ギュヌカ
先程まで教会だったその部屋は、炎が燃え盛る地獄へと変貌していた。焼けついてしまいそうな空気が辺りに渦巻き、壁と床、天井に至るまで、猛り狂ったオレンジが塗り広げられている。炎は自分の行く先々を全て塞ぎ、隅に追いやられた鼠のように右往左往していた。
「………」
ぐるぐると歩き回っている間、ツシャの言っていたことを反芻する。人を目覚めさせるとはどういうことだろうか、目覚めた人はどうなる?目覚めればこの悪夢から抜け出せるのか?
いくらより良い答えを求めても意味がないのはわかっている。自分は今袋小路に向かって歩いているに過ぎないのだから。
本当はなんとなくこうじゃないかと考えていることがある。だがそれは自分にとって認めたくないことだ。この考えはあまりにも…
「あまりにも残酷?」
炎の中から誰かの声が聞こえてくる。
「だ、誰か…誰かいるのか?」
「いるよ、こっちだ」
声の聞こえる方を見ても、そこには誰もいない。あるのは燃え盛る炎だけ。
「どこだ、どこにいる?」
「ここ、ここだよ」
聞き間違いでなければ声は炎の中から聞こえてきている。
「あ、そっか、ちょっと下がって」
言われた通りに炎から3歩ほど後ろに下がる。炎の中から燃え盛る何かが歩いてきた。人型の炎、というよりかは人型の何かが炎に包まれている。
「こんにちは、もしくはこんばんは、はたまたおはようございます」
目の前の存在は、炎に包まれているにしては穏やかな声を出してくる。まるで、隣人に挨拶するかのような気休さだ。
「お前は誰だ?」
「まぁ気になるよね、僕の挨拶を無視してまで聞きたくなるよね。残念だ、もし僕が人間の見た目をしていれば君の挨拶を聞けたのに」
「すまない、こっちも混乱してるんだ。目の前に人型に燃え盛る存在が出てきたんだからな」
「ハハハ!そりゃそうか!そりゃそうだ!ハハハハ!」
炎は腹を抱えて笑い出し、口らしき部分からは笑い声と共に炎が噴き出す。
「いやはや失敬失敬、まだ神になりたてだからね。色々慣れていないんだ」
「神…?お前もか?」
「もってことは、もう他の神にあったってことだよね。誰かな?他にどんな神がいるか知らないんだ」
「天使のような見た目をした神だった。名前はノゥリトク」
「え、彼女?げげげ、そりゃ災難だったね。そっかそっかよく無事で…」
炎はパチパチと拍手をする。と、同時にパチパチと爆ぜる音がする。
「お前も、元は人間だったのか?」
「そうだよ。試練を乗り越えて、神になったんだ」
「なぁ、神ってなんなんだ。人間が考えてるようなものじゃないのか?なぜ、ただの人間が神になれる?」
「う〜ん、君たちの考える神とは違うし、合ってる。強いて言えば信じるもの、かな」
「信じるもの?」
「そう、君にもあるでしょ。信じるもの」
「いや……ない」
「い〜や、ある。信じるものって別に信仰の対象とか、信頼してる人ってわけじゃないよ。君が当たり前に、無責任に信じてるものだよ」
「無責任に…?」
「そう。自分はこれからも生きていけるだろうとか、数年前に卒業した学校の友達は今でも元気だろうとか、根拠もなく信じてるもの。君にはない?そういうの」
「いや…」
これまでの人生に信じるべきものなどあっただろうか、失敗と間違いだらけの自分の人生に。
「ほら、信じてる」
「え?」
「君は自分の人生が失敗だって、間違いだって信じてる」
「だがそれは根拠があって信じてることだ」
「根拠って?」
「今までの失敗が…」
「どんな失敗したの?聞かせてよ」
「それは…」
あらためて自分の人生を振り返る。そこには見るのも苦痛になるほどの暗い闇が待ち構えている。自分の失敗、間違い、罪が渦巻いている。
「ほら、もっとよく見て、君が信じてるそれらは本当に存在するの?君は失敗したかい?」
胸に去来する思いを無視せずに抱きしめる。ドス黒い何かを吐き出しそうになる。自分の今までの人生を余すところなく見つめる。
「え…あ?」
思い出せない…
記憶にないとか、忘れてしまったとかではない、はなから存在していなかったかのように、何もでてこない。
今までの失敗もなければ、成功もない。友達も、家族もいない。思い出もない。何も思い出せない。暗闇に満ち溢れていると思っていた自分の人生には全くの虚無しかない。
今まで感じていた苦痛すらも自分の人生にはなかった。覚えているのは、毎日を歩いてやり過ごしていたことだけ。
でも、いったいいつから…?いつから自分は生まれて、誰に育てられて、どうやってこの部屋に来たんだろうか…
「どう?何か見つかった?」
「いや、なにも…ない。どうして?」
