第19話 名前の距離
鯖のおにぎりを噛みしめながら、麻貴はちらちらと周囲の空気を窺っていた。
四人が机を囲んでいる。それだけのことなのに、妙にぎこちなかった。普段ならふたりきりの台所で自然に言葉を交わしている相手が、第三者を挟んだ途端に遠く感じる。
向かいの汐織は自分の弁当を小さく口に運んでいるが、箸の動きが遅い。味わっているというより、緊張で咀嚼が追いついていないという様子だった。
隣の隼太はパンを豪快にかじりながら場を回そうとしていて、沙子は涼しい顔のまま麻貴と汐織を交互に見ていた。その視線が妙に鋭い。
沈黙が数秒流れたところで、沙子が自然な口調で切り出した。
「ねえ、箕島くんって独り暮らしなんだよね。普段ってどんな感じで過ごしてるの?」
会話の入口としては、当たり障りのないものだろう。だが、麻貴としては身構えざるを得なかった。ほぼ初対面の女子から生活について訊かれるのは、あまり居心地がいいものではない。
「んー、まあ普通だよ。学校行って、帰って、寝るだけ。あんま実家と変わんないっていうか」
「いや、それは生活っていうより生存の報告だろ」
適当にはぐらかしたら、隼太が横からすかさず口を挟んできた。
「そうそう、こいつマジで独り暮らしのこと話さないんだよなー。俺なんて遊びに行きたいって何回言っても全然呼んでくれないし」
「隼太が来たらご近所迷惑になるからな。大家から目をつけられたくねーんだよ」
「俺の扱い酷くね!?」
大袈裟にリアクションを取る隼太だが、その目が一瞬だけ沙子のほうに流れた。
なんだ? と思ったが、その意図に気付いたのはそれからすぐ後だった。沙子がその視線に呼応するように、質問してきたのだ。
「ご飯とかは? コンビニ?」
沙子は弁当のおかずを箸でつまみながら、何でもないような口調だった。その質問に、隼太の口角がにやりと上がる。
おそらく、自分が突っ込むと麻貴が答えないことを察知して、沙子に訊かせようという作戦なのだろう。
実際、それは結構有効だ。隼太相手なら「うっせ」で済むが、沙子が相手となるとそういうわけにもいかない。狡い連携だった。
ここは適当に誤魔化すのが最適解だろう。
「まあ、適当にコンビニとか冷凍食品で──」
「適当じゃないよ!」
正面から、否定の声が飛んできた。
汐織が身を乗り出すようにして、麻貴の言葉を遮っていた。
「最近はちゃんとお米も炊くようになったし、後片付けだってしてくれてるし。それに、冷蔵庫の中だって──あっ」
言い終わるより先に、汐織の動きが止まった。口を開けたまま固まっている。自分が何を口走ったのか、数秒遅れで理解したらしい。
その数秒が、致命傷だった。
沙子の箸はぴたりと止まり、隼太の目が大きく見開く。ふたりの目が、鋭く光った。
「お米も炊くようになった?」
沙子が静かに言った。穏やかなのに、退路を塞ぐような声だ。
「それって……誰かに影響されたってことだよね?」
汐織の顔が、みるみるうちに赤くなっていく。口をぱくぱくさせているが、言葉が出てきていなかった。
「あ、い、いや! それはその、自分で思い立ったっていうかッ」
麻貴が助け舟を出そうとしたが、フォローすればするほど墓穴が深くなる。『自分で思い立った』なんて、この流れで誰が信じるのだ。
「へえ。一人で突然、自炊に目覚めたんだ?」
沙子の声音は、決して責めている風ではない。ただ、すべてを見透かしているような落ち着きがそこにはあった。
悪意がないからこそ、かわしにくい。
「ま、まあ、色々あって」
「その色々が気になるんだけどなぁ」
にやにやしながら隼太が追い打ちをかけてくる。こいつはもう完全に楽しむ気満々だ。クソッタレめ。
そこからは、もう防戦一方だった。
沙子の質問と隼太のアシストが巧みで、麻貴がひとつ答えるたびに次の質問が飛んでくる。ふたりの過ごし方が、会話の隙間から透けていった。
「買い出しは一人で行くの?」
「あー……最近は、まあ、たまに一緒に?」
「え!? 俺がメシ誘った時はスルーするくせに!? 何で篠宮とは行くわけ!?」
