第3話 逃げても無駄よ
夏休みも折り返しを過ぎた頃。桜庭家は毎年恒例の家族旅行で、箱根に来ていた。
古い旅館を改装した小さなホテルで、『翠山荘』という名前がついている。建物はそれなりに年季が入っているが、露天風呂から山の稜線が見えるのが売りらしい。
到着したのは昼過ぎだった。
チェックインを済ませ、部屋に荷物を置き、家族三人でロープウェイに乗って大涌谷まで行く。
黒たまごを食べたお父さんが「寿命が七年延びるぞ」と言い、お母さんが「寿命を伸ばしたいなら、血圧の方を気にしなさいよ」と返した。いつもの光景だ。
夕方には、ホテルに戻って温泉に入り、夕飯を食べた。
午後八時半。ユキは部屋の窓際に座って、旅行用に持ってきた文庫本を読んでいた。
隣のベッドではお母さんがもう横になっている。お父さんはロビーで缶ビールを買ってくると言ったまま戻ってこない。たぶんロビーのテレビでナイター中継を見ている。
スマホが震えた。画面には『非通知』と表示されている。
もはや日常の一部になりつつあるな、と考えつつ通話ボタンを押した。
「もしもし」
「わたし、メリーさん。逃げても無駄よ。どこにいても見つけ出すから」
メリーさんが怒ったような声で言う。
「逃げてないけど」
「……え?」
「普通に家族旅行に来てるだけだよ」
「…………あ、そうなの」
一瞬でトーンが素に戻った。
「でもね、わたし、ちゃんと追いかけてきたのよ」
「追いかけてきたって……ここ、箱根だけど」
「うん。箱根にいるわ」
ユキは少し驚いた。本当に来ているのか。あの方向音痴が、箱根まで。
「……マジで?」
「マジよ。電車乗り継いで来たの。今回はちゃんと駅名も確認したわ」
「へえ」
少しだけ感心した。
前回は桜台と桜が丘を間違えて隣の市に行っていた。それに比べたら、箱根までたどり着いたのは大きな進歩だ。
「それでね——わたし、メリーさん。今、あなたのホテルの前にいるの」
ユキは窓の外を見たが、山の斜面と、温泉街のぼんやりした灯りが見えるだけだ。
お母さんはベッドですうすう寝息を立てている。
「いないけど」
「おかしいわね……わたし、今ホテルの前に立ってるのに」
「ホテルの名前、なんて書いてある?」
「えっと……『翠』……『翠峰閣』」
「翠山荘だよ、うちが泊まってるの」
「…………」
ユキはこめかみを押さえた。
「ちなみに翠峰閣ってどこにあるの。周りになにが見える?」
「えっと……坂道があって……お土産屋さんがいっぱいある」
「それだけだと箱根のどこでもそうなんだけど」
「あっ、看板がある。『箱根湯本駅徒歩五分』って」
「湯本じゃん。うち、強羅だよ」
「ごうら?」
「湯本から電車でだいぶ上に行ったところ」
「…………同じ箱根じゃないの?」
「箱根ではあるけど、全然場所が違う」
メリーさんが黙った。電話の向こうで、旅館街のざわめきがかすかに聞こえる。
「……でもね、ユキちゃん」
「なに」
「わたし、大涌谷ってところまでは行ったわ。黒いたまごを食べたの。おいしかった」
ユキは思わず笑いそうになった。同じ日に同じ場所で同じものを食べている。
「……何時くらいのロープウェイに乗った?」
「えっと……お昼の一時くらい」
「うち、二時くらいに乗ったから、すれ違ってるかもね」
「えっ、そうなの!?惜しい!」
「惜しくないよ別に」
「惜しいわよ!あとちょっとで会えたのに!」
メリーさんがふてくされたように言う。
「……ねえ、でもわたし、ちゃんと箱根まで来たのよ?」
「ああ、うん…すごいね」
「ほんと?」
「うん」
「褒められたわ。ユキちゃんに褒められた」
メリーさんの声が、ふわっと明るくなった。嬉しそうだ。
「……で、どうするの。湯本から強羅まで来る?箱根登山鉄道で二十分くらいだけど」
「ううん。やめておく」
「え?」
「せっかく箱根まで来たんだもの。もう少し観光してから帰ろうかなって。黒たまごおいしかったし、温泉も入りたいし」
「完全に旅行じゃん」
「だって箱根よ?来たことなかったの。お土産屋さんもいっぱいあるし、あと寄木細工っていうのが気になって——」
「あんた何しに来たの?」
「…………あっ」
思い出したらしい。
「ま、まあそれはそれとして。次はちゃんとそっちに行くから」
「うちは明日帰るけどね」
「えっ」
「旅行だから。一泊だよ」
「…………じゃあ、次はお家に行くわ。今度こそ」
「はいはい」
「じゃあ、おやすみなさい。ユキちゃん。わたし、もうちょっと温泉街ぶらぶらしてから帰る」
「……好きにしなよ」
通話が切れた。
ユキは窓の外を見た。山の斜面に温泉街の灯りが点々と続いている。あのどこかを、怪異が観光している。シュールにもほどがある。
文庫本に目を戻した。三行読んで、ふと思った。
あいつ、湯本からちゃんと帰れるんだろうか。
スマホを手に取る。SMSの画面を開いて、少し迷ってから打った。
『帰りは小田原まで出て、小田原から電車に乗りなよ。小田原は終点だから乗り過ごさない』
『ありがとう。小田原ね。覚えた!』
十五分後。
『小田原に着きました!乗り換えも大丈夫そうです!』
……成長してる。
『気をつけて帰りなよ』
『うん!おやすみなさい、ユキちゃん』
五分後。
『お土産に寄木細工のコースター買いました。今度会えたら渡すね』
ユキはスマホを伏せて、布団にもぐりこんだ。
怪異からお土産をもらう日が来るとは思わなかった。




