メイ
時刻は9時32分、残された紅茶はすっかり冷めきってしまった。それでもなお、動けないままでいる。
警察に通報はしていない。正しくは通報できなかったのだ。電話が壊れたのか、受話器からは耳障りなノイズだけしか聞こえなかった。
無為に時を過ごしながら、ツシャの言っていたことを考える。ルールはマンションの住人と会話すること。だが、何の為のルールなんだろうか、このマンションで何かゲームでも始まっているのだろうか。
考えても仕方がないことを延々と考えている。1秒1分と時間が過ぎる度、心に砂が溜まっていく。動かなければならないはずなのに、心だけが乾いて動く気力すらも出ない。
このまま死ねたらどんなに楽だろうかと繰り返し考える。考えるたびに紅茶の匂いが鼻につく。煩わしくなって紅茶を飲み干すと、胸の中の砂が少し流れていった。やる気なく足を動かして、扉の前に立つ。微かに震えているドアノブを握り、部屋を出た。
玄関のドアを開ければ廊下に出る。当たり前のことだ。これまで何百回も経験してきたし、これからも経験すること。そのはずなのになぜか違う部屋へと出てしまった。いや、入ったと言うべきだろうか。置いてあるものこそ違えど、間取りは自分の部屋と一緒だ。
だが、確実に違う部分が一つある。それは床を覆い尽くすほどの虫の死骸だ。大小様々なたくさんの種類の虫が足を閉じてそこら中に転がっている。
歩く度にじゃりじゃりと音が鳴り、足に伝わる感触に思わず顔を顰めてしまう。恐ろしく遠く感じたリビングの扉にようやく辿り着き、ゆっくりと開ける。
「いや!来ないで!!」
入って早々、叫び声とともに殺虫スプレーを吹きつけられる。幸いメガネをかけていたので目に入ることはなかった。部屋の隅で女性が顔を覆い隠し、今にも崩れてしまいそうなほどに震えていた。
「落ち着いて、ここで何があったんだ?」
殺虫スプレーをかけた相手が虫ではないことに気付いたのか、顔を上げてこちらを見てきた。
「だ、だれ?」
「このマンションの住人だ」
「どうやって入ってきたの?鍵はかけていたはずなのに…」
「信じてくれないかもしれないが、自分の部屋の扉を開けたら君の部屋につながっていた」
「なにが…このマンションでなにがおこってるの?さっきもツシャとかいう訳のわからない人が来たかと思ったら、虫がたくさん湧いてくるし」
「ツシャ?ここにもツシャが来たのか?」
「ここにもって、あなたのとこにも来たの?」
「そうだ。その時ルールを説明された」
「ルール…そうよ!私もルールを説明されたわ!」
「どんなルールだった?」
「逃げないこと、拒まないこと、隠さないこと」
「え…?」
ルールが違う?
「あなたは違うの?」
「あぁ、ルールはこのマンションの住人と喋ること。喋る相手は決められているらしい」
「喋る?それだけ?」
「あぁ」
「じゃあ、あなたがここに来たのは私と喋るためってこと?」
「だと…思う」
しばらくの間、2人は沈黙していた。設けられた謎のルールに対する困惑、ルールが違うという不安、その他様々な黒い感情をお互いに感じていた。
どこかから虫の羽音が聞こえたような気がする。
「じゃあ…喋ってみる?」
沈黙を最初に破ったのは彼女だった。
「今できることもそれしかなさそうだし」
「そうだな」
椅子に座って正面に向かい合う。だが、悲しいことに今まで人と会話したことがなかったので、何を話せばいいのか分からない。沈黙はまたしても彼女によって破られた。
「まずは、自己紹介からじゃない?私はメイ、あなたは?」
「ジム、ジム・ヘイター」
「ヘイター……もしかして404号室の?」
「あぁ」
「じゃあお隣じゃない、私405号室に住んでるの」
「そうだったのか…」
確かに思い返してみれば今朝も彼女とすれ違ったかもしれない、挨拶もしなければ顔も見てなかったので気づかなかった。
「最近引っ越してきたの?」