隼太が本気で傷ついた顔をしてみせた。九割五分は演技だろう。
「あとはー……ご飯の分担とかってあるの?」
沙子が何気なく訊いてくる。
「分担っていうか、篠宮が料理して、俺が食器洗いを……」
「家事の分担までしてるんだ。ふぅん」
「い、いや待て! それは言葉の綾でッ」
もう何を言っても裏目に出た。弁解するほど、関係の深さが浮き彫りになる。
「あとは、お部屋のお掃除とか?」
とどめを刺したのは、汐織自身だった。
本人としては「箕島くんの生活を心配して手伝っている」つもりだったのだろう。この場では完全に逆効果だ。
沙子が目を丸くした。いつもの冷静さが、一瞬崩れる。
「掃除まで……?」
それに加えて、さらにおにぎりを毎日作って昼に渡していること。巾着袋で受け渡しをしていること。それらがふたりの断片的な言い訳の中から、ぽろぽろとこぼれ落ちていった。
沙子と隼太がもの言いたげに顔を見合わせる。言葉は交わしていないが、視線だけで通じ合っているのが見てわかった。
(……こうやって第三者の目を通すと、そりゃあそう見えるよな)
一緒に買い物をして、料理を作って、食器を洗って、掃除をして、おにぎりまで毎日握ってくれている。汐織の事情を抜きにすれば、『ただの同級生が台所を貸し借りしている』にはどうやっても見えるはずがなかった。仮に麻貴がこの話を誰かから聞いても、彼らと似たような反応をするだろう。
かといって、汐織の事情を話すわけにもいかなかった。というか、そもそも彼女が「家でご飯が食べられない」理由は、麻貴も知らないのだ。でも──それは、汐織が自分で話すと決めるまで、口にしていいものではなかった。
「いや、あのな。ちゃんとした理由があるんだよ。約束だから、って言うとまた変に聞こえるんだけど」
「約束、ねえ?」
沙子が、その単語だけを拾い上げるように繰り返し、小さく「ふぅん」と頷く。
追及はそこで止まり、それ以上踏み込んでこなかった。ただ汐織を一度だけ横目で見て──表情が柔らかくなったのを確認してから、箸に視線を戻す。
何となくだけれど、その引き際がどこか自分に似ているような気がした。信用ができるかどうかまではわからないけれど、決して悪い人ではない。そう思えた。
ひと通りの話が落ち着いて、空き教室に穏やかな空気が戻りかけた頃だった。
沙子がふと箸を止める。
「そういえば。ふたりって、まだ苗字で呼び合ってるんだね」
この〝王子〟め。何でもないことのように言ったが、とんでもない爆弾発言だ。
汐織が吃驚の声を上げた。
「え!?」
「それは、まあ……」
麻貴も途端に歯切れが悪くなる。
確かに、ふたりの間ではずっと『箕島くん』と『篠宮』だった。あの台所で毎日のように一緒に過ごして、おかえりとただいまを交わすようになっても、そこだけは変わっていない。お互いに踏み出せない一線のように、残っていた。それはなんと言うか、今さら呼び名を変えるきっかけがなかったからだ。
隼太がここぞとばかりに食いついてきた。
「確かに! ほぼ毎日一緒にメシ食ってるくせに苗字呼びなんて、ちょっと他人行儀じゃね?」
「あたしもそれは思った」
ふたりの連携が完璧すぎる。示し合わせたかのようなタイミングだった。裏で打ち合わせでもいるのだろうか。さすがに納得ができない。
「いやでもまあ、別にそういうのって無理するもんでもないだろ?」
「そ、そうだよ。呼び合う時は、自然にそうなるものだし……」
汐織も同調してかわそうとする。ここに関しては、珍しく意見が一致した。
だが、沙子がそれを許さない。
「そう? じゃあ今、一回お試しで名前で呼んでみたら?」
その『じゃあ』がどこに繋がっているのかを問いたかった。しかも、質問としては最悪だ。ぶっこまれてしまった以上、イエスかノーかの二択を否応なく迫られるのだから。
ノーと言えば汐織と名前で呼び合うことを拒否する形になるし、イエスと言えば今この場で名前呼びを試行させられる。どちらに転んでも、まずい。
(どうする……?)
