EP 4
江戸城下の波紋
「……たわけがッ!!」
バキィッ! という乾いた音と共に、分厚い漆塗りの扇子が真っ二つにへし折られた。
江戸城下、柳生藩邸。
将軍家剣術指南役にして、幕政にも深く食い込む柳生宗矩は、額に青筋を立てて眼下の門下生を睨みつけていた。
「ゆ、指先から妖しい炎を出し……腹の中から奇妙な音を響かせる、南蛮風の男でして……ッ! 抜刀すらしておらぬのに、一瞬で我ら三人が地に伏せられ……」
「黙れ! 言い訳など聞きたくもないわ!」
平伏してガタガタと震える門下生(先ほど逃げ帰った男である)の報告に、宗矩の怒気は頂点に達していた。
彼が怒っているのは、門下生が負けたこと自体ではない。
「将軍家御指南役である『柳生新陰流』が、素手の、しかもどこの馬の骨とも知れぬ若造に無傷で制圧された」という事実である。
これは柳生家のブランドに関わる、重大な政治的失態であった。
「しかも、上総介(織田信長)公の名を騙る狂人だと? ……そのような野良犬一匹に泥を塗られたとあっては、柳生の示しがつかん」
宗矩が忌々しげに吐き捨てた、その時だ。
「——面白そうな話をしているじゃねぇか、親父殿」
障子がスッと開き、一人の男が飄々とした足取りで部屋に入ってきた。
片目を覆う黒い眼帯。ボサボサの髪に、無造作に着崩した着物。
柳生新陰流の正統な後継者にして、その剣の才は父・宗矩をも凌ぐとされる天才剣士——柳生十兵衛(25歳)である。
「十兵衛か……。遊び歩いている暇があるなら、貴様がその男の始末をつけてこい」
「始末、ね。俺の剣は親父殿の政治の道具じゃねぇんだが」
「口答えをするな。その男の腕が本物ならば生け捕りにしろ。ただの狂犬ならば……斬れ。柳生の威信にかけて、他流派より先に見つけ出すのだ」
十兵衛は「やれやれ」と肩をすくめながらも、残された隻眼の奥に、猛禽類のような鋭い光を宿した。
(素手で柳生の門弟三人をごろ寝させた男、か……。久々に、骨のある奴に出会えそうだ)
***
時を同じくして。
柳生家のライバルであり、もう一つの将軍家指南役である小野派一刀流の道場では、豪快な笑い声が響き渡っていた。
「ガァッハッハッハッ! 傑作よ! あの気位ばかり高い柳生の連中が、素手の男に転がされただと!?」
小野忠常は、酒盃をあおりながら腹を抱えて笑い転げていた。
「指先から火を出す妖術使いの『信長』ねぇ。……おい、お前ら! 柳生の連中より先に、その男を見つけ出せ! 我が小野派の客分として丁重に迎え入れ、宗矩の古狸の鼻を明かしてやるわ!」
「ははっ!」
***
こうして、「謎のレンジャー・信長」の存在は、江戸の剣術界を二分する二大勢力に火をつけた。
柳生は『捕縛・暗殺』のため。
小野は『スカウト』のため。
そんな権力者たちの思惑など露知らず、当の信長は江戸の町を腹を空かせて彷徨っていた。
「……あー、クソ。どこかに焼肉屋とかねぇのかよ。タンパク質が足りねぇ……」
グゥ、と情けない音を鳴らす腹を押さえながら、信長は人通りの少ない路地裏へと足を踏み入れた。
——その路地の先に、隻眼の天才剣士が待ち構えているとも知らずに。