「いや、前から住んでいる」
「そう?」
「どうしてそんなことを?」
「いや、前に女性の人があなたの部屋から出てきていたのを見た気がするのよね」
「生憎、自分の部屋に家族も友人も来ない」
「どうして?」
「どうしてって……気づいたらいなくなってたんだ」
「なんでいなくなったの?」
「じゃあ逆に聞くが、君にはどうして家族が、友人がいるんだ?」
「友人はわからないけど、家族は生きてたらいて当たり前のものでしょ?それに、いなくなった理由もわからないなんて…」
「じゃあなんだ、当たり前がいない自分は死んでるも同じか?」
「違うわ!あなたが忘れているだけで、あなたのことを知っている人はいるはずよ、それに今から知ろうとしたって遅くはないし」
「今から?」
「そう、私があなたのことを知れば、あなたの友達が1人増えるわ」
そう言って彼女はニコリと笑う。あまりの眩しさに思わず目を逸らしてしまう。
「………すまない、君に教えられることはない。決して君に心を開いてないわけじゃない、思い浮かばないんだ。自分を表すためのことが」
「そんな…」
「だから、君のことを教えてくれないか?君のことを知れば、君の友人が1人増えるかもしれない」
「ジム…!いいわ、教えてあげる」
彼女の笑顔を見ていると、どこか懐かしさを感じた。
「私の名前はメイ、メイ・ロックス。ここの近くの新聞社で働いてるの。趣味は音楽を聴くことで、好きなものはネコとチョコレート、嫌いなものは虫ね」
「新聞社で働いてるのか」
「そうよ、あちこちまわって良いニュースや悪いニュースを記事にするの。まぁ最近は悪いニュースしか書いてないけどね」
「このご時世だからな」
「まぁそのおかげで私みたいな人たちが食べていけるんだけどね」
今までに起こってきた異常な事態を忘れ、今だけは友人との穏やかな時間が流れている。
「ネコが好きなのか」
「嫌いな人いないでしょ?」
「そうだな、いないな」
「チョコレートも嫌いな人いないでしょ?」
「甘いものはあまり…」
「うっそ!」
「そういうのは…」
「そういうのは?」
「いや、なんでもない。それより、嫌いなものは虫と言っていたな」
「そうね、大っ嫌い」
「玄関の大量の虫の死骸、あれは君が殺したのか?」
「………」
彼女は顔を歪め、喋らなくなった。
「すまない、余計なことを聞いたな」
「いいの。そうよ、私が殺したの。あの、ツシャって女がルールを説明した後、いきなり大量の虫が玄関の扉の隙間から入ってきたの。私、パニックになりながらいつも玄関に置いてある殺虫剤を全部使って殺したの。今思い出しても気絶しそう」
玄関の光景を思い出す。確かにあの量の虫がいきなり入ってきたら、虫嫌いでなくても発狂するだろう。
「私、あの虫たちの羽音が耳から離れないの。全部殺したはずなのに」
耳を塞ぎながらそう呟く彼女を見ていると、耳触りな羽音が聞こえてきた。思わず振り返って玄関への扉を見るが、何もない。彼女の狼狽ぶりを見て、こっちまで敏感になってしまっているようだ。
彼女が黙っている間、ツシャが言っていたルールを反芻する。なぜ会話をする必要があるのだろうか、会話をすることで何か知って欲しいことがあるのだろうか。それに、彼女の部屋になぜ虫が現れたのか、理由があるはずだ。何らかのルールに則った理由が。
「嫌だったら答えなくて良いんだが、なぜそこまで虫が嫌いになったんだ?」
「理由なんてないわよ、女はみんな虫が嫌いなのよ」
「そうか…でもさっきツシャが君に言ったルールを思い出してくれ」
「えっと…逃げないこと、拒まないこと、隠さないこと」
「そうだ。じゃあ何から逃げてはいけないのか。人が逃げる時は自分が危険な時、もしくは恐怖を感じた時だ。もし、逃げてはいけない対象が自分が恐怖しているものだとしたら、君の部屋に虫が現れたのも納得ができる」