助けを求めるように、汐織に視線を送った。
だが、汐織は目が合うや否や顔を真っ赤にして俯いてしまった。助け舟は来そうにない。
隼太は腕を組んでにやにやしながら傍観していた。
(こいつ、あとで絶対ぶん殴る)
麻貴は心の中で固く決意した。
沈黙が数秒流れた。空き教室の中で、窓の外の校庭のざわめきだけが遠くに聞こえている。
そこで、沙子が角度を変えてきた。汐織を横目で見つつ、麻貴のほうに視線を移して訊いた。
「箕島くんって、下の名前なんだっけ」
「え? 麻貴、だけど」
「じゃあ、あたしが先に名前で呼ぼうかな」
王子がさらっと言ってのけた。
「女子からどう呼ばれたいとかある? 普通にくん付け? それとも、あだ名?」
「ど、どうって……そんなの、呼ばれたこともないし」
戸惑う麻貴を余所に、隼太が即座に乗っかってきた。
「おお、いいねえ! じゃあ俺もちゃん付けで篠宮のこと呼んでいい!?」
汐織がびくりと肩を震わせた。
隼太がにやにやしたまま、こちらに視線を寄越す。
「いいのか? 俺が先に名前で呼んじゃって」
「汐織も、いいの?」
沙子も汐織に同じ問いを投げた。
表情こそ涼しげだが、内心ではニヤついているに違いない。完全に示し合わせた挟撃だった。四人の中でふたりだけが追い詰められている。
(クソッ……やりやがったなこいつらァ)
麻貴が睨みつけるが、今さらこいつらが引く訳がない。
どうする? どう乗り越える? 窓を開けて大声で叫んでみるか? そんなむちゃくちゃな逃げ方を考えていた時だった。
俯いたまま黙っていた汐織が、指先でスカートの裾を、きゅっと摘む。そして、小さく──でもはっきりと。
「だ、ダメ……」
そう、沙子に言った。
空き教室が、一瞬静まり返る。
ダメ。それはつまり、沙子に先を越されることへの、拒否だった。
(へ……?)
