キャメル
扉を開ける、という言葉は人にも使われる言葉だ。
誰かの胸中を知ることでその人に受け入れてもらう。人間として必要な行為だ。この扉も、誰かの心を表しているのかもしれない。
「はぁ…」
自分らしくない、やけに詩的な考えだ。この奇妙な空間にいるせいだろうか。
もうこれ以上何が起きても驚かない、そう思いながら目にした光景は、自分の予想だにしないものだった。
ずらりと並べられた会衆席、そしてその先には精巧に掘られた彫像と鮮やかなステンドグラスが荘厳な雰囲気で構えていた。
「教会…?」
彫像は全てを受け入れんとするかのように両手を広げている。だがその顔は完全に砕かれ、その哀れな様は磔刑に処された罪人にも見える。様々な形の色が組み立てられた見事なステンドグラスも無惨にもその破片を散らしている。
「ここでも何かが…」
嫌な予感を胸に抱えながら祭壇へと進む。祭壇の上には聖書のようなものが置かれていた。だが内容は外見とは裏腹に口汚い罵詈雑言が殴り書きされていた。この憎悪の矛先はどこに向いているのだろうか。
「ど、どなたですか…?」
後ろから声をかけられる。その声は張り詰めた糸のようにか細く震えている。警戒しながらゆっくりと振り向く。
「………!」
そこには目を閉じた状態で立っているシスターがいた。この破壊された教会にシスターがいることに驚く。だが、それ以上に驚いたのは会衆席に頭のない人間がずらりと座っていたことだった。それは手を膝の上に置き、背筋をピンと伸ばしている。
「あの…?」
「ここは…どうなってるんだ?」
シスターは悲しい顔で力無く首を振る。
「わからないのです…元々私は盲目の身。ツシャと名乗る女性が何かを喋ったかと思えばいきなり違う部屋に飛ばされて…」
「それじゃあ今の状況はわからないのか?」
「そうです。ここはどこなんです?ここで何があったんです?」
「ここは…教会みたいだ」
「教会!?マンションではなく?」
「あぁ」
「………」
シスターは黙ってしまった。だが目が見えないのが幸いしたのか、今のところ正気を失ってはいないようだった。
「そ、それであなたはなぜここに?」
「ツシャに連れてこられた。君みたいな人間と話せと言われた」
「話す?何を?」
「さぁ…」
今はまだツシャのルールについて喋らない方が良さそうだ。この人には正気を保っていてほしい。もう彼女のようにはなってほしくない…
「とりあえず、自己紹介からでしょうか…」
「あぁ、自分はジム・ヘイター」
「私はキャメルです。キャメル・ルゴーダ。見ての通りシスターです」
「キャメル。ひとまず座って話そうか」
「座るって、どこに?」
「……地面に」
「あの、告解室で話しませんか?ここが教会ならあるはずでしょう?」
彼女が言った通り、教会には告解室があった。どちらかが神父の入る場所なのだろうが、知識のない自分にはわからない。自分の運を信じて左の部屋に入る。
「あ、そっちは…」
右の部屋に入り直す。どうやら相変わらず自分には運がないらしい。
「すまない、こういうところに入るのは初めてなんだ」
「まぁ、懺悔する罪がないのはいいことです」
「いや、懺悔することは山ほどある」
「じゃあ、今懺悔してみては?聞くのは神父ではなくシスターですけど」
「懺悔か…」
今までの自分の罪、後悔を考える。だが思い出そうにも思い出せない。思い出せるのは罪を犯したときのあの重く苦々しい気持ちと、保身に走ろうとする自分への軽蔑だけ。
自分には何が残っているだろうか。償うべき、洗うべき、引き摺るべき罪を忘れ、ただ気持ちだけを残している。自分の首を絞めるような、足元を沈めるような、視野を狭め視界を曇らせるような暗鬱とした気持ちだけが胸の奥に沈澱している。一切の望みも救いもないただ沈むだけの人生、誰が掬い上げるというのか。
「あ、あの、どうかしましたか…?」
「え、あぁいや」
また悪い癖が出てしまった。
「やはり懺悔する罪がおありでないようですね」
「いや、懺悔するほど深刻じゃないってだけだ。そっちこそ、懺悔するような罪は無いんじゃないか?」
「いえ、そんなことは。私にも罪はあります。例えば…」
「嘘をついてる、とか」
意図しない発言が零れ落ちる。驚いて思わず口を手で塞ぐ。
「え?え、えぇまぁ幼い頃多少は…」
「昔の話じゃない、今の話だ」
口を塞いでいるにもかかわらず声が出る。
「今、嘘なんてついていいことがありますか?」
「でも、現に嘘をついている」
「なにを…」
「見えてるだろう。その目」
向こうとこちらを遮るカーテンの奥で、震えた息遣いが聞こえる。それに合わせて自分の心臓も震えているのを感じる。
「なぜ…」
「さっき座って話そうと言ったとき、どこに座ればいいかを聞いてきただろう。教会には聴衆のための席が設けられているはずだ。それなのになぜ座れないと思ったんだ?」
