第4話 ちゃんと怖がって
八月の終わりはまだ暑いけれど、夜になると風の中にかすかに秋の匂いが混じる。
夏休みも残り一週間を切っていた。
宿題は読書感想文が手つかずのまま残っている。課題図書は買ったが、まだ開いてすらいない。
午後八時。
ユキはリビングで夕飯の片づけを手伝っていた。お母さんが洗い、ユキが拭く。いつもの分担だ。
「ユキ、読書感想文終わったの?」
「……まだ」
「本は読んだの?」
「……まだ」
「あと一週間しかないのよ?」
「わかってる」
「わかってるって毎年言って最終日に泣いてるでしょ」
そのとき、スマホが震えた。画面にはいつもの『非通知』。
ユキは皿を拭く手を止めた。
「……ちょっとごめん」
「電話?こんな時間に?」
「友達。すぐ終わるよ」
皿を置いて、スマホを手に取り、二階に上がった。
自室のドアを閉めて、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「わたし、メリーさん」
いつもの、少し高い少女の声。
「今ね、あなたの家の前にいるの」
「また田中さん家?」
「違うもん」
少しむっとした声が返ってくる。
「今日は違うの。ちゃんと来たの」
「……ほんとに?」
「ほんとよ。見てみて」
ユキは半信半疑で立ち上がり、窓際に行った。カーテンを開ける。
街灯に照らされた、いつもの住宅街の道。
門の前に、誰かが立っていた。
白いワンピース。長い金髪。夜の暗がりの中で、街灯の光を受けて淡く浮かび上がっている。
小柄な少女だった。ユキより少し背が低いかもしれない。
その少女が、こちらを見上げた。
青い目だった。ガラス玉みたいに澄んだ、深い青。西洋人形のような顔立ち。白い肌。
あれが、メリーさん。
「…………いる」
「でしょ?」
電話の向こうで、メリーさんが笑った。同時に、窓の下の少女の口元が動くのが見えた。
「ちょっと待って。今行く」
通話を切って、部屋を飛び出した。階段を駆け下りる。
「ユキ?どこ行くの?」
リビングからお母さんの声。
「ちょっと外!すぐ戻る!」
玄関のドアを開けて、サンダルを突っかけて外に出た。
門の前に、メリーさんが立っていた。
近くで見ると、メリーさんは思ったより小さかった。ユキの肩くらいの背丈。白いワンピースの裾がかすかに夜風に揺れている。手には小さな紙袋を持っている。
「…………よく来れたね」
「当たり前よ」
メリーさんが自信満々に頷いた。
「どうやって?」
「Googleマップ」
「使えるようになったの?」
「……ユキちゃんに教えてもらったでしょ。青い丸が自分の位置って」
メリーさんが紙袋を差し出した。
「それで、これ、箱根で買ったの。寄木細工のコースター」
「……ああ、言ってたやつ」
「うん。あげるわ」
手のひらに収まるくらいの大きさのコースターだった。
複雑な幾何学模様。木の手触りが、ひんやりして心地いい。
「……ありがと」
「えへへ」
メリーさんは一歩下がって、姿勢を正した。
長い金髪を揺らし、青い目をまっすぐにユキに向けて。
「——わたし、メリーさん。今、あなたの目の前にいるの」
本来は「後ろにいるの」って言うんじゃなかったっけ、とユキは思った。
「ほら……怖いでしょ?」
ユキはメリーさんを見た。
白いワンピース。金髪。青い目。西洋人形みたいな女の子が、目の前に立っている。
教えてもいない番号に電話をかけてきて、知らないはずの居場所まで来る。
本来なら、怖いはずだ。
でも。
ユキの頭に浮かんだのは、ファミマを目印にして逆方向に歩いていくメリーさんだった。
桜台と桜が丘を間違えるメリーさんだった。
急行に乗ってしょんぼりするメリーさんだった。
松屋で始発を待つメリーさんだった。
箱根で寄木細工に夢中になるメリーさんだった。
「……うーん……」
「ちゃんと怖がってよ!!」
夏休みの夜に、メリーさんの声が響いた。
私もとんでもない方向音痴なんですよね。
メリーさんのほうが迷ってないかもしれない。




