すら忘れていた人間とは思えない。
炊飯器の横に立って、ふぅ、と小さく息を漏らす。その流れで何となく汐織の横顔を眺めていると、彼女がぽつりと漏らした。
「なんだか……まだ慣れないね」
「え!? な、何が!?」
「名前。呼ぶのも呼ばれるのも、慣れないなって」
名前のことかよ、と安堵の息を吐く。さっき肩が触れたことかと思って焦ってしまった。
汐織はまな板の上の大根に視線を落としたまま、続けた。
「男の子と名前で呼び合うのって初めてだから……ほんと言うと、実は結構緊張してたりして。ちょっぴり不安だったの」
「そ、それは俺も同じっていうか。なんか、調子乗ってるって思われないか、心配にはなってる」
「そんなこと思わないよー」
汐織がくすくす笑った。
エプロン姿で菜箸を持ったまま、目尻を下げて笑っている。教室では見たことのない顔で、この台所でしか見られない表情。『慣れない』を共有できたことで、ぎこちなさがほんの少しだけ和らいだ気がした。
今日のメインは、豚バラ大根だ。昨日の買い出しで仕入れた大根と豚バラ薄切り肉を使うらしい。
彼女はまず大根の皮を剥き始めた。ピーラーは使わず包丁でやるらしい。少し厚めに、丁寧に刃を入れていく。麻貴は訊いた。
「何でピーラー使わないの?」
「大根は皮を厚めに剥いたほうが、味が染みやすいの」
「あー、なるほど。だから料理できる人って、みんな包丁使うのか」
「そのとーりっ」
麻貴の口癖を真似て、汐織が可笑しそうに言った。
いや、そういうの反則だから。そういうことされたら、こっちの心臓は悲鳴を上げてしまうから。無自覚でそういうことをするのは、本当に勘弁してほしい。ただただ、麻貴が重症すぎるだけかもしれないが。
そんな麻貴の気など知る由もなく、彼女は皮を剥いた大根を二センチ幅の半月切りにして、次に角を包丁ですっと落としていく。ひとつひとつの動作に迷いがなかった。
「おー。なんかすげー」
「これ、面取りっていうの。こうすると煮崩れしにくいんだよ」
そうやって説明してくれる横顔が少し大人っぽくて、得意げで。そんな彼女に、つい見惚れてしまっていた。
彼女は鍋に大根を入れて下茹でする間に、豚バラを一口大に切り分けていった。手際のよさはいつも通りだ。別のフライパンに油を引いて、豚バラを炒め始める。じゅう、と脂が弾ける音がして、香ばしい匂いが台所に広がった。
下茹でした大根を豚バラの鍋に合流させ、出汁を注ぐ。醤油、みりん、砂糖。汐織が味見をして、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……もうちょっとだけ、お醤油入れちゃおっかな」
独り言みたいに呟いてから、醤油を少しだけ足す。落とし蓋をして弱火に落とすと、鍋がことこと、ことこと、と静かに音を立て始めた。
同時に、味噌汁も手早く仕上げていく。豆腐とわかめ。味噌を溶く手つきに無駄がない。
本当に、料理をしている時の汐織は生き生きとしていた。集中しているのに、緊張していないというのだろうか。学校で控えめに笑っている時とも、うちのソファで恥ずかしそうにしている時とも違っていた。
すると、汐織がさらにフライパンを取り出した。冷蔵庫から卵のパックを出す。
「えっ、まだ作るの?」
「ちょっと味の確認したくて」
殻を割りながら、汐織が少し照れたようにこちらを見た。
味の確認? 一体どういうことだろうか。などと考えていると……。
「……麻貴くんは卵焼き、甘いのとしょっぱいの、どっちが好き?」
まさかのこちらの好みを訊かれた。しかも、名前付きで。
いや、だからさ。
色々と破壊力が高すぎるって。死ぬって。刺激が強すぎるって。
「ど、どっちでも──」