心臓が跳ねる。どういう意味だと考えようとしたら、汐織が意を決したように顔を上げた。頬は赤いまま、その瞳は泣きそうに潤んでいて。それでも逸らさずに、まっすぐ麻貴を見ていた。
唇がわずかに震えて──声が、紡がれる。
「……麻貴くん」
初めて、汐織の口から自分の名前が呼ばれた。
少し震えていたけれど、それは間違いなく自分の名で。ずっと耳に馴染んでいた『箕島くん』とは、まるで違う響き。呼ばれ方が変わっただけなのに、胸のあたりがぎゅっと詰まった。
その声が、耳の奥から離れない。
ただ、黙っていればいいわけでもない。沙子と隼太の視線が、今度はこちらに突き刺さってきた。言葉にせずとも、その目が語っている。
もう、逃げ場はなかった。
「えっと……汐織、さん?」
語尾が疑問形になってしまった。自分でも情けない。
すると汐織が、ほんの少し首を傾げた。
「呼び捨てで、いいよ?」
そう言う声はまだ恥ずかしそうだけれど、さっきよりも柔らかい。
その言葉に背中を押されるように、麻貴は口を開いた。
「じゃあ、その。……汐織で」
名前を呼ぶと、汐織の表情がぱっと明るくなった。恥ずかしさの奥に、隠しきれない嬉しさが滲んでいる。
その笑顔を見て、心臓がまた大きく跳ねた。
呼び方ひとつで、こんなにも変わるものなのか。
「うわぁ……これ、思ってたより凄いね」
沙子が口元を手で押さえていた。いつも涼しい顔の〝王子〟が何かに悶えている。
「ダメだ。光のオーラでこっちがやられる」
隼太は大袈裟に目を逸らして、額を押さえていた。
そのリアクションで、張り詰めていた空気がすこし弛む。
その流れに乗るように、沙子がさらっと言った。
「えっと、あたしはその……これまで通り箕島くんでいいかな」
「俺も今まで通りにしとくよ」
隼太も沙子に続いた。
示し合わせたかのように、ふたりとも『自分たちは今まで通り』と宣言しやがった。
名前で呼び合うのは、麻貴と汐織だけ。
(完全にしてやられた……)
最初からこうさせるのが目的だったのだ。隼太が沙子に質問させたのも、名前呼びを提案したのも、「先に呼んでいい?」と揺さぶったのも──全部、この結末に向けて組み立てられていたのだろう。
完敗だ。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
*
昼休み終了を告げる予鈴が鳴って、四人で空き教室を出た。
隼太と沙子が自然と少し前を歩き、麻貴と汐織が後ろに並ぶ形になった。意図的なのかそうでないのかはわからないが、彼らのことだから意図的な気がする。もう信用できなかった。
隼太たちが先に角を曲がり、少しだけ距離ができたところで、麻貴はこっそり汐織に声をかけた。
「あの……さっきは流れでああなったけど、嫌だったらその、無理しなくてもいいから」
逃げ道を用意したつもりだった。場の空気に流されただけで、本心ではなかったのだとしたら。それはそれで彼女にとって負担になるし、放課後の過ごし方にも影響が出てしまう。
汐織は一瞬驚いたように瞬きして──それから、首を横に振った。
「い、嫌じゃないよ! 全然……嫌じゃないから」
少し間を置いて、「それに」と付け加える。
「私も前から……そうしたいなって、思ってたし」
「え!?」
驚いて、立ち止まってしまった。
前から、ということは……汐織はずっと、麻貴を名前で呼びたかった、ということだろうか? 自分からは言い出せなかっただけで。
「……?」
いきなり立ち止まった麻貴を不思議に思ったのか、彼女も立ち止まってこちらを振り返る。
窓から差し込む光が、汐織の黒髪を微かに透かしていね。なんだか、いつも以上に艶やかに見えてしまった。
「そ、そっか! え、と……じゃあ、改めて、よろしく。……汐織」
改めて名前を呼ぶと、汐織がぱっと顔を上げた。
頬は赤いまま、目尻が下がって、くしゃっと笑っている。恥ずかしさなんて全然隠せていないのに、嬉しさのほうがずっと大きくて。その笑顔を見た瞬間、さっき自分が口にした『汐織』が、急にかけがえのない響きに変わった。
「……うん! よろしくね、麻貴くんっ」
二回目なのに、一回目より破壊力が増しているのはどういうことなのだろう?
教室に戻り、席に着いた。何事もなかったように、午後の授業が始まろうとしている。
隣で隼太が何食わぬ顔をしているのが、逆に腹立たしかった。名前で呼び合うことになったことと、殴るかどうかはまた別の話だ。絶対に許してはやらない。
ただ──耳の奥に、彼女の声がまだ残っていた。
柔らかくて、少し弾んでいて。教室のどの声とも違う。
放課後になれば、今度は家で呼ばれることになるのだろうか。
(……勘弁してくれ)
嬉しいのか恥ずかしいのか、自分でもわからない。ただ心臓がうるさくて仕方がなかった。




