EP 7
お忍びの将軍様
十兵衛に案内されたのは、神田川沿いにある大衆居酒屋(当時は煮売屋と呼ばれる飯屋)だった。
狭い店内は、仕事を終えた職人や町人たちの熱気と、醤油が焦げる匂いで充満している。
「……で、肉はねぇのかよ。牛か豚」
「牛や馬は農耕の役に立つ獣だ。食うわけがなかろう。……ほら、大根の煮付けと焼き魚だ。食え」
「マジか……。タンパク質が足りねぇ……」
出された焼き魚を骨ごとバリバリと噛み砕きながら、信長は深く溜息をついた。
栄養素としては悪くないが、レンジャーの過酷なカロリー消費を補うには、やはり『肉』の脂とガツンとした食べ応えが必要だ。
そんな文句を垂れる信長を見て、十兵衛は可笑しそうに酒盃を傾けていた。その時である。
「——ほう。ここにおったか、十兵衛」
騒がしい店内の喧騒を切り裂くように、よく通る声が響いた。
入口に立っていたのは、身なりこそ町人のように崩しているが、隠しきれない気品と威圧感を纏った男だった。年齢は信長や十兵衛と同じ、二十代後半といったところか。
その男の顔を見た瞬間、十兵衛の隻眼が驚愕に見開かれ、手に持っていた盃の酒がピシャリとこぼれた。
「た、竹……っ!?」
「静かにしろ。お忍びだ。今は旗本の三男坊、『竹千代』と名乗っておる」
十兵衛の慌てぶりは尋常ではなかった。あの柳生の天才剣士が、冷や汗を流して直立不動になりかけている。
だが、信長は全く空気を読まなかった。人間観察パラメーター『1』の平常運転である。
「なんだ、十兵衛のツレか? 竹千代っていうにゃ、随分と老け顔じゃねぇか」
焼き魚を咀嚼しながら、信長は面倒くさそうに男——竹千代を見上げた。
十兵衛が「ヒッ」と短い悲鳴を上げる。
「き、貴様、言葉を慎め信長! このお方は——」
「よい、十兵衛。今日は無礼講だ」
竹千代は扇子で十兵衛を制すると、興味深そうに信長の対面の席にどっかりと腰を下ろした。
(この男……徳川家光。現・日本国の最高権力者である三代将軍、その人である)
家光は、剣術をこよなく愛する武断派の将軍だ。
「柳生新陰流の門弟三人をごろ寝させ、十兵衛と互角に打ち合った異装の男」。そんな噂を聞きつけ、城の窮屈な執務から逃げ出して、自らお忍びでやってきたのだ。
「お主が『信長』か。親父殿(宗矩)の門弟をコケにし、我が剣の師である十兵衛と引き分けたと聞いた。……どうだ、余——いや、俺の召し抱えにならんか?」
「はぁ?」
高圧的、かつ絶対的な自信に満ちたスカウト。
だが、信長は手元の茶碗に無造作に酒を注ぐと、ドンッと家光の前に置いた。
「俺はダチのツレなら身分は気にしねぇ。が、いきなり上司面する奴の下で働く趣味はねぇよ。……将軍様だろうが何だろうが、同じ席に座ったなら、とりあえず飲めや」
空気が、完全に凍りついた。
十兵衛の顔面は蒼白になり、家光の背後に密かに控えていた護衛の御庭番たちが、殺気を放って柄に手をかける。
「打ち首」という言葉が、十兵衛の脳裏をよぎった。
だが——。
「……ふっ」
家光の口から漏れたのは、怒りではなく、押し殺したような笑いだった。
「はははっ! ガァッハッハッハ!!」
やがて、家光は腹を抱えて大爆笑し始めた。
生まれながらの「将軍」として、常に周囲から畏怖と阿諛追従を受けてきた家光。誰も自分に対して対等に口を利かない孤独な頂点。
そこに、身分も肩書きも一切気にせず、「とりあえず飲め」と安酒を突きつけてくる男が現れたのだ。
「面白い! 実に面白い男だ! まるで本当に上総介(信長)公の再来ではないか!」
家光は、出された安酒を一気に飲み干した。
「気に入ったぞ、信長! 俺は竹千代、お前の『悪友』としてこの席に加わろう!」
「おう。俺は坂上信長だ。よろしくな、竹千代」
完全に意気投合して盃をぶつけ合う二人を前に、十兵衛は深い、深い溜息をついた。
(……この男、自分の『政治音痴』が結果的に上様の心を一番掴んでいることに、全く気づいていない……!)
「だが、メシが物足りねぇな。魚ばっかりだ」
「ほう。ならば何が食いたい?」
「肉だよ、肉。……よし、明日時間あるか? お前らに、戦士の『本物の肉料理(野戦食)』ってやつを食わせてやる」
こうして、現代のレンジャー、柳生の天才剣士、そして天下の将軍様という、江戸時代最強にして最凶の『悪友トリオ』が誕生したのである。