「なによ、人の嫌いなもの出しておいて逃げちゃダメとか拷問じゃない」
「ただ嫌いだからと言う理由で虫が現れたとは考えにくい。残りのルールは拒まないことと隠さないこと。メイ、君には何か直面しないといけない何かがあるんじゃないか?そして、それは君の虫嫌いに関係している。そんな気がする」
「……」
メイは項垂れて、罪を認めるかのような口調で喋り始めた。
「わかった、白状するわ。私が8歳の頃よ、家族で買い物に行くために車に乗り込んだの。パパとママと妹、みんな大好きだったの。でも、みんな死んじゃった。車に蜂の巣が入れられてたみたいで、運転の振動で中に入ってた蜂が溢れ出したの。鋭い針が肌に突き立てられ、みんなの叫び声、景色がぐるぐるまわって気づいた時には病院のベッド。お父さんがアナフィラキシーで死んで、コントロールを失った車が建物に衝突、結果私だけが生き残ったらしいわ。私の家族は虫に殺されたのよ、だから嫌いなの」
「そうか、そうだったのか」
そんなことがあっては虫嫌いになって当然だ。だが、それと同時に違和感を感じる。彼女は虫を恐れているのは本当だ。それなのに、なぜ玄関から入ってきた大量の虫を殺せたのか。家族を虫に殺されて虫が嫌いになるどころかトラウマになってもおかしくない、もし自分がそうだったら虫の大群を見た瞬間、過呼吸を起こし気絶するだろう。彼女には虫以上に恐れている何かがある、そんな気がする。
少しだけ妙な考えが頭をもたげる。
「メイ」
「なに?」
「蜂の巣はどうしてあったんだ?」
「知らないわ、虫の考えることなんて。きっと車の中の方が過ごしやすかったんでしょ」
冷たい確信が背中を柔らかく撫でる。
「車のどこにあったんだ?」
「わからないわよ、車も大破してたから。蜂の巣と一緒にね」
「メイ」
「さっきからなに!?」
「君が蜂の巣を車に入れたのか」
自分が思いもしないような言葉が零れた。
「は……?」
どこかから羽音と悲鳴が聞こえる。焦げたような匂いがする。
「なにいってんの?意味がわからないわ」
「君が恐れてるのは虫じゃない」
言葉が次々と口から滑り落ちる。
「違うわ、怖いのは」
「恐いのはバレることだろう、君が家族を殺したことが」
喉さえ凍りついてしまいそうな、冷たい声が出る。
「違う!だって、パパとママが悪いのよ!?あたしを無視して、メアばっかり…!」
羽音が大きくなる。何十匹、何百匹、何千匹もの蜂が飛んでいる音がする。
「だから、あたし、いたずらのつもりで…!」
四方八方の壁から羽音が聞こえる。壁紙を剥がせば虫が溢れ出てきそうだ。
「どうして、あたしが……」
よく聞くと、羽音は彼女から聞こえてきている。彼女の中で何が渦巻いているのだろうか。
「いたい、いたい、いたいの」
彼女は体を丸めたまま動かなくなってしまった。先程まで聞こえていた羽音は嘘のように消え去り、痛いほどの静寂が耳を貫く。
キィと扉が開く音に気づき振り向くと、開いた扉の先にツシャが立っていた。
「ツシャ…」
「いや〜、お見事!心配でずっと見てましたが大丈夫みたいですね!」
「これのどこが大丈夫なんだ」
「大丈夫ですよ〜。ちゃんとルール通りお話ししてたじゃないですか、初めてにしては上出来中の上出来ですよ」
「これが正解なのか?彼女の今の姿が」
「正解は自分で見極めてください。少なくとも、これはあなたがしたことですから」
「誰のせいで…」
「次も期待してますよ♪」
そういうと、ツシャは手をひらひらと振りながら扉を閉める。
「……」
固まってしまった彼女を見下ろす。その姿はまるで蛹のようだ。
「すまなかった…」
自分を満足させるためだけの謝罪をし、部屋の扉を開ける。扉の先には、また違う部屋が広がっていた。次に行け、ということなんだろう。彼女に一瞥することもなく、次の部屋へと進む。
扉を閉める瞬間、後ろからなにかが割れる音がした。