「それは…」
「席には隙間なく座っていた存在がいた。それがわかってたから聞いてきたんだ。違うか」
「………」
「それに、自分が告解室に入るとき、間違ったほうに入ろうとしていたのを指摘しただろう。嘘をつくにしてはかなり杜撰じゃないか?」
キャメルはしばらくの沈黙の後、笑いながら喋り出した。
「ふふ、やはり慣れないことはしてはいけませんね。そうです、あなたの言うとおり私の目は見えています」
「な、なぜ嘘を?」
ようやく自分の声を取り戻す。取り戻したのはいいがこの状況はかなりまずい。
「あなたも見たでしょう。席に並んだあれらを」
「あぁ、あれはなんだ?君がここにいた時にはもうあったのか?」
「そうです。あれらは私がここに来た時にはもうあったのです。しかも、頭がついていました。私が来た瞬間、角が生え人の堕落を望むかのような醜い笑顔を一斉に見せてきました。悪魔が教会に並ぶあまりに悍ましい光景、今思い出しても震えが止まりません」
「どうやって助かったんだ?」
「祈ったのです。信じるべき神に祈りを捧げました。すると、何かが砕ける音が聞こえました。恐る恐る目を開けると、悪魔の頭は砕けていました。その代わり、神の像も犠牲に…」
彼女の啜り泣きが聞こえる。
「そうか、それは大変だったな…」
「実を言うと、ツシャ、彼女が言っていたルールも覚えているのです。逃げないこと、拒まないこと、隠さないこと。これは自分の持つ恐怖に立ち向かえと言うことでしょう?」
「そう、だな」
「私が恐怖するものは悪魔、人を罪の渦に引き込まんとする存在です」
「だろうな」
彼女の格好と話を聞く限り悪魔を恐れているというのは信憑性がある。だが、あの祭壇に置かれていた聖書はなんのために置かれているのだろうか。意味もないものがこの空間に置かれているとは考えにくい。
「少し、席を外していいか。信じられないことばかりで頭が痛くなってきた」
「はい、私も少しここで休んでますね」
告解室から出て、辺りを探索する。町に一つはありそうなこじんまりとした教会、怪しそうなところはない。万策尽きたといった感じでステンドグラスを見上げる。太陽が覗くはずもないのになぜかステンドグラスは光に透かされてキラキラと輝いている。もしかすると、ステンドグラス自体が光っているのかもしれない。
そう考えた瞬間、ステンドグラスに亀裂が入る。
「あっ!?」
亀裂はあっという間にステンドグラスを暗闇で包み込み、教会は暗闇に包まれた。
「ど、どうしました!?」
「わからない、足元に気をつけてくれ!」
暗闇に乗じて何かが牙を剥くかもしれない。そう考え辺りを警戒していると、祭壇の下がほんのりと明るくなっているのに気づいた。
「なんだ…?」
「ダメ!」
後ろから聞こえる叫び声を無視して祭壇を蹴り飛ばす。祭壇は想像以上に脆く、その下から暗闇を消し去るような光が溢れ出た。
「やめろ!」
そこには、目から血の涙を流す大量の生首と、肌すらも切り裂きそうな光を放つ輪があった。すぐ横には柄の部分が折れた手斧が置いてある。
「これは…」
放たれた光の先にキャメルの顔が見える。その顔は恐れを抱いており、さながら天使に怯える悪魔のようであった。
「君が…」
「違う」
「やったのか」
「違う!」
「違わないだろう。こんなところに隠して、どう言い逃れするつもりだ」
「違う違う違う!私は天使を、神を愛している!そしてそんな私を皆は愛してくれる!信心深く、敬虔な私を!私は皆に、神に必要とされている!」
「君が愛しているのは本当に神か?」
「な……!?」
「愛しているのは神を愛する敬虔な自分じゃないのか?」
「………」
「君は…」
「うるさい!!お前の頭もあいつらみたいに砕いてやる!だんまりでこちらを見つめるだけのあいつらみたいに!」
キャメルの手にはいつのまにか槌が握られている。
「………!」
「そんな目で、全部わかってるみたいな目でこっちを見るな!お前もあいつらも同じ目を!こっちに向けて!」
そう叫ぶ彼女の目からは血の涙が流れている。
「泣いているのか…?」
「何を言って…ハッ!?」
彼女は目から流れる血に気づくと、顔が恐怖でワナワナと震え始めた。
「や、やめろ、こんな…こんなの…」
血を無理矢理拭い去る彼女の頭上に光輪が現れる。
「は、ああ!やめ、やめて…!こわい、やめて!」
光輪を掴もうとした彼女の手は無慈悲に傷を刻まれる。流れた血は彼女の髪を金色に染めていく。
「あ、ひぁ…は…!」
笑いにも絶叫にも似た声を上げながら彼女は固まった。顔を引き裂かんばかりに歪んだその顔からは苦痛が消え、精巧な彫刻にも似た憂いと慈悲を孕んだ顔つきになる。
目の前の彼女はもういない、そこには天使がいた。