と答えかけて、汐織の表情が目に入った。少しだけ眉を寄せて、こちらをじっと見ている。
「好きなほうを言ってほしいな」
その一言に、胸を突かれた。
どっちでもいい、は麻貴の癖だ。何を訊かれても面倒を避けるように曖昧に返してしまう。でも、汐織は「選んでほしい」と言っていた。こちらの好みを、ちゃんと知りたいのだ、と。
少し考えてから、答えた。
「……しょっぱいほうで」
「しょっぱい派なんだ。了解!」
汐織が嬉しそうに頷いて、白だしを卵液に加えた。
フライパンを温めて、油を薄く引き直す。卵液を少量ずつ流し込んで、薄く焼いては手前に巻き、また流し込んでは巻く。端がちょっとだけ乱れて「あっ」と小さく声を上げたが、すぐに菜箸で整えて、綺麗に仕上げてみせた。
まな板に移して、切り分ける。断面が渦を巻いていて、黄色が鮮やかだった。
一切れを小皿に乗せて、こちらに差し出してくる。
「はい。味見してみて?」
箸でつまんで、口に運んだ。
白だしの塩気がふわりと広がって、卵のやわらかさが口の中でほどける。しょっぱいけれど尖っていない、丸い味。どこか懐かしいと思ったのは、母親が創る卵焼きの味に近かったからだろうか。
「……めっちゃ美味い」
「よかった。明日はこれで作るね」
素直に言うと、汐織が安心したように微笑んだ。
明日はこれで作る、とはどういうことなのだろうか。
一瞬疑問に思ったが、深くは訊かなかった。それよりも、とにかく腹が減っていて、早く食べたくて堪らない。
料理が全て完成して、ローテーブルに皿が並んだ。
豚バラ大根に、豆腐とわかめの味噌汁。炊きたての白いご飯。試作の卵焼きの残りも小皿に添えてある。
綺麗に片付いた部屋に、煮物と味噌汁の匂いが満ちていた。醤油と出汁が混ざった、あたたかい匂い。これがいつの間にか自分の日常になっていたことに、今さらながら気づく。
ソファに横並びで座って、ふたり同時に手を合わせた。
「「いただきます」」
ふたりの声が揃った。もう何度目かわからないのに、毎回少しだけ特別な気がするのは何故だろう?
いや、今はそんなことはいい。とりあえず飯だ。
まずはメインの豚バラ大根に箸を伸ばした。大根を割ると、ほろりと崩れる。出汁を吸って半透明になった断面が、蛍光灯の下で艶やかに光っていた。口に入れると、大根の甘さの中に豚バラの脂と醤油の香ばしさが溶け込んでいて、白いご飯が嘘みたいに進む。
「……美味すぎ。大根に味がめちゃくちゃ染みてる」
「下茹でしたのと、面取りしたおかげかな? 煮物は手間をかけた分だけ美味しくなるから」
汐織がどこか誇らしげに言った。
手間をかけた分だけ。その言葉が、何となく彼女の場合、料理以外のことにも当てはまる気がした。
汐織も自分の分を食べている。箸で大根を割って、口に運んで、ゆっくり噛みしめていた。
(幸せそうだな)
そんな彼女の横顔を眺めてて口元を緩めつつ、麻貴も味噌汁をすすった。
食事中の会話は、いつもと変わらなかった。テストのこと、今日の四人の昼食で隼太が何か面白いことを言っていたこと、沙子が意外と笑い上戸だったこと。
ただ互いの呼び方が変わっただけで、空気の温度が少し上がっていた。
「麻貴くん、もうちょっと食べる? 豚バラ大根、まだあるよ」
何気なくおかわりを勧めてくる汐織。名前呼びで家庭的なセリフを言われると、破壊力が段違いだった。
「お、おう」
それしか返せない自分が情けないが、もう仕方がなかった。
*
食事も後半に差し掛かった頃。
汐織が味噌汁の椀を両手で包むように持って、おずおずと切り出した。
「あ、あの。明日のお昼のことなんだけど」
「ん?」
「その。麻貴くんのも、お弁当にしようかと思ってて。……どう、かな?」