力無く地面に座り込む。今まで立ってきた地面を失った気分だ。吐き気がする。
「なぁ…」
「なに?」
「俺は一体誰なんだ?なんのために生きてる?これから何を目指していけばいい?」
「僕でもわからないなぁ。でも、それは今から探せばいいよ」
「それは…無理だ。あんな苦痛でも、自分の人生を信じる根拠にはなってたんだ。でも、それすらも存在しなかった。俺は…どうやって…どうして…」
「燃え尽きたって感じだね。でも大丈夫、まだ君は燃えてるみたいだよ」
「そんなことはない。自分の感情は自分が一番理解してる」
「そんなことはないよ。だって僕は燃焼の神だからね、君の心の奥の奥の奥底で燃えてるのが見えるよ」
「燃焼の神…?」
「そう、自己紹介がはちゃめちゃ遅れたね。僕の名前は燃焼神ギュヌカ、人間だったときの名前はハイリィ・ハイラント」
「燃焼って…何を燃やすんだ?」
「色々さ。物理的に燃やすこともあるし、精神的に燃やすこともある。ほら、エネルギーの燃焼とか、やる気が出た時に燃えてきたって言ったりするでしょ。そういった人間や生物が持つ原初の力を燃やしてるんだよ。まぁ僕は火をあげるだけで、火をつけるかどうかを決めるのは本人の意思なんだけどね」
「本人の意思…」
「そうだよ、火をつけるかどうか、絶やすかどうか、燃え尽きるかどうか。全部本人が決めるんだ」
「じゃあ俺は、いつのまにか火をつけてたってことか…?」
「うん、君も知らない時につけられたんだ。その火は君が知らないほどにずっと前からあって、すごく弱ってる」
「どうすれば火を強くできる?」
「簡単さ、燃料を焚べればいいんだよ。やるぞ!っていう気持ちを焚べるんだ」
「気持ち…」
「その火を大事にしてあげて。今の人は燃料を抱えたまま死んでいったり、炎で周りを火傷させたり、灰だけを残して消えていったり、そんな人ばっかりなんだ。僕は君には燃え尽きてほしくない」
「なぜそこまで俺に入れ込むんだ」
「僕は人間が好きな神だからね。人間が一番よく燃えるんだ。それに…」
「それに?」
「人間の時の記憶なんだけどね、小学生の頃慕ってた先生がいたんだ。正しいことをすれば、その分嬉しいことが返ってくるってよく言ってたんだよ。だからハイリィはルールをしっかり守ってたんだ。青信号は点滅してたらしっかり止まるし、困ってる人がいたらなるべく助けようとした。そうやってルールを守れる大人に成長していったある日、先生の訃報が届いたんだ」
ギュヌカは少し俯いてため息をついた。炎まじりの溜息はどことなく冷たい雰囲気を感じた。
「びっくりしたよ、あんなにいい人がなんでって思った。病気か事故か、なんにせよ先生を死に至らしめた何かを心の底から恨んだよ。でもね、先生の死因は信号無視による車の衝突だったんだ。あの人は信号無視をして死んだんだ」
「なぜ、信号無視を?」
「さぁ?信号無視しても大丈夫って信じてたんじゃないかな?今更信号無視したって死ぬわけじゃない、自分が渡ってる時に車が来るわけじゃない、そんな風に無責任にさ。結局、僕の中で先生は見習うべき大人からショボイ理由で死んだ人になってしまった。先生の存在は僕の中で燃え尽きた灰になった。その灰は僕の炎すら揉み消してしまった。どんなに燃え盛った炎でも、簡単に消えてしまうんだ」
「………」
「だからこそ、君の胸の中で燃えてる蝋燭よりも小さいその火はすごいんだよ。君が全てを失ってもまだ燃えてる。僕は君の火が炎になるところを見てみたい、だから助ける。といっても、偉そうにアドバイスをすることしかできてないけどね」
ギュヌカはそう言ってケラケラと笑った。
どことなく笑い声に涙が混じっている気がする。
「おっと、もう時間だ。これ以上喋ったらツシャくんに怒られちゃうな」
周りで激しく揺れていた炎はいつのまにか無くなっていた。
燃え盛る炎に隠されてわからなかったが、この場所はどうやら学校の教室のように見える。椅子や机は全て燃え尽きてしまっているが、ギュヌカの後ろには真っ黒になった教壇が置かれている。
「まだ聞きたいことが…」
「君がこれから会う人、もしくは神達が教えてくれるよ。大事なのは学ぶ姿勢を絶やさないことだよ」
ギュヌカは目の前に手を差し出す。
「ジム、楽しかったよ。もうちょっと君に教えてあげたかったけど、僕に先生は向いてないみたいだ」
「いや、ありがとう…ここから先は自分で探してみる」
ギュヌカの手から少しズレた場所に手を出し、お互いにエア握手をする。
「じゃあ、バイバイ」
手を振るギュヌカに手を振り返し、教室から出る。胸に手を当てると、ほんのりと温かさを感じた。




