ツシャ
我々は信じている。
自分たちの住んでいる場所が安全だと信じている。
家族や友人が今も健やかに生きていると信じている。
自分という存在が確立されていると信じている。
それらを信じ得る根拠など、何一つないというのに
夢を見た。
ただ、どんな夢を見たのか覚えていない。
鏡の映る自分の顔が石膏のように白くなっているのを見るに、良い夢ではなかったらしい。
作業的な朝食を終え、服を着替える。
自分の人生を表しているかのようなグレーのシャツとシワだらけのズボン、いつもと変わらない格好をして部屋を出る。廊下にずらりと並ぶ扉と、刻まれた規則的な数字をぼんやりと眺める。
仕事があるわけでも、用事があるわけでもない、ただ何もしない時間を過ごすという苦痛から逃れるために忙しなく歩いてどこかへと行こうとする。
途中ですれ違う隣人に挨拶も交わさず、足早にマンションを出た。
時刻は8時17分、通勤通学の波に逆らって歩く。道ゆく彼らが感じている不安や焦燥に抗うかのように力強く歩く。
だが、30分も歩いていれば心臓は文句を言い始め、足は泣き言を言い始める。意味のない進軍を止め、近くの公園のベンチに座り込む。
穏やかな風が吹き、木々が囁き、鳥が談話をし、ブランコがキィキィと笑い声をあげている。
どうしてこうなった、と胸中で繰り返し呟く。自分の人生を繰り返し振り返っても答えは出ない。ただ、やってしまったのだという実感で思考が止まる。
時刻は9時ちょうど、空は灰色に汚れている。疲れの残った足を動かし帰路に就く。マンションに着く頃には雨が降り始めていた。
404号室、自室の扉を開ける。自分を迎えてくれる人はいない。はずなのだが、どうやら今日は違うらしい。
「あ、やっと帰ってきましたね」
白とも黒ともつかない色の服を着た青年が喋りかけてくる。ここが自分の部屋だと言わんばかりにくつろぎ、うちにはないはずの紅茶を飲んでいる。
「よかった、あなただけご予定がわからなかったから心配してたんですよ」
「誰だ」
「僕?僕はツシャ、ツシャ・デンタって言います。以後お見知りおきを」
「何の用だ。ここに価値のあるものはないぞ」
「あるじゃないですか。あなたですよ、あ、な、た」
ツシャは演劇のようなわざとらしい動きでこちらに指をさす。
「何をいって…」
「あ、いけない。さっさとしないとまた怒られちゃう。とりあえずルール説明をしますね?」
「ルール…?」
「簡単ですよ〜、このマンションの住民とお話しするだけです」
「このマンションにどれだけの人がいるのか知ってるのか」
「大丈夫です。こっちでお話しする人は決めてますから〜。じゃあ頑張ってくださいね?」
「………」
文句を言う間もなくツシャは消えてしまった。まるで、はなから存在していなかったかのように、紅茶の香りだけを残して消えた。
椅子に座り、漠然とした時間を過ごす。目の前には開かれることを期待しているかのようにドアが立っていた。