「え!? 弁当!?」
予想外の話が出てきて、素っ頓狂な声を上げてしまった。
おにぎりでも、タッパーでもなく、弁当とは。
思わず箸を止めて、汐織を見た。彼女はほんのり頬を染めて、卵焼きの残りを箸でつつきながら答えた。
「もともと、渡しやすさとか……麻貴くんがお友達の前で食べてて不自然じゃないかとか、そういうの考えておにぎりにしてたの。でも、もう沙子と八木くんにはバレちゃったし。それなら、お弁当のほうがいいかなって」
「あー。まあ、確かに……」
さっき隼太からLIMEが来ていたが、こちらの知らない間に明日以降も空き教室で四人で昼食を取ることになったらしい。巾着袋でこそこそ受け渡しする必要がもうないのだ。
「俺は構わないけど……でも、弁当ふたり分って面倒じゃないか?」
「う、ううん! 全然そんなことないよ。ひとり分もふたり分もそんなに変わらないっていうか。むしろ、おにぎりより手間がかからないかも。それに……おにぎりだと、どうしても具のレパートリーにも限界があって。そろそろ困ってたの」
そろそろ困ってた、という正直さに、少し笑ってしまった。
毎日の具を考える苦労は、確かにあったのだろう。鮭、昆布、おかか、明太子、鯖。言われてみれば、もうひと通り出尽くしていた。
「そうなのか。汐織が大変じゃないなら、全然……っていうか、それに対して何か意見言える立場じゃないし。もう、何でも作ってもらえるだけで嬉しいっていうか」
嬉しいが、自然と出てしまった。
言ってから少し恥ずかしくなる。以前の自分なら、絶対に口にしない言葉だった。
「嫌いなものとか、食べれないものは言ってくれないと困るよ?」
「ないです。何でも食べます」
「ふふっ。そっか。じゃあ、明日からお弁当にするね?」
汐織が嬉しそうに目を細めた。楽しみにしているのが、顔に出ている。
明日からはお弁当。おにぎりの受け渡しよりも、もう一歩踏み込んだ形。
関係がまたひとつ、更新されてしまった。
汐織が「片付けちゃうね」と立ち上がって、食器を重ねてシンクに向かった。
麻貴はローテーブルの前に残ったまま、ぼんやりと彼女の後ろ姿を眺めていた。
名前で呼び合って、ほぼ毎日夕飯を一緒に食べて。明日からは弁当まで作ってもらう。
(いや……っていうか。それって、もう──)
彼氏彼女みたいじゃん、という言葉が頭を過って、慌てて振り払った。
違う。そういう関係ではない。台所を貸して、夕飯を作ってもらって、その代わりこちらが食費を出す。
それが約束で、ルールだ。最初にそう決めたのだから。
そう言い聞かせようとする反面、『でも』が付き纏ってくる。
名前はいつ約束に加わったのだろう? 弁当はいつルールに含まれたのだろう? 気づけば、最初の契約からずいぶん遠いところまで来てしまっている気がした。
これはおそらく、口にしてはいけないことだ。言葉にしたら、今のこの心地よい関係が壊れてしまう気がする。
名前は、きっとつけない方がいい。今はまだ、このままで。
台所から、水の音に混じって鼻歌の断片が聞こえてきた。何の曲かはわからないが、機嫌がいいのだということだけは伝わってくる。煮物の匂いが、まだ部屋に残っていた。
「汐織」
ふと、その後ろ姿に声を掛けていた。
彼女が「ん?」と振り返る。
「その……今日のも、美味かった。ありがとう」
食べてる最中に何度も伝えたし、今更言うのも変なのかもしれない。
でも、自然とそう口にしてしまっていた。
汐織は、ぱっと顔を明るくして。
「──うんっ」
嬉しそうに頷いてくれた。
そんな笑顔を見ていると、ついこう思ってしまうのだ。
その『このまま』はいつまで保てるのだろうか、と──。




